2014年12月28日日曜日

「後 記」87号フィリピの信徒への手紙


  87号「フィリピの信徒への手紙」 後 記

◎このところ「ユダヤ教からみた新約聖書」というアプローチの著作や研究に接することが多い。

手頃なところでは『ユダヤ教の福音書』(教文館刊)がコンパクトで読みやすい。

ユダヤ教の視点からの解説付き新約聖書というものもある(英語版)。

イエスはもちろん、最初のキリスト教徒はすべてユダヤ教徒であったが、新約聖書とユダヤ教となると、どうしても聖書に登場する律法学者やサドカイ派が頭に浮かび、「キリスト教の中のユダヤ教」になりがちだ。

それを現代のユダヤ教から見る当時のユダヤ教という視点からキリスト教、新約聖書を見るのである。

少し古いが『ユダヤ人から見たキリスト教』(山本書店刊)はこの状況を先取りして日本に紹介した好著と言える。
 


◎「新約聖書の主要登場人物の中で最もユダヤ的なクリスチャンは誰か」という問いを設定してみた。

しばし考えて選んだ答えはパウロであった。

もちろん、パウロはユダヤ教と決別したわけだが、「ユダヤ教から見たキリスト教」という視点からは、パウロは一体ユダヤ教のどの部分と決別したのかという問いも生じてくる。
 



◎イエスの出来事について文書として残されている最も古い証言がパウロのものであることは見逃されがちなことではないだろうか。

七〇年代にマルコ福音書が成立する以前、五〇年代にパウロ書簡は書かれている。


 

◎本号は「パウロの教会論」とでも邦題をつけたくなるような特集であった。

つまり、フィリピの信徒への手紙には教会史のかなり早い時期における教会論が記されていることになる。

ヨハネとパウロの比較は本号でもなされているが、前々号の「ヨハネ福音書と教会」はヨハネの教会論であった。ヨハネ文書の成立は九〇年代とされる。

パウロと初期の教会について改めて考えを巡らせてみたくなる論考に多く出会えたように思う。
 (M)





 

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2014年12月21日日曜日

パウロの苦しみと喜び


L・G・ブルームクウィスト
「喜びによる反転
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)



歴史批判的研究はパウロの世界を理解する助けとなる資料を利用できるようにすることで聖書研究に大いに役立ってきた。

歴史批判的研究の手段を通じて、テクストとその構成部分が適合する規範的な歴史的、文化的背景を確定することができる。

そのような研究はフィリピの信徒への手紙のような手紙を理解するときの背景を教えてくれる。



 しかし、歴史批判的研究は聖書の記者が現実をどのように「引き受け」、それを再創造したか、またレトリックを用いて言えば、新たな文化をつくるための新たな言説をどのように「発明した」かを常に示してくれるわけではない。

フィリピの信徒への手紙を新たな言説の発明として読むとき、苦しみと死について予期されることにかかわる既存の文化的筋書きを用い、同じ現実へのもうひとつのアプローチをつくり出すためにその筋書きを再構成したものと理解することができる。

フィリピの信徒への手紙におけるパウロは苦しみと死が全体に行き渡った世界を前提とすることで、他のことでは喜びがあり得ない世界への新たなアプローチを発明し、福音のための苦しみと死をまさに喜びと命への道とすることで、苦しみの回避ではなく、苦しみを直観に反して受け入れることを求める新たな態度と行動を強く促したのである。


 

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2014年12月14日日曜日

ヨハネにおける友情 パウロにおける友情




ジョン・フィッツジェラルド
「キリスト教徒の友情
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)


イエスの死は友情に関するヨハネとパウロそれぞれの概念に重大な役割を果たしているが、そこには著しい違いも見られる。

パウロにとって神がキリストの信仰者と和解し、自らの友人とするのは、キリストの死において、キリストの死を通してである。

それゆえ、キリスト教徒の友情は神との和解と友情、信徒相互の友情の基盤を形成するキリストの死による神の和解の行為と分かちがたく結びついている。ヨハネの思想においてもイエスの死は重要であるが、イエスとの友情の基盤とはされていない。

弟子たちはイエスが自分たちのために十字架に赴く時点で、すでにイエスの友人なのである(ヨハ一五15)。

要するに、ヨハネによる福音書においては、イエスの磔刑はイエスの言葉によってすでに清められている(ヨハ一五3。一三10も参照)友人たちのための死なのである(ヨハ一五13)。

一方、パウロにとっては、イエスの死は友人たちのためのものではなく、不信心な者たちや罪人たち、敵のためのものであり(ロマ五6、八10)、神的なものとの友情を可能にする出来事なのである。


 

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2014年12月8日月曜日

キリスト賛歌のレトリック



ジョセフ・マーシャル
「キリスト賛歌のレトリック
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)



この賛歌がパウロの手紙に先立って存在し、用いられていたという説が正しいとすれば、この種の賛歌の多面的な機能が用い易いものであることは容易に想像できるだろう。

この賛歌はいくつかの異なる背景を同時に仄めかしたり、それらを結合させたりすることもできる。

共同体の様々なメンバーに訴えかければ、単一の伝統ではなく、いくつかの伝統を統合し、結びつける力となり得る。

これが礼拝の中で賛歌として使用されていたのだとすれば、神とキリストにまつわる神学的な考えを伝えていた可能性も排除できない。

さらに言えば、この賛歌が劇的に神話を用いて逆転を物語っているからといって、神話のもつ社会形成作用の側面が除外されるわけではない。

ひとつのイメージが救済的であると同時に模範でもあることもあるのである。

このような神学的信念と共同の行為がこうした賛歌に触れる者の生活に実際的で政治的な影響を与えないわけがない。

そこでは家庭、街、そして帝国の運営といった事柄を含む古代の文脈の中で交錯した領域の倫理が反省的に捉えられているのだ。

この賛歌のイメージが現代においても継続して有用であり、現代にも適用可能であると考えるとき、そのような交錯点は現代の様々な文脈においてわたしたちを立ち止まらせるだろう。


 


特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2014年12月5日金曜日

87号「フィリピの信徒への手紙」 目次



12月上旬発売

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742721/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742721&linkCode=as2&tag=mmiyas-22

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税




まえがき




J・A・マーシャル (榊原芙美子・訳)Joseph A. Marchal
「キリスト賛歌」のレトリック ──パウロ解釈序論──

    フィリピの信徒への手紙は綿密でダイナミックなレトリックそのものであるが、パウロ解釈においては見過ごしにされることがあまりにも多い。よく知られた 「キリスト賛歌」を中心にこの手紙の議論全体を注意深く批判的に分析することで、この非常に重要な文書がもつ倫理的・政治的側面に同調する解釈がもたらさ れる。

A・K・グリーブ (吉谷かおる・訳)A. Katherine Grieb  
フィリピの信徒への手紙と神の政治
    パウロはフィリピの共同体に「同じ思い」をもつことを強く勧めるが、教義や倫理の問題についてフィリピの人たちに画一性を求めたわけではない。むしろそれ はキリスト・イエスの思いを自分たちのうちにもつようにという命令であり、他者の利益を考えるようとするものである。今日、この「同じ思い」を採り入れれ ば、教会は共同体を築き上げる新しい実践を見出すことになるだろう。

L・G・ブルームクィスト (吉谷かおる・訳)L. Gregory Bloomquist
喜びによる反転 ──フィリピの信徒への手紙における苦しみと喜び──
    フィリピの信徒への手紙はレトリックを用いて苦しみと喜びを再構成している。苦しみと喜びは織り合わされることにより、主題となるだけではなく、手紙全体の背景をなすつづれ織りとなるのである。

J・フィッツジェラルド (山野貴彦・訳)John Fitzgerald
キリスト教徒の友情 ──ヨハネ、パウロ、フィリピの信徒への手紙──
    ヨハネとパウロはともに愛を友情の基礎としている。ところが、彼らの思い描いていることは重要な点で異なっている。ここではヨハネとパウロの友情理解について簡潔に議論し、フィリピの信徒への手紙においてパウロが友情に関する言葉をどのように用いているかについて考える。
J・W・トンプソン (古本みさ・訳)James W. Thompson
フィリピの信徒への説教
    古代のテクストと現代の教会の間に距離があると感じるとき、説教者はキリスト教が主流になる以前の時代に生きた脆弱なキリスト教徒たちに向けて語られた言 葉が何世紀もの時間を飛び越えて、キリスト教が中心ではなくなった時代に生きるキリスト教徒に語られていることに気づくはずである。



テクストと説教の間
ルカによる福音書14章25―27節(C・ブリッソン/石田雅嗣・訳)
ヨハネによる福音書6章25―35節(S・ファウル/石田雅嗣・訳)
コロサイの信徒への手紙1章15―28節(R・N・クリステンセン/吉岡誠悦・訳)



 書評紹介(榊原芙美子・訳)
    ロルフ・レントルフ著『正典としてのヘブライ語聖書──旧約聖書の神学──』
    フランク・C・セン著『民の業──典礼の社会史──』
    カレン=マリー・ユストほか編『子どもと未完成の霊性を育む──世界の宗教伝統からの視点──』


