2013年12月27日金曜日

異本をめぐって



〈異本をめぐる詩学について〉

エレミヤ書の伝統的なヘブライ語本文(マソラ本文)と古いギリシャ語訳(七〇人訳聖書)を比較すると、おそらくはギリシャ語訳に用いられたヘブライ語本文の段階で本文上の相違と異本の存在という複雑な構図があったことが分かる。

異本によって改訂があったことが示されるということは複数の版が流布し、読まれていたことを意味する。

ひとつの版が孤立して存在していたということはなく、ひとつの版がまるごと他の版で置き換えられるということもなく、ひとつの版が独り言のようにして成立するというようなこともあり得なかった。



ピート・ダイヤモンド「対話」83頁 (インタープリテイション82号「エレミヤの肖像」)


 
特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年8月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2013年12月23日月曜日

教会暦と聖書日課 


アドベント第一主日に説教壇から「新年おめでとう」と告げる説教者はめったにいないだろうが、この典礼期節を始めるのに最もふさわしい挨拶といえよう。

しかし、最も典礼を意識している会衆であっても、アドベントにそれ自体としての神学的、牧会的な位置を保たせ、クリスマスを迎えるための単なる準備運動的な活動に過ぎないと思わせないようにすることは難しい。

アドベントの聖書日課、ことに第一主日の日課は、たいていの会衆には馴染みがないか、当惑させられるものでさえあるように思われる。

〔一一月下旬の〕感謝祭が終わるや否やクリスマス・キャロルを歌い、またクリスマス用の常緑樹で教会の聖堂を飾りつけなければならないというプレッシャーの下、説教者には会衆にアドベントの終末のヴィジョンに入るよう促すのがいっそう難しくなる。

とはいえ、この終末のヴィジョンがなければ、クリスマスの祝賀は世界に与えられる神の希望の大胆な上演ではなく、単なるノスタルジアと感傷の場になりかねない。


聖書日課がもつ力のひとつは、キリスト教の物語について神学上、語るべきことがすべての面にわたって見通せるように、聖書のテクストと教会暦を絡み合わせられることにある。


聖書日課の動き、ことに受肉と過越のサイクルにおける動きはキリスト教の物語の動きである。

すでに見てきたように、キリスト教の物語に対してアドベントがなす本質的で明確な貢献は、それが時の中心性と聖性を際立たせるということである。

アドベントについて効果的に説教し、その終末の約束の中にあるよき知らせを言い表すためには、説教者はこの期節が描く円弧全体の意味を理解しなければならない。

それを理解することで、この期節がもつ軌道をそこに個々の主日の聖書日課を配置する背景にすることができるのである。
 


ゲイル・オデイ「未来に戻れ ― アドベントの終末論的ヴィジョン ―」(インタープリテイション83号、2013年)7-8頁より

 



特 集

アドベントと典礼

第83号 2013年11月
定価2000円+税



2013年12月6日金曜日

「もうひとりのイエス」

Daniel Boyarin, The Jewish Gospels: The Story of the Jewish Christ

勝手に邦題をつけてみた。ちょっとセンセーショナルすぎかもしれない。実直に訳せば「ユダヤの福音書 ユダヤ人キリストの物語」。

先日、銀座のK文館で「今度、邦訳を出す」という話を伺い、原書をぱらぱら見てみる。おもしろそう。

イエスの誕生以前のユダヤ教文献に「死んでから三日目に甦ったメシア」の到来を予見するものが見つかったという。黙示文学の系譜に属す文献らしい(ちゃんと見てません)。

その発見から、ユダヤ教の中にキリスト教の起源を探るといった感じで話は進んでいくようだ。知的好奇心をくすぐられる。

前に紹介したレヴァインの本よりも本格的な感じはする。本格的でも分厚くないところがよい。224頁。邦訳になると300頁は超えるだろうか。そこに訳者による長い解説がつくそうだ。

