2014年12月4日木曜日

87号「フィリピの信徒への手紙」まえがき


12月上旬発売






特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税






まえがき


「とにかくキリストが告げ知らされているのですから」(フィリ一18)というパウロの言葉に共鳴しつつ、今号のインタープリテイションはフィリピの信徒への手紙という短いけれども神学的、倫理的に豊かな内容をもつ書簡の中心テーマを探求する五本の論考を掲載する。
 



ジョセフ・マーシャルはフィリピの信徒への手紙の主な解説者たちがとってきた伝統的なアプローチを概観している。

この書簡の中心的なテーマとレトリックの構図についての概要からはローマイアーやケーゼマンなど重要な解釈者が互いに異なるアプローチをしていたことが明らかになる。

また、パウロがイエス・キリストの例とパウロ自身の例に倣い、謙遜な従順を勧めているとする最近の解釈が提起する深い倫理上の問題に焦点が当てられている。
 



キャサリン・グリーブはパウロがフィリピの信徒に勧める一体性が教義上、あるいは倫理上の一致ではなく、救世主イエスが示した自己を空しくする態度であると示すことでこの問いに答えている。

「教会はキリストの思いを獲得し、それを育むべきであるとパウロは示唆する。

キリストは他の人たちの幸福のために自らを献げ、他の人たちが高められるべく自らを卑しくしたのだから、必然的にパウロは直観に反する対抗文化的な道徳についての想像力をもった行為も意図していたはずである。

つまり、他の人を『キリストが(その人たちのために)死んでくださった』兄弟姉妹として見ることがそこでは意図されている」。


 

L・グレゴリー・ブルームクウィストは自らの苦しみの中に喜びを見出すというパウロの衝撃的な主張をパウロと同時代のギリシャ・ローマの著述が悲観的で、総じて喜びに欠いた展望しかもたなかったことを巧みに対比させている。

「パウロはまさに自分の苦しみの経験のうちに、そのあり得ない喜びを見出していたのである。

それは苦しみと避けられない死のうちに、また、それゆえにフィリピの信徒たちのような人々がキリストにおいて命を得るのを見出したからである」。




 


ジョン・フィッツジェラルドはヨハネ福音書とパウロ書簡(特にフィリピの信徒への手紙)における友情を探求している。

両者はともに最終的にはキリスト教の友情の基礎を神の愛においているけれども、いくつかの点で大きく異なっている。

ヨハネがイエスと弟子たちの関係に重点を置いているのに対して、パウロが親類関係の言語を用いて、友情関係を神と共有する関係とみなしている。

「フィリピの人たちが苦難のうちにあったパウロを見捨てなかったということは、パウロと友情関係にあり、彼らが継続して福音にともに参与しているという実情についての明らかな証明」であるとフィッツジェラルドは論じる。


ジェームズ・トンプソンはフィリピの信徒への手紙による説教について論じている。


歴史批判、レトリックを用いた批判、様式批判などの分析方法を用いることで、直感的な解釈を越えて、フィリピの信徒への手紙の深い理解に繫がる説教をつくるための手引きがそこでは提供されている。

 


ジェームズ・A・ブラシュラー
サミュエル・E・バランタイン

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