2014年5月29日木曜日

85号「ヨハネ福音書と教会」目次





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特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月(14年6月2日発売予定)
定価2000円+税





まえがき

R・アラン・カルペッパー
ヨハネ福音書における「教会」を求めて

ヨハネによる福音書は当初から「教会の福音書」として受け入れられてきた。最初の注解書はどの新約の巻についてもヨハネ福音書に基づいて書かれた。その詩的なプロローグ、美しさと高遠なキリスト論においてヨハネ福音書に並ぶものはない。その言葉は他のどの書よりも初期教会の教会会議を導き、正統のキリスト論に明確な表現をもたらしてきた。

 
フランシス・J・マローニー

聖書の「終わり」──ヨハネによる福音書──

ヨハネによる福音書にはイスラエルの聖典、旧約聖書からの明白な引用が見られる。その引用は十字架の上でのイエスの最期の言葉をもって幕が閉じるように組み立てられている。イエスの言葉は常に聖書の成就として表現されるが、聖書そのものとして捉えられることもある。ヨハネ福音書はイエスをイスラエルの聖典の継続と完成として表現している。。


メアリー・L・コロエ
ヨハネ福音書における神殿のイメージ

第四福音書の物語は神の住まいとしてのイスラエルの神殿の意味の転換の過程を示している。神殿は建造物からイエスという人物へ、そして信仰共同体へとその意味を変化させていく。



アディール・ラインハーツ
ヨハネ福音書の中のユダヤ教

ヨハネによる福音書は神の言葉を介した神と人類の宇宙的な調和という気高いビジョンを描いている崇高な神学書である。しかし、それと同時に、信者ではない者を中傷し、「ユダヤ人」という歴史上の一集団を不信心な者と見なして、その後、何世紀にもわたるキリスト教の反ユダヤ主義にかなりの影響を与えてきた。ここではヨハネ福音書におけるユダヤ人、ユダヤ教についての正負両方の描写を検証し、二一世紀の読者がこの問題の多い話題とどのように対処したらよいのかを提案する。


テクストと説教の間
ヨハネによる福音書7章37─39節 (バーバラ・E・リード)

ヨハネによる福音書7章53節─8章11節 (フランシス・T・ジェンチ)

ヨハネによる福音書11章28─37節 (J・S・ランドルフ・ハリス)


 書評紹介 
クレイグ・R・ケスター著『命の言葉─ヨハネ福音書の神学』

マーヴィン・スウィーニー著『注解 列王記上・下』

トーマス・G・ロング著『回想から希望へと至る説教』


2014年5月24日土曜日

「わたしは道である」

 
〈書評〉クレイグ・R・ケスター著
『命の言葉 ─ ヨハネ福音書の神学』
Craig R. Koester, The Word of Life: A Theology of John’s Gospel. Eerdmans, Grand Rapids, 2008. 259pp. $21.00. ISBN 978-0-8028-2938-2.


ケスターは現代におけるヨハネ福音書の読者が提起する問いを終始真剣に取り上げる。

ヨハネ福音書の物語にしみこんでいる反ユダヤ的レトリックとその危険性この福音書を説教したり教えたりする者すべてにとって深刻な倫理的問題─にもっとはっきりと注意を促すべきと考える者もいるだろう。

しかし、ヨハネ福音書の中で目下のところ最も論争の的となっている言葉、すなわち一四章6節のイエスの主張、「わたしは道であり、真理であり、命である。

わたしを通してでなければ、誰も父のもとに来ることはない」には細心の注意を払っている。

この言葉は信徒の間でも論争の種になってきた。

多くの人はその排他的な響きに問題を感じ、様々な宗教が多元的に共存する世界では全く厄介なものと見ているが、その一方で、この言葉は真正なキリスト教信仰のリトマス試験紙とも見られている。

ケスターはこの言葉について、ヨハネ福音書の物語の文脈において最も包括的な主張のひとつであり、すべての人が神から切り離されているという人間の根本的な問題を表現していると論じている。

「誰も父のもとに来ることはない」にはすべての人が含まれているのだ。

ケスターの考えでは、人間の状況に関するこの否定的な評価がイエスを道として肯定的に提示するヨハネ福音書の根底にはある。 



ヨハネ福音書がイエスを道と見るのは神との関係を閉ざすためではなく、罪によって切り離されてしまった人間と神の関係を繫ぐためである(一四6a)。

「でなければ」という語は……「誰も父のもとに来ることはない」という定言的判断が最終決定ではないことを意味する(一四6b)。

「でなければ」は閉ざされた部屋に光を入れる窓のようなものであり……神への通路を制限するのではなく、神への通路をつくり出すものなのである(211頁)。



さらに、ケスターはヨハネ福音書のメッセージがもつ特殊な面と普遍的な面は同時に聞くべきと主張する。

第四福音書は普遍的な視野をもって特殊なメッセージを発しているからである。



ヨハネ福音書は宗教間の論争で取り上げられたことがないわけではない。

この文脈においてヨハネが示そうとしているのは、神がイエスにおいてなしたことを通してのみ神は知られるということである。

ヨハネが読者の生きる多元的な世界に語りかけることができるのは、差し出すべき何か独自のものがそこにあるからである。

福音書記者の理解では十字架にかけられ、復活した救い主を通してのみ神の愛は伝えられるのだから、そのメッセージの特殊性を損なうということは、神の愛の根本を損なうことなのである。

またそれと同時に、ヨハネの理解では、神の愛はこの特殊な形で世に与えられるとされている(三16)(214頁)。


 (インタープリテイション85号「ヨハネ福音書と教会」





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特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月
定価2000円+税