著者ボヤリンには一度、会ったことがある。 学会の途中に講演の依頼をしようとしたのだが、「二年先まで予定はいっぱいだよ」とまともに取り合ってもらえなかった。なにやら軟派な雰囲気が漂っていた。ちゃんとしたタルムード学者ですが。

「ユダヤ教から見たキリスト教」をテーマにした本はあまり多くはない。日本ではまあ、需要がほとんどないのだけど、それゆえに、目新しい。邦訳の出版が楽しみである。

そういう中で、新約聖書にユダヤの視点から解説を加えた本が出ていた。最近「annotated」という語がタイトルについた本が多くなっているように思う。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/0195297709/ref=as_li_tf_il?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=0195297709&linkCode=as2&tag=mmiyas-22The Jewish Annotated New Testament

前出のレヴァインが編集をしていて、新約の本文はNRSV。 主要な新約の概念がユダヤの視点から改めて解説されている。

ほぼ衝動買いで、Kindle版を購入。安い。タブレットではなくて、主としてPCで使う場合はアメリカのAmazon経由にする必要がある。

リンクなどの仕方にまだまだ改善の余地はあるように思うけれども、電子書籍はかなり気軽に買えるようになってきた。端末も安い。紙への愛着のようなものはあるけれど、電子版は半額以下だったりする。洋書でアメリカのAmazonだとさらに安い。マイナーな分野でも英語の本はマーケットが広いからだろうか。ボヤリンの本も安いのだ。

でも、まあ、それはそれ。邦訳は楽しみ。邦題も楽しみ。
 

2013年11月18日月曜日

83号「アドベントと典礼」目次


http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742578/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742578&linkCode=as2&tag=mmiyas-22特 集

アドベントと典礼

第83号 2013年11月(13年11月25日発売予定)
定価2000円+税




まえがき

ゲイル・R・オデイ (吉谷かおる・訳) Gail R. O'Day
未来に戻れ ──アドベントの終末論的ヴィジョン──」

教会の時の捉え方が循環的な性質をもつということは、聖なる物語が毎年アドベントに新たに始まるということを意味する。幼な子キリストの到来は宇宙のコンテクストに置かれ、その中では時間さえもが神のこの世界への先取りされた突入によって再定義される。アドベントとは神の新たな時代の幕開けを先取りする新たな始まりの期節であり、また希望を新たにする期節なのである。

 
ロナルド・P・バイヤース (古本みさ・訳)Ronald P. Byars
アドベントの贈り物 ──終末における約束──」

終末論はキリスト者の希望を明確なものにする。「再臨」と「最終的な神の支配」はともに奇異な期待に結びつけて考えられるため、聖書に見えるそうしたテーマやそれらにかかわる働きを説教と礼拝で取り上げないようにする力が作用する。古典的な典礼や新旧の聖書日課はこうした状況を再考し、より深く熟考することを促している。


ウィリアム・ダイアネス (松川哲広/黒田裕/吉田雅人・訳)William Dyrness
『希望に見えるものは希望ではない』 ──アドベントにおける視覚要素の探究──」

 アドベントは礼拝の中に美術などの視覚要素を取り入れることのできるキリスト教では特異な機会である。この機会に東方正教会もローマ・カトリック教会も、またためらいがちではあるがプロテスタント諸教会も信者に「そのときには顔と顔とを合わせて見ることになる」ものの一部を見ることを様々な形で奨励してきた。


ジョン・D・ ウィトヴリート (宮崎光・訳)John D. Witvliet
『擦り切れた賛美の歌は主に歌わず』 ──アドベントの感傷性に対する神学からの切り口──」

説教者や教会音楽家はアドベントがもつ感傷性を避けるために、冷静に輝かしい終末を宣言する神学的に強固な取り組みをアドベントに見出すべきである。キリスト教の古典的な教理は神学的にも鋭敏な現代の賛美歌作家たちによって命を吹き込まれ、信徒、説教者、教師、神学者のヴィジョンに多くの有益な視野を提供している。



テクストと説教の間
イザヤ書63章 19節―64章8節(R・W・ハワード/金井美彦・訳)
 マルコによる福音書13章24―37節(P・ガルブレイス/石田雅嗣・訳)
コリントの信徒への手紙一 1章3―9節(S・ワッツ=ヘンダーソン/岩田光正・訳)