2014年12月4日木曜日

87号「フィリピの信徒への手紙」まえがき


12月上旬発売






特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税






まえがき


「とにかくキリストが告げ知らされているのですから」(フィリ一18)というパウロの言葉に共鳴しつつ、今号のインタープリテイションはフィリピの信徒への手紙という短いけれども神学的、倫理的に豊かな内容をもつ書簡の中心テーマを探求する五本の論考を掲載する。
 



ジョセフ・マーシャルはフィリピの信徒への手紙の主な解説者たちがとってきた伝統的なアプローチを概観している。

この書簡の中心的なテーマとレトリックの構図についての概要からはローマイアーやケーゼマンなど重要な解釈者が互いに異なるアプローチをしていたことが明らかになる。

また、パウロがイエス・キリストの例とパウロ自身の例に倣い、謙遜な従順を勧めているとする最近の解釈が提起する深い倫理上の問題に焦点が当てられている。
 



キャサリン・グリーブはパウロがフィリピの信徒に勧める一体性が教義上、あるいは倫理上の一致ではなく、救世主イエスが示した自己を空しくする態度であると示すことでこの問いに答えている。

「教会はキリストの思いを獲得し、それを育むべきであるとパウロは示唆する。

キリストは他の人たちの幸福のために自らを献げ、他の人たちが高められるべく自らを卑しくしたのだから、必然的にパウロは直観に反する対抗文化的な道徳についての想像力をもった行為も意図していたはずである。

つまり、他の人を『キリストが(その人たちのために)死んでくださった』兄弟姉妹として見ることがそこでは意図されている」。


 

L・グレゴリー・ブルームクウィストは自らの苦しみの中に喜びを見出すというパウロの衝撃的な主張をパウロと同時代のギリシャ・ローマの著述が悲観的で、総じて喜びに欠いた展望しかもたなかったことを巧みに対比させている。

「パウロはまさに自分の苦しみの経験のうちに、そのあり得ない喜びを見出していたのである。

それは苦しみと避けられない死のうちに、また、それゆえにフィリピの信徒たちのような人々がキリストにおいて命を得るのを見出したからである」。




 


ジョン・フィッツジェラルドはヨハネ福音書とパウロ書簡(特にフィリピの信徒への手紙)における友情を探求している。

両者はともに最終的にはキリスト教の友情の基礎を神の愛においているけれども、いくつかの点で大きく異なっている。

ヨハネがイエスと弟子たちの関係に重点を置いているのに対して、パウロが親類関係の言語を用いて、友情関係を神と共有する関係とみなしている。

「フィリピの人たちが苦難のうちにあったパウロを見捨てなかったということは、パウロと友情関係にあり、彼らが継続して福音にともに参与しているという実情についての明らかな証明」であるとフィッツジェラルドは論じる。


ジェームズ・トンプソンはフィリピの信徒への手紙による説教について論じている。


歴史批判、レトリックを用いた批判、様式批判などの分析方法を用いることで、直感的な解釈を越えて、フィリピの信徒への手紙の深い理解に繫がる説教をつくるための手引きがそこでは提供されている。

 


ジェームズ・A・ブラシュラー
サミュエル・E・バランタイン

2014年11月23日日曜日

待降節の始まりに



ポール・ガルブレイス
 マルコによる福音書13章24―37節
83号「アドベントと典礼」より




終わりは始まりである。

アドベントの最初の主日に読まれるこの福音書テクストは、よく知られているように、大変動による混乱、切迫した審判、世界の終わりを告知している。

では、この聖書の個所は、教会の生活および活動の出発点として、実際どのように機能するものなのだろうか。

聖書日課の一年が新たに始まるこの週に、会衆の生活と自分自身の生活にどのような変革(驚くべき破壊的変化)の余地が残されているだろうか。

このテクストはその冒頭から、毎年同じように繰り返される聖書日課の暦に従っている私たちの姿勢に問いを投げかけている。

このテクストに注意深く耳を傾けることによって、アドベントの最初の主日を単にアドベントのリースに蠟燭の灯りを灯し、クリスマスまでの日曜日を数え始める時として済ませてしまおうとする誘惑から解放される。

マルコの福音を真剣に取り上げることは、私たちが注意深く立てた企みや計画に風穴を開けることになる。



 



特 集

アドベントと典礼

第83号 2013年11月
定価2000円+税



2014年11月16日日曜日

友なるイエス  ヨハネにおける友情



ジョン・フィッツジェラルド
「キリスト教徒の友情
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)



ヨハネによる福音書では、イエスが告別説教と呼ばれる別れの言葉の中で「私があなたたちを愛したように互いに愛し合う」よう弟子たちに命じている(ヨハ一五12)。

イエスは次のようにその命令の意味を明らかにする。


友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

僕は主人が何をしているか知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 (ヨハ一五13―15)



ヨハネによる福音書のイエスはこの言葉の中で一般に友情と結びつく二つの考えを述べている。

ひとつは、友人とは喜んで代わりに死ねるほどに相手のことを気に留めている人という考えである。

この理解に立てば、ヨハネによる福音書におけるイエスの死は友人のための死ということになる。


友人のもうひとつの一般的な考えは、個人的に最も秘密にしていることでも安心して明かせるほど信頼している人というものである。

しかしながら、完全に秘密を打ち明けるまでには友情関係に重要な変化が見られる。

ギリシャ・ローマ世界における標準的な友情理解では、事実の暴露が友情の前提となっている。それは今日と同様である。

通常、秘密や機密情報をたまたま知り合った人に明かしたりする者はいない。

信頼に足る人とは信頼を得た人ということであり、秘密が完全に明かされるのは、そうした信頼される、信頼に値する個人に対してのみなのである。

第四福音書ではイエスと弟子たちの交わりの期間が共観福音書より長く設定されているため、そうした標準的な論理が適用されると考える人もいるだろう。ヨハネによる福音書のイエスが弟子たちに

「今や三年間ともに過ごしてきた。

そのあいだに、わたしはあなたへの信頼を学んだ。わたしたちは友人になった。

今や友人なのだから、父から聞いたことすべてをあなたたちに打ち明けよう」

と言うのを期待する人もいるかもしれない。

しかし、第四福音書のイエスはそうは言わない。

ペトロはイエスを否認し(一八15―18、25―27)、他の弟子たちもイエスを置き去りにしたように(一六32)、弟子たちは自分たちがまったく信頼に足らない者であることをすぐに露わにしてしまう。

そうではなく、イエスはこの標準的な論理を逆転させ、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と言う(一五15)。

ここでの秘密の暴露は友情を前提するのではなく、友人関係をつくり出している。イエスは信頼するに足らない弟子たちにすべてを明かすのである。

神学的に言えば、イエスと弟子たちとの間に友情をつくり出すのは、明示された美徳であるとか弟子に対する信頼とかではなく、恵みなのである(一17)。

イエスは従う者を友として扱うことによって、弟子たちを友人とした。イエスが父の言いつけを守り、それゆえに父の愛のうちに留まったように(一五10)、弟子たちのイエスとの継続的な友情関係は喜んでイエスの指示に従うことに拠っている(一五14)。






特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税








 

2014年11月7日金曜日

ワインとビールの物語 《公開シンポジウム》古代西アジアの食文化


公開シンポジウム

古代西アジアの食文化
〜 ワインとビールの物語 〜

日時
2014年12月6日(土) 11:00〜17:20
会場
早稲田大学戸山キャンパス 36号館 382教室



参加無料・事前申し込み不要

プログラム


 
10:30 開場
11:00 開会挨拶

《概論》
11:05-11:35
西アジアから現代への贈り物 
平原のビールと山のワイン
常木晃(筑波大学)

11:35-12:05
古代エジプトのワインとビール
近藤二郎(早稲田大学)

12:05-13:00  昼食休憩

《各論》
13:00-13:35
楔形文字文書にみるメソポタミアのビールとワイン
山田重郎(筑波大学)

13:35-14:10
古代エジプト先王朝時代のワインとビール
馬場匡浩(早稲田大学)

14:10〜14:20  休憩

14:20〜14:55
旧約聖書に見られるワインとビール
長谷川修一(立教大学)

14:55〜15:30
ヒッタイト帝国のワインとビール —
古代アナトリアの飲酒文化
津本英利(古代オリエント博物館)

15:30〜15:40  休憩

15:40〜16:15
植物考古学からみた古代のお酒
赤司千恵(東京大学)

16:15〜16:50
醸造学から見た古代西アジア・エジプトのワイン
上野昇(シャトー・メルシャン)