2014年5月19日月曜日

ヨハネ福音書における十字架の出来事




フランシス・マローニーは「ヨハネ福音書におけるイエス磔刑の物語はイエスに起こったことというより、イエスが信仰者たちに何をするのかを語っている」という鋭い見解を述べている。

最初に気づかされるのは、ヨハネ福音書が他の記事に見られる十字架上のイエスのへ嘲り、悔い改めた盗人との会話、第三、第六、第九の時刻、全地を覆う闇、神殿の垂れ幕が裂けたこと、地震、百人隊長の告白、墓が開いたことなど、多くの細部が省かれていることである。

 

その代わりに、イエスの死に関する伝承のうち

(1)イエスの罪状書き、


(2)衣服を分けたこと、


(3)イエスの母と〈愛された弟子〉への言葉、
 

(4)イエスの渇きと最後の言葉

に焦点を合わせ、それぞれについて共観福音書よりも詳しく記録している。

 

このそれぞれには教会がどうあるべきかを定義する派生的な意味があると考えられる。


R・アラン・カルペッパー
ヨハネ福音書における「教会」を求めて
 (インタープリテイション85号「ヨハネ福音書と教会」




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特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月
定価2000円+税







2014年5月14日水曜日

無関心と不寛容の現代文化



R・バイヤーズ
申命記6章1-15節(テクストと説教の間)
81号「ほかに神があってはならない」より

 


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その関与は特定的であれば、その特定性ゆえに排他的なものとなる。

しかし、あることに関与しているからといって他のことを拒絶するというのは了見が狭くないだろうか。

忠誠を要求する者の中から忠誠の対象を識別するというのは実は心が狭いことなのではないだろうか。

自動車であれ、不動産業者であれ、経済理論であれ、哲学であれ、神学であれ、神々であれ、それぞれは実際には等価であり、そのうちからひとつを選択する必要などないのではないだろうか。


何らかの信仰に身を投じるときには、非常に重要な何かが問われることになる。

カンタベリー大主教であったウイリアム・テンプルはかつて



「もし神について間違った認識をしているのであれば、信仰深くあればあるほどその人にとってよくない。無神論者であった方がいい」


と述べたという。


神のことを遠くにいて、冷淡で、無関心な存在と思いながら、その神に関わっているとしたら、それは問題ではないだろうか。

もしくは、神はわれわれが嫌悪する相手を同じく嫌悪すると思いながら、その神に関わっているとしたらどうだろうか。

あるいは、お気に入りの者にはよいものを与え、気に入らない者は苦痛で悩ます神と考えているとしたらどうだろうか。

われわれには何も求めず、試練も与えず、われわれが熱心に取り組む課題に割って入るようなことは決してない神にすべてを託しているとしたら、それは問題ではないのだろうか。

気分や興味の対象が変わるたびに、今はこの神、次はあの神と、神々の中からその時々に好きなものを選んで信じる方がよいのだろうか。

申命記で神が「妬む神」とされているのは些細な理由からではなく、世界の繁栄とわれわれの幸福がわれわれの仕える神の性格にかかっているからなのである。










特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
2000円+税






2014年5月9日金曜日

ヨハネ福音書における教会と個人(2)



それと同時に、ヨハネ福音書は教会の一体性を強く強調する(一〇16、一一52、一七20以下)。

そのことが示唆するのは教会の一体性に問題があったということである。

ヨハネ書簡はヨハネ福音書における教会概念から問題が生じていたことを示している。

ヨハネ福音書は教会とナザレのイエスの間にあった隔たりを橋渡ししたが、それによって教会は歴史から切り離されかねない危険にさらされることになった。

第四福音書は「〈子〉のうちに〈父〉の栄光を認めた者はあらゆるものをもっており、他には何もいらない」と主張しているが、ヨハネ書簡は「教理においては正統、実践においては慈善」を主張する。

それゆえ、信仰者はキリストだけでなく、正統主義の教義のうちにもとどまらなければならないことになる。

ヨハネ福音書の教会概念は見事ではあるが、欠点もある。

個々の信仰者と受肉したロゴスの間にきわめて明瞭に一体性を見るが、それはグノーシス主義への道を開くことであった。

そのため、初期教会はヨハネ文書を受け入れたが、必要なバランスをとり、軌道修正するためにそれらを共観福音書とパウロ書簡の横に並べて置くことにしたのである。


R・アラン・カルペッパー
ヨハネ福音書における「教会」を求めて
 (インタープリテイション85号「ヨハネ福音書と教会」




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特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月
定価2000円+税







2014年5月4日日曜日

ヨハネ福音書における教会と個人(1)



キリストのうちにある者はすでに命を得ているのであるから、ヨハネ福音書は各人の信仰の行いを強調する。

「信仰者のキリストとの直接的な結びつきが強調されればされるほど、その人はより明確に個人として見られる」。

その結果、さまざまな聖霊の賜物、つまり、教会の務めは後退し、ヨハネ福音書はひとつの賜物、すなわち〈子〉による〈父〉の啓示に焦点を合わせることになる。

ヨハネ福音書による神学的方向づけの影響は最終的には「個人のキリストとの直接的で完全な結びつきが教会の規則にその刻印を残す」ことになった。

まさに、「教会規則などというものはまったくない」。

〈父〉を見た信仰者はすべてを得るのである。


R・アラン・カルペッパー
ヨハネ福音書における「教会」を求めて
 (インタープリテイション85号「ヨハネ福音書と教会」




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ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月
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