 書評紹介  (榊原芙美子/宮崎 修二・訳)
 ロビン・A・リーヴァー著『ルターの典礼音楽──その原理と含意──』
 津村俊夫著『サムエル記上』
ブライアン・K・ブラウント他編『故郷への忠誠──アフリカ系アメリカ人による新約聖書注解──』
M・ユージン・ボーリング著『注解 マルコによる福音書』




2013年11月12日火曜日

83号「アドベントと典礼」まえがき



http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742578/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742578&linkCode=as2&tag=mmiyas-22インタープリテイション83号

アドベントと典礼

11月25日刊行予定



まえがき

アドベント〔待降節/降臨節〕を特集する今号では、教会暦を通して教え、説教をする聖職者のための豊富な資料、題材に常に新しいアクセントとなるようなものを紹介する。レント〔受難節/四旬節/大斎節〕についても同様の特集が予定されており〔原著は二〇一〇年一月に既刊。本号「後記」参照〕、典礼に焦点を当てた一連の特集企画では、聖書や神学に関する論文に加え、教会行事で強調される主要なテーマについて考える視野を広げるために、音楽家、詩人、芸術家などが探求しているさまざまな方法についての論考を紹介していく。この工夫について、読者諸氏からご意見をお聞かせいただければ幸いである。

ゲイル・オデイはアドベントの聖書日課に見える「終末に関する円弧」をたどっている。アドベントの聖書日課は「教会の時計をリセットする」ことによって、礼拝する会衆に「神と神の創造とともに新たに人生を始める機会」を与えてくれる。この新しい始まりは一方では「古き約束、正しい創造のときの神の無制限の約束に戻ること」を呼びかけ、もう一方では、「現在・過去・未来を再定義する神の到来」によって約束されている神の正義の完成の中へ「再び生まれる」よう呼びかけているのである。

ロナルド・バイヤーズは古典的な典礼と新旧の聖書日課の探求から、アドベントにおける「終末の約束」は教会の神学上の伝統的価値を取り戻すための贈り物であるとし、どのようにしてそれが可能になるのか、それはなぜなのかを示している。アドベントの主要なテーマであるキリストの再臨と神の王国は、なぜ教会にとって重要なのか。それは現代の世界には「希望が不足している」からである。バイヤーズはこれについて「『物事がどうなるか』が重要であるなら、誰が宇宙全体を司るのかが重要であるなら、また何らかの最終的な審判を待ち望み、期待することが正当なことであるなら、教会がその会衆の中でもっと意図的に、より深く(アドベントの贈り物について)考えるようにならなくてはならない」と述べている。

ウイリアム・ダイアネスは東方正教会、ローマ・カトリック、プロテスタント(特に改革派)で用いられている聖画像、蝋燭、祭色、豪華に飾られた祭壇、アドベント・リース、ダンス、内陣のイメージなど、広範にわたる視覚的なシンボルについて探求している。来たるべきメシアを「希望をもって待つ」とき、これらの視覚イメージは「服従により大きな可能性を与えている」。それによって信徒は「そのときには顔と顔とを合わせて見ることになるものを少しだけ見る」ことを促されている。

最後の論文ではジョン・ウィトヴリートがそれぞれ「主要なキリスト教の教義を中心に」、礼拝の中で「控え目な音楽的手段」をもって歌われる「ビジョンの七つの切り口」について述べている。多くの「純度の高い」賛美歌やアンセムがアドベントの終末論に鋭い切り口をもたらし、この季節の重要性を「ディン、ドン、ドン」や「ファ、ラ、ラ……」など、クリスマス・キャロルの「無害なフレーズ」に引き渡す「会衆と聖歌隊の平凡で穏やかな歌が厳しく矯正される」と彼は考える。カール・ドウなどの現代の賛美歌作者の作品にすでに見られるように、必要とされているのは、「古ぼけた、歯の抜けたような賛美歌」でなく、「ちょうど織り上がったばかりの歌声、織機り機から外してきたばかりの織物のように強く、目の詰った歌声、時代と感性を超える神の永遠のように新しい歌声」なのである。