16:50〜17:20
パネル・ディスカッション

17:20
閉会挨拶


さらに詳しいことはチラシをご覧ください。



2014年11月6日木曜日

バックナンバーのお知らせ


いくつか品切になっているものもあります。ご注文の際はご確認下さい。

 簡単な目次は *こちら* でご覧いただけます。


1    山上の説教
2    十 戒
3    聖書とフェミニズム
4    使徒パウロ
5    最近の聖書学・神学から
6    第一コリント
7    救 い
8    モーセ
9    聖書論
10    最近の聖書学・神学から
11    聖書と倫理
12    三位一体論
13    宣教と教会の生命
14    創世記
15    イザヤ書
16    復 活
17    詩 篇
18    転換期における教会
19    聖書から見た富と貧困
20    マタイ福音書
21    アクティマイア祝賀論文集
22    ユダヤ教とキリスト教の対話
23    神の支配
24    聖書における戦争と平和
25    洗 礼
26    マルコ福音書
27    聖 餐
28    福音伝道
29    キリスト教と諸宗教との出会い
30    社会研究と聖書解釈
31    最近の聖書学・神学から
32    ルカ福音書
33    『聖書の権威と人間の性』
34    エレミヤ
35    救いと癒し
36    組織神学の復興
37    ヨハネ福音書
38    エゼキエル書
39    神学とエコロジー
40    五十周年記念号
41    出エジプト記
42    史的イエス
43    使徒言行録
44    最近の聖書学・神学から
45    中心にある教会
46    民数記
47    二十一世紀への宣教
48    イエスの死の意味
49    贖いと聖書
50    家 族
51    第二コリント
52    聖書と共に生きる
53    贖いと教会
54    二〇〇〇年黙示録
55    ヨブ記
56    都 市
57    レビ記「聖潔と清浄」
58    赦しと和解
59    ガラテヤの信徒への手紙
60    今日聖書を読む
61    牧会とポストモダニティー
62    聖書における子供
63    コヘレトの言葉
64    文脈の中の福音
65    聖書と神学
66    聖書的霊性
67    イエスの譬え話
68    今日聖書を教える
69    恵 み
70    聖書の信仰と歴史
71    へブライ人への手紙
72    悪
73    アウグスティヌス
74    友 情
75    ローマの信徒への手紙
76    聖書における暴力
77    安息日
78    聖 職
79    雅 歌
80    神の像
81    ほかに神があってはならない
82    エレミヤの肖像
83    アドベントと典礼
84    「他者」へのまなざし
85    ヨハネ福音書と教会
86    対話を求めて
87    フィリピの信徒への手紙

〔次号〕
88    イースターの祈り


価格    1~6号    1600円+税
    7~41号    1942円+税
    42~70号    1943円+税
    71号~     2000円+税

2014年11月2日日曜日

「ユダヤ世界の中のイエス運動」

 

Journal of the Jesus Movement in its Jewish Setting (JJMJS)

http://www.jjmjs.org/uploads/1/1/9/0/11908749/header_images/1377679659.jpg

「ユダヤ世界の中のイエス運動」 

といった具合のタイトルで、雑誌が創刊された。オンラインでは完全無料。印刷版は25ドル。

登録しておくと、新刊刊行時に連絡してくれる。



2014年10月25日土曜日

【講演会】「聖書の世界を発掘する」−−聖書考古学の現在−−



2014年度 聖書講座
聖書の世界を発掘する 
聖書考古学の現在

〈共催〉カトリック東京大司教区
上智大学キリスト教文化研究所

11月 15日(土)
10 : 00〜11 : 30
津本英利(古代オリエント博物館研究員)
「考古資料を通してみた旧約聖書の時代」

13 : 30〜15 : 00
小野塚拓造(東京国立博物館アソシエイトフェロー)
「油滴る地
聖書時代のオリーヴ油生産

15 : 30〜17 : 00
山吉智久(立教女学院短期大学非常勤講師)
「祭儀台からのぞく聖書時代の宗教生活」


11月 16日(日)
13 : 30〜15 : 00
月本昭男(上智大学教授)
「聖書時代の埋葬法と聖書の他界観」

15 : 30〜17 : 00
長谷川修一(立教大学准教授)
「文献学と考古学
古代イスラエル史の方法


場所

上智大学中央図書館9階  921会議室
 

聴講料
一般(学生)
1回当日券 1,000円(600円)
1日前売券    800円(500円)
5回連続券 3,800円(2,300円) 

前売券
10月 24日
(金)〜11月 14日(金)迄
(5回連続券は11月15日第1回受付まで販売。ご遠方の方はご相談ください)


発売所
聖イグナチオ教会案内所(月曜休み)    Tel 03-3230-3509
または上智大学キリスト教文化研究所(JR中央線、地下鉄丸ノ内線、南北線 四ツ谷駅下車)

問合せ先
〒102-8554
東京都千代田区紀尾井町 7-1
上智大学キリスト教文化研究所
Tel 03-3238-3540, 3190
Fax 03-3238-4145


 
 






2014年10月19日日曜日

復活の出来事における現実




トーマス・W・カリー
 テサロニケの信徒への手紙1 五章12-24節
(テクストと説教の間)
84号「他者へのまなざし」より


 

復活の出来事における現実は

「悪をもって悪に報いないようにしなさい。

いつでも互いにすべての人に対して善いことを行うようにしなさい」(Iテサ五15)


という教えの中により明快に見ることができる。

この忠告は道徳上の教えとしてはあまり効果的ではないように見えるかもしれない。

自虐的な自己抑制や天使のような無私無欲といった、人間の力を越えた何かがなくては、そのような「善い行い」は成り立たないように見える。

さらに悪いことに、単にそれを人間にできないことはないという意味に理解すれば、他の人や自分自身に「善い行い」を実行するということは、その自虐的傾向や私利私欲のなさがそのまま死に繫がる。

しかしながら、この言葉はこの個所に見える勧めと同様、間接的にイエスのことを語ることで、ともにある人生という奇跡を描いている。

つまり、(その死と復活を含む)イエスの生涯がテサロニケの信徒たち(そして、わたしたち)にとって「当然」ではない、想像以上に恵み溢れる現実である行いに特徴づけられる共同体を生み出したのだということがそこでは語られているのである。

そうでなければ、「常に喜んでいなさい。休みなく祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これがあなたがたに向けてイエス・キリストにおいて示された神の意思だからです」という命令をどう理解できるだろうか。



パウロが描く人生が十字架にかけられ、復活した主において見出される人生である限り、これらの節(ロマ一二9-13、フィリ四4-7と並行)がここで扱っている個所の中心になる。

十字架の下でわたしたちに惜しみなく与えられる赦しは、わたしたちのあまり「立派」ではない人生をそこに露わにしながら、その人生を単なる「立派なもの」ではなくする。

全く同様に、赦しとは復活の出来事それ自体が「あなたがたに向けてキリスト・イエスにおいて」可能とする喜びに満ちた赦しの源から気前よく与えられるときにだけ他の人にも広がるものでもある(18節)。

ここでの「喜び」と「恵み」は単に語源が同じ語というだけではない。

この二つの語はその善良さにおいて恐るべきことであるキリスト理解における現実を描いているのである。








特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税









2014年10月12日日曜日

カール・ラーナーの功績



デイヴィッド・バレル
「一神教の対話 ジャン・ダニエルーの宣教論再考
(86号「対話を求めて」より)



伝道についての聖霊本位の自由な考え方は〔ダニエルーの主張から〕三〇年の時を経たのち、カール・ラーナーによるウェストン神学校での有名な「世界教会」講義において、はっきりとした後押しを得ることになる。

手短に言えば、ラーナーは十分な省察がないことを「神学の危機」と呼び、それを教会として認識するよう呼びかけることで、西洋のキリスト教史の中でダニエルーによる聖書の図式が作用していたことを確認したのである。

ラーナーは後七〇年と一九七〇年という象徴的な区切りの年号の間に二つのそうした「危機」を挟んで併置し、伝道運動を含む西洋キリスト教の一九世紀間を効果的にひとまとめにした。

後七〇年という年はエルサレム神殿の破壊とヘブライ的キリスト教の差し迫った終焉、ギリシャ世界と異邦人への伝道の文化の始まりを思い起こさせる。

一九七〇年は現代の状況を表現している。

すなわち、第二バチカン公会議で《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》が発布され、脱植民地主義が始まり、ラテン典礼が「廃止」されて以降ということである。

ラテン典礼はローマ・カトリックにとってはモスクがメッカに向かっているようなもので、それがほぼ行われなくなったということはローマという典礼上の中心点(キブラ)が失われたということであった。

結果として、姿勢、音楽、言語において典礼上の文化受容が盛んになっていた。

後七〇年における最も重要な問題は異邦人の男性が聖霊を受けるにあたって割礼が必要とされるかどうかであった。

「個体発生は系統発生を繰り返す」〔ヘッケルの「反復説」。動物の発生の過程は、その動物の進化の過程を繰り返す形で行われるとする説〕として、割礼は神の元々の契約との連続性に適合した徴という議論も可能であった。


しかし、共同体はパウロとともにそれを必然ではないと決めたのである。

 

その後、一九世紀もの時を隔て、キリスト教と他宗教の関係を植民地主義の束縛から解き放たれたものとして作り上げるにあたって、《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》は元々の神の契約の民に関して広まっていた「代替論」の教えを廃しただけでなく、どのように起こるにせよ、すべての民が救済の恵みに与れるということを明白に断言する伝統の一面を確固として是認したのである(全人類の救済というのモチーフは文化的、政治的な文脈によっては排他的な姿勢を強めることもあるが、キリスト教の共有されている伝統のうちには常にある)。

第二バチカン公会議の直後、この非常に斬新な文書《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》は会議そのものから出された。

