2015年1月11日日曜日

十字架を背負うということ


カーソン・ブリッソン
ルカよる福音書14章25-27節
(87号「フィリピの信徒への手紙」)


十字架を背負うことがイエスの後に従う者の究極の現実とされるのだから、十字架を背負えないということは弟子になれないということである。

26節と27節で「ありえない」が二度繰り返されていることで、十字架を背負えないのであれば弟子ではあり得ないことが強調されている。

そして、続く個所では、重要な試みを始めたが、何が要求されるのかその始まりにおいて理解していないために結局それを成し遂げることができないという二つの事例を語ることによって、この点がさらに強調される(28―32節)。



では、誰が弟子となり得るのだろうか。

ルカ福音書の始めのところで、気持ちはあるのだが「非常に戸惑っている」マリアに天使ガブリエルは「神にできないことは何ひとつない」と保証する(一37。創一八9―15、二一1―7参照)。

弟子になろうと思ったが、結局はイエスよりも自らの富に生きることにした金持ちの議員の(悲劇的な)選択に続いて、イエスがどうしても言わなければならなった言葉を「聞いた人々」は絶望し、混乱するが、イエスはそれに対して、神にだけできることがあると応えて、人々に希望を与えている(一八18―27)。



その呼びかけはまさに「十字架を背負え」という呼びかけである。

この呼びかけは実際には人間には応じられないことだが、神とともにであればできるのである。

呼びかけを聞いても、暖炉や家庭など、よいものではあるけれども最も重要なものというわけではない多くのものにとらわれたままでいるという人もいるだろう。

そうした人たちはそこに自分の本当の人生があると確信しているのである。

しかし、呼びかけを聞いて、それがどのような形のものであっても、イエスと運命をともにすることを他のどんな要求よりも優先する人もいる。

この招きは実際にはそれまでに受け取れると思っていた以上に多くの生を受け取ることになる招きであるということは、「十字架」を背負い、イエスに従うという形で示されるが、それ以外の形では示し得ないものなのである。





 

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



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