J・A・ブラッシュラー
S・E・バレンタイン




2013年9月9日月曜日

82号「エレミヤの肖像」発売


http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742446/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742446&linkCode=as2&tag=mmiyas-22
82号「エレミヤの肖像」

定価2000円+税



『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。次号のご予約、継続講読も承ります


目 次


「危機における希望の使者エレミヤ」(ルイス・スタルマン)

トーラーの教師としてのエレミヤ」(クリストル・マイヤー)

「再び生きていくための嘆き」(キャスリン・オコナー) 

「対 話 ──ヤハウェとその神託を取り次ぐエレミヤを形づくる声の詩学──」(ピート・ダイヤモンド) 


テクストと説教の間
    エレミヤ書1章1―10節(P・E・トンプソン)
    エレミヤ書5章20―29節(P・ウイルソン)
    エレミヤ書8章18節―9章2節(R・J・ゲンチ)
     
書評紹介
    ベン・ウィザリントン著『マタイによる福音書』
    ロバート・McL・ウイルソン著『コロサイの信徒への手紙・フィレモンへの手紙』
    F・ルロン=シュルツ/スティーヴン・J・サンデージ著『霊性の変容──神学と心理学の統合に向けて──』

2013年8月1日木曜日

82号「エレミヤの肖像」間もなく発売



「まもなく」といっても、あと1か月、9月上旬発行です。

全編エレミヤでお送りします。


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82号「エレミヤの肖像」


目 次
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742446/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742446&linkCode=as2&tag=mmiyas-22

「危機における希望の使者エレミヤ」(ルイス・スタルマン)

トーラーの教師としてのエレミヤ」(クリストル・マイヤー)

「再び生きていくための嘆き」(キャスリン・オコナー) 

「対 話 ──ヤハウェとその神託を取り次ぐエレミヤを形づくる声の詩学──」(ピート・ダイヤモンド) 


テクストと説教の間
    エレミヤ書1章1―10節(P・E・トンプソン)
    エレミヤ書5章20―29節(P・ウイルソン)
    エレミヤ書8章18節―9章2節(R・J・ゲンチ)
     
書評紹介
    ベン・ウィザリントン著『マタイによる福音書』
    ロバート・McL・ウイルソン著『コロサイの信徒への手紙・フィレモンへの手紙』
    F・ルロン=シュルツ/スティーヴン・J・サンデージ著『霊性の変容──神学と心理学の統合に向けて──』
     
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『インタープリテイション』では34号でもエレミヤ書を特集しています。残部僅少となっております。ご注文はお早めに。

『インタープリテイション』はお近くのキリスト教書店でご注文下さい。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。次号のご予約、継続講読も承ります


2013年6月10日月曜日

『イエスは誤解されている』




何年か前、SBLの年次大会に参加する機会があった。 SBL(Society of Biblical Literature)の年次大会は世界中の聖書関連の学会が合同で行う国際学会のようなもので、年に一回、アメリカの主要都市で開催される。

大きなコンベンションセンターを借り切って行われ、そこにはアメリカを中心に世界のキリスト教系の出版社が競ってブースを出す展示即売会のスペースも設けられているのが毎年の風景である。出席者たちは興味のある発表の合間を縫って、通常価格よりもかなり安い値段で出品される本を物色する。

その年、その即売会場で目を引いたのは何と言っても、大きな顔を一面に描いた宣伝ポスターだった。かなり大きなサイズのものが天井から吊されていたような記憶があるが、やや誇張されて記憶しているかもしれない。


The Misunderstood Jew:  
The Church and the Scandal of the Jewish Jesus

  


いずれにしても、会場のあちこちに貼られていたのは上右の図案のポスター。大きいとかなりインパクトがある。その後、版を重ねるにあたって、表紙をやや穏やかなものに変えたらしいが(上左)、この本のタイトルは直訳すると「誤解されたユダヤ人 —  教会、そしてユダヤ人イエスというスキャンダル」。