「新神学」運動が文書を準備するということはほとんどなかった。

たしかに、ルイ・マシニョンがイスラム教について先見的な意見を述べ、ダニエルーもユダヤ教に関して意見を述べていたわけだが、《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》の発布は教父時代以来、支配的とはいえないとしても非常に大きかった代替論という重圧を考えれば、ラーナーに「神学的危機」の鍵となる実例を与えた。

ラーナーによれば、この新しい視点においてキリスト教徒は、他の宗教の人々を対等に見ることができるのであり、教会の「政権交代」のたびに他の宗教を信じる人々との接し方を変えるということではない。

植民地時代の欺瞞から解放されて、聖霊はより大きな行動の自由を享受できる。

その上、ラーナーが西洋のキリスト教史を紀元後七〇年と一九七〇年という括弧で括ったことには、相対性理論がニュートン力学を限定的な事例として受け入れたのと同じように、一六世紀をより大きな劇場で文脈化するという副次的な効果もあった。

これによって教会一致運動の堰が切られ、今日あらゆるところで見られるように、教会一致運動と異なる宗教間の交流は気質的に関連していることが示された。



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特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税

















2014年10月5日日曜日

アレオパゴスでのパウロ




ロバート・E・ダナム 
使徒言行録17章16−34節」
(81号「ほかに神があってはならない」)



使徒パウロが初めてアテネを訪れたとき、この町はおそらくその全盛期から何世紀かを経ていただろう。

しかし、アテネはまだそこを訪れる者たちに芸術、詩、演劇、活発な哲学的、宗教的な対話といった多くの印象的なヘレニズム文化の宝を提供することができた。

要するに、当時アテネは文化の中心地として繁栄していたのであり、使徒パウロがテモテとシラスと合流するまでの間、その町を探究することに時間を費やしたのも頷ける。

パウロがそこで何を見つけ、それにどう反応したか、またアテネの人びとがパウロの反応にどのように応答したかを描くルカの記述は、聖書の中で特に印象的な邂逅のひとつといっていいだろう。

ルカはここにヘレニズム文化を一瞥させ、その文化の一部は新しいレンズを通して見るようにというパウロの挑発的な誘いに導く入口を用意している。


アレオパゴスでのパウロの演説は結局アテネの人びとの気持ちに変化をもたらすという点ではほんの控え目な成果しか上げることができなかったかもしれないが(一七34)、何世紀もの時間を隔てた今日においても、現代における文化財と文化的な前提(そして文化への熱望)に関わり、それに対する問いを強く発しようとしており、キリスト教徒の共同体には信仰の証しのモデルとなっている。

 


 


特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年9月28日日曜日

天の食卓




チャールズ・A・サマーズ
 「マタイによる福音書14章13―21節」
79号「雅歌」より




イエスは群集に食べ物を与えるよう弟子たちに命じるが、弟子たちは全部で五つのパンと魚二匹しかないと抗議する。

イエスはこの献げ物を手に取り、群集を家族のようなまとまりで座らせた上で(ここにおいて見知らぬ人々が会衆となる)、その業をはじめる。

イエスは天を仰ぎ、「賛美の祈りを唱え、裂いて、お渡しになった」。

これはマタイによる福音書二六章26節にみられる聖餐の場面だけでなく、天の王国を示している。

見知らぬ人々が家族となり、メシアが北から南から、東から西から集う人々の食卓の主となり、金を持たないものが来て、買い、食べることになるという別の食事の場面をも思い出させる(イザヤ五五1)。

すべての食事が日々の糧と親しい交わりという必要を満たしてくれる神の憐れみを思い起こさせるものとなり得るのである。



一九八七年、ハリケーン・ヒューゴがアメリカを襲い、木々を倒し、送電線をなぎ倒した。

電力供給は八日間ないままだった。

すべての冷蔵庫が電源オフになった。

人々は野外で料理し、貯蔵庫から食物を運び出して皆で分け合った。

来る日も来る日も大層なご馳走が並んだ。

近隣の者たちがともに集い、それぞれの蓄えを分け合い、その出来事を分かち合った。

その時に分け合ったパンはあらゆる食べ物の中で最高のものであり、まるで天国で食べているように感じられた。

聖書は繰り返し天の王国を宴会のようなものとして描いている。

マタイによる福音書一四章は来たるべき将来を垣間見させてくれているのである。






http://atdip.blogspot.jp/p/blog-page.html

特 集

雅 歌

第79号 2010年8月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年9月24日水曜日

シンポジウム「一神教は危険か? 宗教間対話と共生の可能性」


本誌でもこのところ、一神教の問題、キリスト教と他の宗教の関係を扱ってきました。

ご興味をおもちの方、是非ご参加ください。



http://www.seinan-gu.ac.jp/assets/users/41/files/symposium%20in%20tokyo%2020141026%20.pdf




西南学院 創立100周年記念事業

一神教は排他的で不寛容であり、それゆえ危険であるが、多神教は他者を尊重し寛容であり、それゆえ平和的である、という言説がまことしやかに喧伝されています。
しかし、果たしてそうなのでしょうか。排他的な原理主義はどの宗教においても起こり
うるものです。それに対して、互いを尊重し、差異を認めつつ共生を目指す動きが一
神教の中でも広がりつつあります。
 そもそも一神教とは何か、一神教的宗教は他の宗教の存在をどう捉えているのか、

どんな場合に宗教は危険になるのか、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を研究す
る第一線の学者が宗教の枠を超えて対話します。


                 記
  日時:2014年10月26日(日) 15:00~18:00(開場:14:30)
 会場:サピアタワー5階 サピアホール
    東京都千代田区丸の内1-7-12-5F
       ※入場無料、要事前申込
 講師:ジョナサン・マゴネット氏(レオ・ベック大学元学長)
    寺園 喜基氏 (西南学院名誉顧問)
    四戸 潤弥氏 (同志社大学神学部教授)
    司会・進行:須藤 伊知郎氏(西南学院大学神学部教授)
    通訳:小林 洋一氏(西南学院大学名誉教授)
         リディア・ハンキンス氏(西南学院宗教主事)
     主催:学校法人 西南学院
    後援:日本バプテスト連盟、日本聖書学研究所、
        キリスト教学校教育同盟
        キリスト新聞社
        いのちのことば社 クリスチャン新聞
                 福岡市

2014年9月21日日曜日

ヤハウェ信仰の精髄と宗教多元主義



S・ディーン・マクブライド「正統の精髄」
(81号「ほかに神があってはならない」)


「主」ヤハウェに対する妥協なき忠誠は他の神への崇拝、人間の手が造り出す神のいかなる表現をも排除する。

それが古代イスラエルの宗教習慣であり、イスラエルを他のすべての民族や国と表面的に区別する政治的なアイデンティティの本質を構成する特徴であったと聖書の多くの個所が証言している。

聖書に書かれているという点では特殊なものだが、こうした証言が「正統ヤハウェ信仰」(orthodox Yahwism)とでも呼び得るものを規定している。

正統的信仰の綱領は五書の律法と前の預言者、後の預言者に説明されているけれども、そこには申命記が特に強く刻印されている。

申命記六章4-5節の信仰宣言がそれを象徴する。


聞け、イスラエルよ
われらの神、主は唯一の主
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし
あなたの神、主を愛すべし


集団としての「イスラエル」に限っていえば、真正の神--「われらの神」--に対応するのは「ヤハウェのみ」でしかあり得ない。

その結果、単一にして十分な神であるヤハウェへのイスラエルの献身は熱烈で忠実なものでなければならず、また確固としていなければならない。



しかし、宗教上の多元主義という社会的現実を倫理的価値として尊重することが求められる現代の視点からすれば、〈正統ヤハウェ信仰〉は抑圧的で、執拗に狭量なものに見えるかもしれない。

それは古代の基準からしても相当なものであった(例えば、民二三9、ヨシュ二四14-24、王上一一1-8、ミカ四5)。

さらにずっと問題が多いのは、現代史においても陰惨な例がないでもないが、それを確立し、実行するために厳格主義的な方法がとられたということである(例えば、民三三51-52、申一二2-4、13)。

熱狂的な正統信仰は政治権力と結びついたとき、残忍な結果を生む(王下一〇18-27、二三19-20参照)。

また、攻撃的な帝国主義的民族主義という古代の環境においては、守護神同士が競い合い、激しい文化的衝突がしばしば生じるので(例えば、王上一八、王下一八-一九)、排他的で偶像をもたないヤハウェ信仰の神学がもつ鋭敏さは軽視できない。

問題は単に近東における通常の政治と宗教をもっとよく理解するということではなく、はるかに荘厳な何かである。

古代イスラエルの神学者は独特の聖なる使命として共同体の生の可能性をどのように心に描いていたのか。

それは契約という枠組みの中で、ヤハウェの主権の完全性、そしてイスラエル形成期の歴史とその存続、刷新への見通しに独特な形で介入する神という自己開示性と密接に連携していた。

また、〈正統ヤハウェ信仰〉が非常に壊れやすい社会的事象であり、時として国の公的な政策によって侵害されることもあったと聖書自体が認めていることもまた重要であろう(例えば、王上一一1-8、一六31-33、王下二一1-9)。

