2015年3月29日日曜日

キリスト信仰は肉体に宿る


ロナルド・P・バイアース
書評・トマス・ロング著『死者を歌で送り出す』
(88号「イースターの祈り」)


トーマス・ロングは本書『死者を歌で送り出す』として結実する調査を始めたとき、葬儀とは主として遺族のための牧会的ケアであるという一般的な憶測を問い直すことはしなかった。

たしかに、その考えは疑う余地のないもののように見えるほど伝統的である。

しかし、「かつて共有されていたこの見方は、深刻に損なわれている」と彼は考えるようになった。

「たしかに、葬儀は慰めをもたらす。

……しかし、福音書の物語を再び語り、その意味を取り戻し、故人の洗礼によるアイデンティティを再確認し、神を崇めるというもっと大きな業の一部であればこそ、その慰めは与えられるのだ」(xiv頁)。

葬儀は蔓延するグノーシス思想から多大な影響を非常に長い間受けてきた。

グノーシス思想における人間は、霊魂と肉体に分離可能な要素で構成された存在である。非物質的な霊魂は善であり、肉体は取り残される

(ロングは『思い出から希望へと繫がる説教』という別の著作でグノーシス思想の影響に関する批判をさらに展開している。

Preaching from Memory to Hope, Westminster John Knox, Louisville, 2009)。



しかし、キリスト信仰とは肉体に宿るものであり、肉体なしの不死ではなく、「体の復活」−− 聖書によれば、変容した肉体−−を信じるものである(ヨハ二〇、ルカ二四、Ⅰコリ一五参照)。

ある意味、人間の体そのものがサクラメントの対象であるとも言える。

なぜなら、他者について知っていることのすべては身体的に伝えられるからである。

教会が人間の死に際して取る働きとは、肉体を視界から消し去ってしまうことではなく、墓や地下墓室まで行進しながら故人を「歌とともに」送ることである。

それはつまり、一般的な意味での死を否定することではなく、「死」という力に挑むことなのだ。

「墓の前でさえ『ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ(神を讃美せよ)』と歌声を上げる」と唱えられているように。





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特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税



2015年3月23日月曜日

88号「イースターの祈り」 まえがき


発 売 中



特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税






まえがき


イースターを特集する今号は先の「アドベントと典礼」(83号、二〇一三年刊)に続いて、教会暦に沿った説教を探求するシリーズの第二弾である。

来年には「レント」の特集が予定されており、このシリーズは「ペンテコステと三位一体の主日」「通常の時期の礼拝」と続いていく〔英語原書では既刊〕。
 



クラウディオ・カーヴァルヘスとポール・ガルブレイスの論考では、イースターの聖書と教会暦における発展の経過が探求され、イースター周辺の神学上のテーマがアメリカ合衆国、メキシコ、グアテマラにおける会衆の生活の中に表現される多様な形と結びつけられている。

そうした「想像図」がイースターの中心にある確信を具体化していく。

「創造が繰り返され、わたしたちの過去がやり直され、わたしたちの現在が固くつかまれ、わたしたちの未来が約束を手にする」のである。
 




空の墓を訪れた女性たちの沈黙に注目するとき、マルコによる福音書一六章1─8節はイースターの歓喜を宣言するものとしては奇妙なものに見えるかもしれない。

しかし、クリスティーン・ジョインズはこのテクストが古代の教会にも現代の教会にも重大な役割をもつことを論証している。

共同体を招き入れるには、マルコ福音書のテクストを読むことだけでなく、イースター劇(『墓所の訪問』)や、音楽(バッハのカンタータ第31番)、芸術上の描写(パリのサンドニ大聖堂の聖遺物箱の覆い)を例に、復活の出来事に参加し、それを聞き、目で見るという方法もあることが示される。

ジョインズはイエスに油を塗るために墓へ来た女性から聞こえる「沈黙の音」が「たくさんのノイズを生じさせてきた」ことに注目している。
 




トーマス・トロウガーはイースターが「説教や祈りよりも音楽で」多くを伝えられる聖なる日のひとつであることを思い出させてくれる。

イースターの聖歌「主キリストは今日復活する」の中で用いられる現在形の動詞は「讃美歌が歌われているまさにそのときに(キリストは)復活するのであり、そのとき、その場所で悲しみと絶望の世界は繰り返し打ち砕かれる」ことを明言している。

そのような讃美歌の歌詞とメロディは「信仰が考古学の方向へ向きがち」という苦悩から教会を救い出してくれる。



 