もっとも、民衆の敬虔な心がヤハウェと「他の神々」を緩く包み込んだ礼拝の形態に惹かれていたことによって脅かされることの方が遙かに多かったかもしれない(例えば、王上一八12、王下一七29-34、エレ七9-10、ゼファ一4-6)。

イスラエルの聖なる使命を維持するために、〈正統ヤハウェ信仰〉の設計者は神学上適切な多様性と利己的な信仰上の諂いの境界を規定しようとした。

彼らにしてみれば、その境界は単に形がないというより、無意識のうちに寛容になっていたということであった。



本稿では〈正統ヤハウェ信仰〉がいつ、どのように、またどのような要因から古代イスラエルの宗教史の中に現出したのか、聖書時代のイスラエル、ユダヤの社会においてどの程度、多数派としての説得力をもち、規範的なものとして受け入れられていたのかという進行中の大きな学問上の議論は直接には扱わない。

その代わりに、十戒の最初の節に最も影響力のある形で明確に表現されている正統的信仰がもつ文脈上の意味と神学的重要性に焦点を合わせる。





特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

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2014年9月14日日曜日

偶像崇拝の2つのかたち




ナンシー・J・ダフ
全く間違った場所に神を置く」
(81号「ほかに神があってはならない」)



セシル・B・デミル監督の一九五六年の映画『十戒』の終わり近くに、イスラエル人の男女が金の子牛の像を囲んで踊るシーンと、シナイ山上で(火の柱演ずるところの)神が石板に十戒を刻みつけるのを(チャールトン・ヘストン演ずるところの)モーセが見ているという場面が並置されている。

山の麓にいるイスラエル人が脅えて、新しく作った偶像に人身供犠を捧げようとしていたとき(聖書にはこうした場面はない)、神はシナイ山頂上から紛ごうことなき男性の声で大音声に戒律をひとつひとつ告げ、火の柱から繰り出される明らかに長い指のように見える炎が石板にヘブライ語を刻みつける。

今日、この映画のこうした視覚表現の多くは五〇年も前に作成されたことを鑑みれば賞賛されるものではあるけれども、神の描写は当時でさえおかしなものだった。

皮肉なことに、イスラエル人が造った金の子牛の場面よりも、火の柱と大音声の男性の声で神が表現されている場面の方がなぜ神の像を造ってはならないのかを示す例としては適している。




神の像を造ることを禁ずる戒律は二通りに解釈される。

ひとつは偽りの神を礼拝することの禁止とするものである。冒頭の例で言えば、奴隷状態から解放してくれた神に代わるものとして金の子牛を造ったことである。

今日のキリスト教徒がよく用いる解釈では、神以外の何かに忠誠を捧げている考え、活動、行動は何であれ金の子牛を崇拝することであるとされる。

説教ではよく経済的な成功や性的な快楽を際限なく追求することが今日における「金の子牛」とされるけれども、他にも同様の例は多い。

たとえば、あるウェブサイトではリック・ウォーレンの著書『人生を動かす目的』のことを現代版「金の子牛」だといっており、別のサイトでは現代の典礼舞踏がそれに当たるのではないかとしている。

現代において偶像をいかなる解釈学的立場で考えるとしても、十戒第二戒には反するとされる。




第二戒のもうひとつの解釈では「神のいかなる像も造ってはならない」という禁止であるとされる。

この場合に問題となるのは、偽りの神を礼拝する偶像崇拝ではなく、真の神に間違った表現を与えることである。

冒頭の例で言えば、エジプトの地から連れ出してくれた神を金の子牛によって表現したことがそれに当たる。

イスラエル人はその神を信じるのを止めたわけではなく、具体的で親しみのある何かに神の場所を定めることで、長引いているモーセの不在の間、安心を見出す必要があったのだろう。

問題は当然のことながら、神がどこでどのように自らを顕しているのかを見極めようとはせず、イスラエル人が自分たちで選んだ形で神を表現する像を造ったことにある。

さらには一旦神が具体的な物に関連づけられれば、人は神の実在性と力がそうした物を超えて存在し、それに審判を下しさえするものだということを忘れようとする誘惑に抗しきれなくなる。

 



特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年9月6日土曜日

86号「対話を求めて」 目 次



9月10日発売




特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税




まえがき


 T・C・マック Terry C. Muck
パラダイムを越えて ──ニッターとヒック以後の諸宗教の神学── 

ポール・ニッターもジョン・ヒックも〈排他主義・包括主義・多元主義〉というパラダイムに強く依拠している。宣教活動がますます不審に思われるようになっ ている世界において、このパラダイムを越えて活動するには、より大きな神学、より広い方法論、そして、「参与による神学形成」に特徴づけられる、より深い 宣教論が必要になる。


M・ファリーナ Marianne Farina
テリー・マックへの応答

エイモス・ヤン Amos Yong
「パラダイム」は越えられるのか ──T・マックの提案に対する応答──




デイヴィッド・バレル David Burrell
一神教の対話 ──ジャン・ダニエルーの宣教論再考── 

ジャン・ダニエルーの宣教の視点からなされた省察はキリスト教の他宗教との関係に関する現状への評価手段を与えてくれる。ここではバーナード・ロナガンの 洞察を中心に、ほぼ六〇年にわたって繰り返されてきた神学上の実践を示していく。タリク・ラマダンによる最近の省察はどのようにすればそれを制度的な中心 とすることができるかを示してくれている。 
      【Keyword】 タリク・ラマダン(Tariq Ramadan)、Jean Daniélou カール・ラーナー(Karl Rahner)、「新神学」、第二バチカン公会議、ルイ・マシニョン(Louis Massignon)
     

 マイケル・バラム Michael Barram
宣教のための聖書解釈に向けて ──聖書と宣教、その社会的位置──

宣教学と聖書学の長期にわたる隔たりにもかかわらず、最近では聖書解釈における社会的位置づ けの重要性が強調されるなど、両分野の収束の傾向が強まっている。それは聖書への批判的で信仰に満ちた取り組みの鍵として、キリスト教共同体の宣教学的 「位置づけ」が優先される「宣教のための聖書解釈」の機が熟していることを示唆する。


テクストと説教の間
出エジプト記20章1―6節(K・L・ロバーツ)
詩編36編5―11節(R・A・ジェイコブソン)
ヨハネによる福音書19章38―42節(P・L・リディット)
フィリピの信徒への手紙2章1―11節(R・J・アレン)


 書評紹介  (榊原芙美子、吉谷かおる、山野貴彦ほか訳)
ローランド・E・ミラー著『イスラムと福音の橋渡し』
ロバート・W・ジェンソン著『雅歌』
J・シェリル・エグザム著『雅歌註解』
ジョン・J・コリンズ著『聖書神学との出会い』
ダグラス・F・オッターティ著『絶滅危惧教派のための神学』


2014年9月4日木曜日

86号「対話を求めて」まえがき

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742667/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742667&linkCode=as2&tag=mmiyas-22

特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月(14年9月10日発売)
定価2000円+税





 

まえがき

 

本誌の読者であれば、長年にわたって続いている一連の特集の中で、「今日、○○についてはどのように言われているのか」といったテーマ設問には親しんでいるはずである。

このシリーズの眼目は専門家ではない人や学生に聖書学と神学における最新の情報をもたらすことにある。

今日、専門家は三位一体について何を言っているのか。

ヨハネ福音書の研究はどこへ向かおうとしているのか。

誰の理論が聖書の歴史的理解をリードしているのか……。
 



本号も同じような目的をもっている。探求される分野は「諸宗教の神学」〔キリスト教以外の宗教への理解を通じてキリスト教の神を理解しようとする研究〕である。

それを今日の神学における喫緊の課題と確信しているキリスト教徒が多いかどうかは問題ではない。

通信技術の新しい形態と、ここ数十年に新しい国へと移っていった何百万もの人の存在は、これまでに経験したことのないような形で異なる宗教を互いに近い位置に置くことになった。

異なる信仰をもつ人とともに生きていく術を学ばなければならない状況がますます増えてきているのである。

西洋社会ではかつてはなじみが薄かった宗教が今や会話の深いところに現れるようになってきており、公的な生活の中で宗教が占める場に関する議論はさらに複雑になっている。

異なる宗教の許容を要求する暴力という世界的規模での脅威は、身近にいる宗教的な他者との最善の関係を複雑なものにしている。

自分が属する信仰グループの外にいる人々を理解しようとする気持ちが時にそうした暴力への恐れによって完全に蝕まれてしまうこともある。
 




「諸宗教の神学」は他の宗教との平和的共存への戦略を考案することをその第一の目的としているわけではない。

どのように他の宗教共同体の信者とその伝統に敬意を払ったらよいかというのがその大きな関心事である。

キリスト教の外側に存在する他宗教の信仰、宗教的であるということの無数の意味をキリスト教神学として総合的に説明を試みる―これがよく知られた諸宗教の神学の定義のひとつであろう。

この分野では「排他主義」「包括主義」「多元主義」という標準的なパラダイムが三〇年以上にわたって広く認められてきた。

これが長く保持されてきたということは、それが有効であったということである。

しかし、今日、諸宗教の神学に携わる研究者のすべてがそれに満足しているわけではない。

では、何が重大な問題とされているのだろうか。

その議論の最前線の状況はどのようなものなのだろうか。

神学の教育課程の中ではどのような工夫が実践されているのであろうか。


テリー・マックによる最初の論考ではそうした問題を議論するための素晴らしい舞台が設定されている。


ポール・ニッターとジョン・ヒックの業績を通して形成された「パラダイム」がどのように生じてきたのかを示すことから始め、「ニッターの子ら、ヒックの娘」と言われるように、この一世代ほどの間、物事の見方がそれに広く影響されてきたことを明らかにし、その支配的な仮説にはいくつか弱点があることをマックは確認していく。

彼の将来への提案は既存のテーマを少し変形させたものなどではない。

ヒックとニッター、また彼らの以前からの支持者の多くがいつも設定してきた問いとは異なる問いがそこでは提起されている。

その問いは広義のキリスト教共同体における神学全体を見渡す思考法を刺激するものとなるであろう。
 



エイモス・ヤンとマリアンヌ・ファリーナはそれぞれ全く異なる背景と学問的な関心からマックの論考に応えている。

ヤンは学問としての神学を研究しており、ペンテコステ派の視点から諸宗教の神学について広く意見を表明している。

ファリーナはキリスト教とイスラム教がもつ倫理伝統の徹底された基礎の上に、バングラデシュで一〇年以上カトリックの修道会宣教シスターとして異文化交流をした経験をつけ加えている。

ヤンもファリーナもマックの「参与による神学形成」という考えに注目している。

ヤンはこの概念は別の文化に直接参与して観察するという文化人類学の手法と類似しているとして、その限界を詳しく調査し、その上で、このアプローチが哲学的な前提に捕らわれずに「パラダイム」の中で生活様式を知的に表現しているかどうか考えている。

ファリーナは異なる信仰をもつ人々とともにそれぞれのテクストを相互に読み合うというカトリックにおける研究に結びつけながら、マックの研究について、バングラデシュの地でキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ人、仏教徒、ヒンドゥー教徒などと交流した経験においてすでに見出されている異教間の関係のあり方の方向性を示すものと見ている。
 



デイヴィッド・バレルはイスラム教徒とキリスト教徒の接点について、より細かく、さらに挑戦的な切り口を試みている。

その出発点はカトリックの神学者ジャン・ダニエルーの第二バチカン公会議以前の知見である。

ダニエルーは聖霊の導きに従おうと望む宣教師は神の創造のあらゆるところに神の活動の証拠を探し求めると考えた。

「聖なる歴史は常に継続しており、それは聖霊によって成し遂げられる。

すべての精神的な創造は神によるものである」とダニエルーは述べているた。

ダニエルーの見方を受け入れるのであれば、キリスト教徒は西洋社会におけるイスラム教徒と関心を共有していることが分かるだろう。

特に、タリク・ラマダンを支持する西洋のイスラム教徒は自分たちの宗教的アイデンティティが活性化され、敬意を受けている文書と豊富な伝統に基づいた新しい環境の中で創り出される「証言の領域」にいると感じているという。

こうした状況における対話がキリスト教徒に与えられた真理を改めて評価し直す方法になるのではないかとバレルは提案する。



 

聖書学者マイケル・バラムによる最後の論考ではこの問題がさらに詳しく論じられている。

バラムが関心を寄せているのは今日聖書を解釈するとき、宣教的な解釈を用いる必要性である。

バラムによれば、新約聖書に宣教的に取り組むべき理由は、それが当初読まれた初期教会の時代はまさに宣教的な性格をもっていたと考えられるからである。その時代は不安定で、宗教的な変化への可能性に満ちた社会的文脈にあった。

バラムの論考は宗教多元主義、「諸宗教の神学」とは関係がないように見えるかもしれない。

しかし、バラムがキリスト教共同体に対して聖書学と宣教学の助けを借りて取り組むよう呼びかけている課題のいくつかは、実際のところ、世俗的な西洋社会の中で暮らす多くのイスラム教徒らが感じている切実な問題とよく似ている。

彼らもまた古代のテクストと伝統をポストモダンの現実と関連づけるのに苦労している。

もしそうであるなら、教会の指導者は必要とされる自己検証と新たな基礎づけに向けた大きな努力の方向性をバラムの論考の中に見出すことになるだろう。

信仰篤いキリスト教徒はその努力を惜しまず、異教間の新しい出会いに備えている。

そのような機会は今日、ほぼすべての教会において以前にもまして当然のように生じているのである。

 



スタンリー・H・スクレスレット




今号はゲスト編集責任者にユニオン神学校―PSCEの宣教学F・S・ロイスター記念教授スタンリー・スクレスレット氏を迎えた。同教授はエール大学で博士号取得後、米国長老派教会の宣教師としてエジプトのカイロで八年間、教鞭をとった。著作にStanley H. Skreslet, Picturing Christian Mission: New Testament Images of Disciples in Mission, Eerdmans, 2006がある。




2014年8月31日日曜日

「唯一の神」という葛藤



デイヴィッド・バレル 
「一神教の対話 ― ジャン・ダニエルーの宣教論再考」
(86号「対話を求めて」2014年9月発売予定)



現代イスラムの哲学者タリク・ラマダンによれば、「イスラム・アイデンティティの最も重要な要素は信仰であり、それは創造主を何とも結びつけることなく信じるという本質を示す徴である。

これが〈タウヒード〉(神の唯一性への信仰)という中心的な概念の意味」とされ、ラマダンはイスラム教徒の文化受容と新しい文化環境への適応に関する熟考の中心にそれを据える。

教会がイエス信仰の中心的宣言を(ニケア信条とカルケドン信条において)四世紀もの時をかけて明らかにした主たる理由は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申六4)、「主こそ神であり、ほかに神はない」(申四35。マコ一二32参照)という〈シェマ〉の存在であったことをここで思い起こす価値はあろう。

〈タウヒード〉は三位一体のキリスト教信仰とは相容れないものになっているが、神の唯一性という妥協のない主張は、コーランそのものが提案する(神、イエス、マリアを「三位」とする)奇怪な三位一体ではなく、厳格な正統的三位一体論、言ってしまえば、「社会的三位一体論」〔関係存在論による解釈〕に心を奪われた神学者の確信を強いものにするだけである。

要するに、不穏当な部分を削除、修正した形の「三位一体」に対するイスラムからの拒絶は、キリスト教の伝統の中で経験されてきた何世紀にもわたる葛藤を思い出させる。

キリスト教は「我らの神、主は唯一の主。ほかに神はない」という〈シェマ〉に忠実であろうとしたが、イエスを位置づける論争の中で複数性の構図に直面したのである。



さて、真正な三位一体の神への信仰とは何を意味するのだろうか。

ここで再びダニエルーに目を向け、イエスがもつ預言者性を「預言者ムハンマド」を含む他の預言者の預言者性から区別して際立たせている聖書における根拠をどのように要約しているかを見てみよう。



イエスは……この認識を啓示された者として活動したのではなく、いつでもそれを当然のこととして所有している者として活動していた。

それは〈父〉の秘密であり、〈父〉は自らの〈子〉にすべてを委ねていたのである。



これをさらに一歩進めれば、イエスが神の啓示であることを思い起こさせ、創造主に関するはっきりとした三位一体の神の主張に教会を導くイエスの独特さを主張できる。

つまり、キリスト教徒にとっての啓示とは書物ではなく、人において示されたのである。




 



特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税








2014年8月24日日曜日

宣教学者と新約学者



マイケル・バラム
宣教のための聖書解釈に向けて」
(86号「対話を求めて」2014年9月発売予定)



宣教学者は一般に、無菌状態を前提に行われる聖書研究と、多くの聖書研究者が実際の福音伝道にかかわっていないことを蔑視する傾向がある。

福音のメッセージから活力を奪ってきた専門分野に一部の宣教学者は不満を感じている。

つい最近まで宣教学の研究が重要な聖書研究を無視するか、ほんの表面的に対話してきただけであったのは驚くにはあたらないのである。
 



もちろん、聖書学者もやり返す。たいていの場合、宣教学者からの情報は無視される。

聖書を解釈する人たち当然、たいていは新約学者―は宣教に関する言葉が自分の検討している話題または聖書個所と密接な関係があると思えば、もちろん喜んでそうした語を使用する。

しかし、聖書研究においては、やはり宣教は初期の福音伝道と限定的に関係したものなのである。

(たとえば、信者ではない異邦人に福音を宣べ伝えるパウロの努力など)。

それゆえ、聖書研究における宣教は特に根本的な問題と理解されることはほとんどなく、朱書して注目するようなこととはされてこなかった。

聖書学者はおそらく、宣教学が批判的な聖書研究を無視してきた以上に、今でも宣教学の研究を無視し続けている。
 



学際的な対話や協力関係を促進する方法はないのだろうか。

また、もっと直接的に問題を表現するとすれば、宣教のための解釈を進めるためにどのような予備的な段階を踏むべきかということである。

それは聖書学者と宣教学者が協力関係を築くことで利益を得ることのできる解釈上のアプローチであるはずである。


 