ウルリヒ・ルツによれば、新約聖書におけるイエスの復活は「中立的な証人が立てられるような空間と時間の中で起きた目に見える出来事としては描かれていない」。

しかし、芸術家たちは復活を表現するために紀元一〇〇〇年までには「無敵の十字架」、鷲、不死鳥などのシンボルを用い始めた。

中世には典礼的な作品の中に、より象徴的な表現が現れ始め、それが徐々に広く絵画の世界に見られるようになっていった(グリューネヴァルト、エルグレコ、レンブラントなど)。

現代の宗教芸術は復活をより抽象的、非具象的な表現に逆行させている。

ルツは芸術作品が礼拝において効果的に使われ、イースターのメッセージを忠実な信徒たちが見て、そして触れるような「表現」はどうすれば可能なのかを詳細に描こうとしている。
 




多くの牧師は「イースターは説教者には大変タフな一日である」というデイヴィッド・バトリックの言葉に共感するのではないだろうか。

復活を語るテクストには歴史的な根拠があるのだろうか。

パウロは霊の体という言葉で何を意味しようとしているのか(Ⅰコリ一五44)。

説教をする者はそうした疑問と対峙して、「説教の神学者」にならなければならない。

「半分しかまとまっていない」理解が会衆の意識の中に根づくことを願いながら、古代のテクストは教会の神学議論によって尖鋭化した現代における意味へと翻訳されていく。

バトリックが言うように「説教者に要求されている職務とはこうしたものなのである」。

サミュエル・E・バランタイン


2015年3月19日木曜日

88号「イースターの祈り」 目次


発 売 中


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特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税









クラウディオ・カーヴァルヘス/ポール・ガルブレイス (古本みさ・訳)
Cláudio Carvalhaes and Paul Galbreath
イースターにおける教会の姿

    教会暦において五〇日間と定められている復活節は、主要な神学的主題が復活祭という教会の中心的な祝祭の一部分となっていく長いプロセスの中で発展してきた。イースターの祝いの中にそうした主題が具体化されていることに注目すると、多様な信仰共同体において刷新が行えるようになるだろう。


クリスティーン・E・ジョインズ (吉谷かおる・訳)Christine E. Joynes  
沈黙の音──マルコ福音書一六章1-8節の解釈史──
    墓にいた「若者」の言葉に女性たちが沈黙で応じるのはマルコ福音書だけに見られる特徴である。マタイ福音書とルカ福音書にそれがないということは、両福音書がこの要素には問題があると見ていたということであろう。しかし、マルコ福音書のテクストは、古代教会においてもその後においてもイースターの典礼の中で重要な役割を果たしてきた。その物語の受容史には調和と不一致の両方が示されている。 
     

トーマス・H・トロウガー (齋藤百合子・訳)Thomas H. Troeger
復活の響き ──音楽が言葉をまとうとき──
    フィリピの信徒への手紙はレトリックを用いて苦しみと喜びを再構成している。苦しみと喜びは織り合わされることにより、主題となるだけではなく、手紙全体の背景をなすつづれ織りとなるのである。

ウルリヒ・ルツ (榊原芙美子・訳)Ulrich Luz
芸術表現におけるイエスの復活
    新約聖書ではイエスの復活は目に見える現象としては描かれておらず、そのためにおよそ一〇〇〇年もの間、復活は視覚芸術として表現されることはなかった。復活の出来事が直接的に描かれるようになるのは紀元一〇〇〇年以降のことである。その表現様式は具体的であり、復活の出来事は一定の問題をはらんだ形で具体化され、また歴史化されてきた。 
     
デイヴィッド・G・バトリック (石田雅嗣・訳)David G. Buttrick
イースターの説教
    説教をする者はイースターの時期に「復活物語は事実か伝説か」、「パウロの”霊的な体”とは何のことなのか」という二つの未解決の問題に直面することになる。パウロはそこに福音書とは異なるものをもち込もうとしているのか。説教において求められるイースターのメッセージとは何なのか。



テクストと説教の間
詩編31編2―6, 16―17節(W・デニス・タッカーJr/標珠実・訳)
マタイによる福音書28章1―10節(E・カーソン・ブリッソン/齋藤百合子・訳)
ペトロの手紙一 4章1―8節(ポール・J・アクティマイアー/齋藤百合子・訳)


 書評紹介(榊原芙美子、吉谷かおる・訳)
トーマス・G・ロング著『死者を歌で送り出す──キリスト教の葬儀──』
チャールズ・B・カウザー著『注解フィリピの信徒への手紙・フィレモンへの手紙』
ヘルマン・J・セルダーホイス著『ジャン・カルヴァン──巡礼者の生涯──』



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