特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税








2014年8月17日日曜日

自然と神と人間と




ダニエル・グロスバーグ「雅歌における自然・人間・愛」
79号「雅歌」より





聖書には自然、人間、神の間の緊張関係を扱っている書や伝承がある。

たとえば、創世記一章二八─三〇節で神は人間に地上を支配するよう命じ、動植物を食物として支配する権利を与えている。

しかし、結局のところ神がすべての創造者であり、神が階層秩序を確立する。

詩編一九編一二節には自然と人間と神の間に働くまた別の力学が表現されている。

人間は世界と被造物のことを考え、それを保全することでその信仰が高く評価される。

詩篇作者にとって自然はもちろん神の創造物であり、それは全く神の意のままに機能する。

三つめの関係はヨブ記三八─四〇章で嵐の中から語られる神の言葉に表されている。

神は自然の宇宙的現象に関する嵐のような問いでヨブに猛攻撃を加える。

ヨブはその問いにひとつとして答えることができない。

その神秘は神の支配下にあり、人間が理解できる範囲にはない。

雅歌は創造主としての神はもとより、いかなる神概念も欠いている。

したがって、雅歌には〈自然・人間・神〉という宇宙を構成する三概念の組は異質なものであり、当てはまらない。
 

しかし、そこには宇宙を構成する新しく大胆な三概念の組〈自然・人間・愛〉がはっきりと表現され、その世界を定義している。






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特 集

雅 歌

第79号 2010年8月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年8月10日日曜日

「神はどこにいるのか」




ロジャー・J・ジェンチ
「エレミヤ書8章18節―9章2節」
82号「エレミヤの肖像」より



強制収容所でナチ党員が二人の男と一人の少年を絞首刑に処した日のことを述懐したエリ・ヴィーゼルの文章がある。

二人の男はただちに息絶えたが、少年はもだえ苦しんだ。見ていた一人が「神は今どこにいるのか」と問いかけた。

すると、

「(神は)絞首縄にかかっている」

と誰かが答えたのだという。

この話から神の脆さについて多くのことが語られてきたが、ヴィーゼルのように、その体験が「わが神とわが魂を抹殺し、私の夢を塵芥に変えた」とまで言い切れる人はまずいない


(この話はPaul Fiddes, Participating in God: A Pastoral Doctrine of Trinity, 2002, 154に語られている)。

この言葉は私たちの多くが到達しえないほどに深みをもつ。

しかし、神義論に関わるこの言葉を反転させ、いかにして神に対する人間のあり方を正当化しうるのか、と問うならば、このエレミヤの詩文における神の悲嘆もまた深みを湛える表現となる。

神さえもこの民から目をそむけようと願ったというのだから。

「ああ、荒れ野に旅人が宿る場所を見出せるなら、わたしはわが民を棄て、彼らから離れ去るものを」(九1)。

じつに、エレミヤは「主はシオンにおられないのか」(八19)とまで問うている。

それは、神はわれらの教会におられるのか、洗礼は正しいのか、キリストが聖餐に臨在されるのか、と問うに等しい。



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 特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年9月
定価2000円+税








2014年8月3日日曜日

「宣教」と「福音伝道」



マイケル・バラム
宣教のための聖書解釈に向けて」
(86号「対話を求めて」2014年9月発売予定)


「宣教」という語は教会の全体にかかわる目的あるいは使命と規定されていると多くの人が考えているかもしれないが、形容詞として形missionaryはほぼ常に遙かに狭い意味で使われている。

たとえば、パウロ研究者はこの形容詞をほぼ「福音伝道」(evangelism)の意味で用いている。

実際のところ、この語感はかなり広がっており、missionaryという形容詞に全体論の理解を取り戻すのは容易なことではないだろう。

「宣教」を全体論的に解釈させる形容詞は他にないので、常識的な語彙がどのように用いられているのかを理解するようにするしかない。

残念ながら、多くの場合、この「宣教」という特別な言葉の意味をすべての人が理解し、それに同意しているという前提で文章は書かれている。

用語上の不正確さは結局のところ、聖書が伝える教会の使命についての理解を識別し明言するときの妨げになっているかもしれない。




 


こうした理由から、missionalという別の形の形容詞を実験的に用いる人も増えてきている。

ちょっとした新語ではあるが、聖書と宣教に関係する文章を書く人たちの間では認知されつつある。

この語は教会の伝道上の援助活動を含みつつ、それに限られない形で、教会の目的あるいは使命について、より広く、より適切に全体論な意味で使われているように思われる。

とはいえ、新約聖書の研究者が宣教に関して、用語上の正確さの必要性に気づき、それを受け入れるのには多少時間がかかるかもしれない。


 
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特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税






2014年7月27日日曜日

エレミヤは神を非難する




キャスリン・オコナー「再び生きていくための嘆き」
82号「エレミヤの肖像」より



エレミヤは自分は預言者として失敗したが、それは自分のせいではないと信じて疑わなかった。

エレミヤが宣告を余儀なくされた暴力と廃墟の到来の時期を遅らせたのは、彼が代わりに言葉を伝えたその信頼しがたい神なのである。

その遅れが敵対する人々、友人、家族による嘲りと迫害を招いた――「主の約束はどこへ行ったのか」(一七15)。

神の言葉の成就が遅れたことで、彼は侮蔑と冷笑の対象に仕立て上げられた。

それで、エレミヤは間違いを犯したのは神だと宣言するのである。

その中で、預言者としての責務をめぐるエレミヤの苦しみは災害の被害者たちの苦しみや神学上のジレンマを思い起こさせる。

エレミヤは神の言葉を宣言し、神の代理となり、民に敵対し、民の残酷さの標的になっているが、彼の祈りには預言者としての使命の追求以上のものが窺われるのである。



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特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年9月
定価2000円+税








2014年7月20日日曜日

永遠の未来との調和



ジョン・D・ウィトヴリート「擦り切れた賛美の歌は主に歌わず」
83号「アドベントと典礼」より


創造は組織神学においてもアドベントの敬虔においても、ごく自然に神の摂理および時における神の御業の理解についての観想に結びつく。

アドベントは予定が詰まり過ぎの一週間のスケジュールという暴君から距離をおき、特にパウロの「時が満ちる」(ガラ四4)という概念との関連において、神が贖いを実現する宇宙の時刻表の雄大さを見渡す稀有な機会を与えてくれる。



ラーナーはアドベントにおける印象深い黙想において

「アドベントにおける典礼の記憶は……過去と現在と未来を結びつける。

過去とは、まだ神のみに隠されていた救いの到来を待ち望んでいた旧約聖書のことであり、現在とはすでに世界の中では起こっているが、まだキリストのうちに隠されている救いのこと。

そして、未来とは時の終わりにおける世界の変容とともに明らかにされる救いのことである」と述べ、こう結論づけた。



キリストにおける神の働きを通して、時はあるべき姿をとるようになった。

時はもはや空虚で荒涼とした、消えゆく瞬間の連続ではなく……、

時そのものが救われているのである。

時には現在を保護し、未来をその中に集めることのできる中心がある。

すなわち、すでに真にもたらされている未来で現在を満たす核心部分であり、今生きている現在を永遠の未来と調和させる焦点なのである。




 



特 集

アドベントと典礼

第83号 2013年11月
定価2000円+税



2014年7月13日日曜日

最も美しい瞬間




F・W・ドブス=オルソップ
 「美の喜びと雅歌4章1―7節」
79号「雅歌」より



肉体の美しさがもつ生に息吹を与える力はイーダ・フィンクの短編集『時の切り抜き』の中の一編に非常に痛切に(そして脳裏から離れないような形で)見せつけられる。

その物語の舞台は第二次世界大戦中のポーランドのどこか――時はその架空の町が最初の「主の民の恐ろしい犠牲」となった一年後――に設定されている。

語り手は足が弱く「椅子」に座ったままの生活をしている無名の老女である。

彼女の家とそれを囲む果樹園――繰り返し「庭」と呼ばれる――の外で起こっていることはすべて、彼女の世話をする若い女性アガフィアの「物語」を通してのみ表れる。

ある時、アガフィアはある日の朝、森の中に隠れていた時に牧場で行われていた「トラック二台分のユダヤ人」の銃殺を目撃したと語る。

犠牲者のうちのひとりは「おさげの黒髪で絵のように可愛らしい」十五歳の少女であった。

彼女は「裸にされ」、まさに銃殺されるところだった。

「でも、彼女に狙いを定めた人は彼女を撃つことができなかったんです」

とアガフィアはいう。

「その人は美しいものを見る目をもっていたのだと思います」。

しかしながら、この物語は語り手が「聞いたこともない残虐さで暮らしがが充満していた」と言うところのユダヤ人虐殺の時代に設定されており、少女の美しさによってもたらされた死刑執行の猶予は短く、結局シュラムのおとめの如くその少女も美しさによって救われることはなかったと知らされても驚きはない。

予定されていた死刑執行人の上官である「金髪の男」がすぐさまやって来て、銃を取りあげ、少女を撃ち殺す(ツェランの『死のフーガ』からの引喩であることは疑いない)。

この場面は物語が四分の三ほど進んだところに出てくる。

そこまで読み進んで初めてわかることだが、この出来事が語られる少し前のところに、老女が彼女の「庭」でその「黒髪の」美少女が少年と交情におよぼうとしているのを見つけて追い払うという場面があり、老女は物語の残りでこの場面について考えを巡らせることになるのである。

彼女は痛々しく椅子から立ち上がり、「一歩一歩」たどたどしく「美しい庭」へと歩いてゆく。

暗闇が「ぶどう酒の色
――それとも血の色」で迫ってくる。

老女にとって一日のうちで「最も美しい瞬間」はこのときであった

――
 
「満開の花が約束されている」早朝でもなく、「それ自体が豪奢な美しさ」を誇る真昼でもない。

彼女の視線は最後に、半裸で横たわる少女を見つけた場へと向けられる。

少女の「美しさが私の心に真っ直ぐに迫ってきた」


――老女は思い返す。

しかし、彼女は若い世代の放蕩ぶりを非難しながら、その男女を追い払う。

そして今、彼女の怒号に対して少女が静かに言い放った苦い言葉を思い出す
――
 
「私たちは何をすることも許されていないんだわ。

愛し合うことも、幸福にすることも、私たちには許されていない。

許されているのは、死ぬことだけね。

『私があなたくらいの年頃のときには』なんてあなたは言うけれど、私たちがもっと年をとるなんてことがあるのかしら。

さあ、ジクムント……行きましょ」。

少年と少女は走り去る。

「楽園から追放」されたのだ。

二人が横たわったところを老女が見ると、踏み潰された花、折れ曲げられていた芝や雑草は

「折れ曲がってもいなければ、誰かが触れたようでもなく、真っ直ぐに伸びていた」。







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特 集

雅 歌

第79号 2010年8月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年7月6日日曜日

その肌の色を変えられるだろうか




ロドニー・S・サドラー
クシュ人はその肌の色を変えられるだろうか」
(84号「他者へのまなざし」)



クシュ人は現代人が安易に「黒人」と分類する集団として「人種論的に他者化」される潜在性をもつにもかかわらず、ヘブライ語聖書の著者はそのような本質論的な分類をしていない。

ここで検討してきた例では、人種論的思考の構成要素は比較的少なく、クシュ人の肌の色が認識されているという程度のことに限られている。

肌の色の黒さは決して否定的に評価されておらず、クシュ人との関連で他の人種論的な構成要素が見られるとしても、聖書の著者はクシュ人を決して人種差別の対象とはしていなかった。



ここではユダ人とクシュ人の交流は頻繁であったけれども、聖書の著者はクシュ人を「人種論的に」異なる集団とは見ていなかったということを示してきた。

筆者は拙著『クシュ人は肌の色を変えられようか』ではそこからさらに一歩踏み込み、クシュ人について聖書の言及をすべて吟味した後、ヘブライ語聖書には表現型に基づく「人種」という概念はないと結論した。

旧約聖書では表現型の違いは人類のタイプについての存在論的な相違とは関係なく、様々な国の民についての差異を示す要素でしかなかった。

民数記一二章で見たように、聖書の神は人種論的な思考の根拠となりかねない偏見に時に悪影響を与えることもある。創世記九─一〇章は領土争いに関係するテクストや全人類の親類関係を人種論的な解釈、人種差別的解釈の基礎にすることによって、聖書を人種論的な思考で解釈し直す危険性を示している。

結果として、現代の釈義においては聖書の政治的な文脈に気を配る必要が強調されなければならない。

古代における偏見が現代の集団間の関係に影響を与えるようなことは許されないのである。







特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税





2014年6月29日日曜日

逆境の悲しみの中で




ルアン・スノー・フレシャー 
 「詩編一二六編」 
84号「他者へのまなざし」より


「九・一一」の後、アメリカ人は敵の攻撃という危機、土地の荒廃、愛する者の喪失を経験した。

その直後には悲しみと怒りが多く表現された。まさにそういうときであったのだ。

しかし、詩編一二六編は苦しみと怒りを越えたところに希望があることを示す実例にも、それを伝える手段にもなり得る。

わたしたちは信仰の民として、ひとつの国民として、エスカレートする一方の暴力を正当化する終わりのない怒りの下降螺旋に巻き込まるわけにはいかない。

賛美と嘆きが古代イスラエルの共同体を支えていたように、怒りと希望は手を携えて新しい日をもたらしてくれるはずなのである。



古代イスラエルの人々は典礼を通して人生の盛衰への心構えができていた。その詩編の構成は賛美の歌が五五パーセント、嘆きの歌が四五パーセントで、ほぼ半々になっている。

その結果、逆境に襲われたとき、詩編は悲しみと哀悼によって民を導く典礼上の道具となった。

また、そうすることで神が回復をもたらしてくれるはずという信仰に満ちた希望を表現しながら、怒りに向き合った。

いくつもの最悪の危機にもかかわらず信仰の民ユダヤ民族を保たせたのはこの平衡感覚なのである。

けれども、この平衡感覚は現代のキリスト教の教会では強調されてこなかった。

教会は繁栄の原則への同意をますます強め、信徒個人には人生においてはよいことだけを待ち望むよう教え、悪いことが起こるのは信仰が足らないからだと非難してきた。

このような教義では人生は肯定的なことと否定的なことの両方でできており、信仰と信仰の深さはどのように状況に応答したかによって示されるという考えが信頼を得ることはない。

詩編一二六編は涙を流した日々もついには過ぎ去り、喜びに叫ぶ日が来るということを認める信仰共同体の姿を示しているのである。






特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税






2014年6月23日月曜日

エレミヤの告白




キャスリン・オコナー「再び生きていくための嘆き」
82号「エレミヤの肖像」より


エレミヤの告白は一見すると、預言者という職業にまつわるエレミヤの苦悶を表現したもののように思われるだろう。

彼の悲痛な人生を描写するかのような祈りがエレミヤ書全体に見られる。

エレミヤの祈りは彼が預言者であるがゆえに被る苦難を中心に構成されているため、その関心は彼自身だけに向けられたものであるかのように見えるのである。

エレミヤの「告白」は、神からの召命によって生じる数々の困難と、そのせいで被る不当な苦しみについて神に不満を述べている。

エレミヤの考えでは、自分は預言の言葉に身体と霊をしっかりと結びつけているのだから苦しめられるべきではないのであり、そのような視点は「告白」の中にはっきりと示されている。

迫害を引き起こしたと考えられるような事柄のすべてについて、彼は無実なのだ。


私はあなたの言葉を貪ったのです。

あなたの言葉は私にとって喜びとなり、私の心を歓喜させたのです。

なぜなら私はあなたの名で呼ばれているからです、万軍の主よ。  (一五16)



エレミヤは神の言葉を自らのうちに取り込み、血肉とした。彼は「神の目的の代弁者」であり、「聖なる言葉の模範的な具現者」なのである。

彼個人のアイデンティティを神の言葉と切り離すことは不可能であった。

それは彼と敵対する者にも知られており、だから彼らはエレミヤを嘲るときに「主のみ言葉はどこへ行った、見せてみよ」と言うのである(一七15)。

また、神が忘れてしまっている場合に備え、エレミヤは民のための仲裁を行う中で、自身の忠実な預言者としての振る舞いを神に思い起こさせようとしている―

「思い出してください。あなたの怒りを彼らから取り除こうと、私が彼らを弁護したことを」(一八20)。

そして、彼がこの骨の折れる仕事から手を引きたいと思うときには、彼の内なる力、つまり霊的な激しい衝動、心のうちに燃えさかる炎が神のために語り続けることを彼に強いるのである。


私が「もう神のことは思い出すまい。

もはや主の名によって語るまい」と思うときは決まって、

私の心を燃やし尽くし、骨の中でなお燃えさかる炎が現れる。

私は疲れ果て、それを私の中に留めておくことなどできません。  (二〇9)




エレミヤは預言者としての召命から逃れようと懸命に試みるが、それは叶わず、苦しみあえぐ。

敵対する者たちは彼を嘲り、攻撃し、陰謀を企てる。

「まるで屠り場へと引かれていく小羊のごとく」(一一19)エレミヤを迫害するのである。

彼らが望んだのはエレミヤの死であり、最初から存在しなかったかのように、彼をこの世から抹殺し、記憶から消し去ることであった。


木を実をつけたまま切り倒してしまおう。

そして生者の世界から彼を切り離そう。

彼の名が二度と思い起こされることのないように。  (一一19)



エレミヤは預言者であるがゆえに、このような攻撃の標的となった。

また、彼に加えられた痛みは不当なものであった。正しい者が痛みや喪失に苦しめられ、邪な者が栄えるという状況にエレミヤは激しい怒りを燃やす。

自身も属す民からエレミヤが迫害されるというこの構図は、彼を拒絶したためにユダに民族的な危機が訪れたということを暗示している。

こうした告発は話が進むにつれ、神を擁護することによって災害の被害者の支えとなっていく。




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特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年9月
定価2000円+税








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