誤解されたユダヤ人」には「the」がついており、当然イエスを指すので、「誤解されたイエス」を経て「イエスは誤解されている」と訳せる。本の内容もだいたいそういったラインに近いようだ。ややセンセーショナリスティックなタイトルの付け方だが。

副題の中の「scandal」という英単語はキリスト教の文脈では誤解を招きやすい語だろうと思う。 普通はそのまま「スキャンダル」とするか、「醜聞」といった語が当てられる。英和辞典には普通、これに類する語しか載っていないし、一般にはそういう意味であり、英語でも主としてそういう意味であるようだ。

しかし、この場合は「躓き」と訳すのが妥当だろう。「つまずき」——厳密に言えば「躓きの石」。これが語源であるギリシャ語「スカンダロン」の原義。

「躓き」という語はほぼキリスト教用語と言っていい。もちろん「石に躓いて転ぶ」などの単純な場合のことではなく、「ある出来事によって信仰に疑いが生じる」というような意味の場合である。用法としては、牧師さんが「〜に躓く人もいます」などと言ったりするが、クリスチャンではない人には説明なしでは何のことやら理解できないだろうと思う。

いずれにせよ、副題は「ユダヤ人イエスという躓きの石」ということになる。「イエスという醜聞」よりかはかなりマシだろうが、それでもやはりセンセーショナリスティック。

もっとも、新約聖書では「キリストはユダヤ人への躓きの石」と言われてもいるのだから、問題ないかもしれないが、この本の内容はそういうものではないようだ。

著者のレヴァインはユダヤ人の新約学者。女性。かなり珍しい存在である。しかも、結構敬虔なユダヤ教徒であるらしい。その著者がユダヤ教を前面に押し立てて、イエスと新約聖書を論じているのがこの本であり、「イエスは誤解されている」というようなタイトルがつけられたわけだ。

次号「エレミヤの肖像」の書評で取り上げられており、かなり面白そうなので、読んでみようかと思ったのだが、主要な大学の図書館には入っていない。あまり学者さんたちの関心を惹かなかったのであろうか。図書費も湯水の如く使えるわけではないのだろうけど。

前回につづいて、キリスト教とユダヤ教の関係の話になった。この本もやはりシオニズム、反ユダヤ主義と関係しているらしい。

買って読もうか、どうしようか。

*****

【追】「センセーショナリスティックなタイトル」なんてことを言っていたら、すでに同じようなタイトルの本が教文館から出ていた。原書はドイツ語。こちらは現代における「誤解」が中心のようだ。


  
 R・ハイリゲンタール
『誤解されたイエス』 
(野村美紀子訳、教文館) 





*****



好評発売中







2013年5月31日金曜日

ジュール・イザーク Jules Isaac





新装81号「ほかに神があってはならない」好評発売中






    Amazonでもご注文いただけます。


* * * * * * * * * * *

翻訳・編集の過程で調べなければいけないことは、語の意味以外にも多くある。

一番悩ましいのは人名など固有名詞のカタカナ表記だが、原著者が当然のことのようにして括弧付きで持ち出してくる専門用語風の言葉は問題ではあるけれども調べ甲斐がある。その語の先に思わぬことが潜んでいることもある。

こうした語そのものについては本論ではほとんど説明はなく、「よく知られていること」という前提で短いコメントが付され、それが本論に関わってくることが多い。

否定的なことを仄めかしているのか、説明の必要もないほど常識的なことなのか。

言葉の額面は逆のことを示している可能性もある。だからこそ、括弧付きで仄めかしたりするのだろう。


今回はジュール・イザークの「侮蔑の教え」にまつわること(81号『ほかに神があってはならない』52頁)。 

原語の「teaching of contempt」に定訳はないようで、「侮蔑の教え」という訳を採用したが、欧米ではこの語がキリスト教信仰の文脈で意味していることは説明の必要がないことであるらしい。

論文末に「イザークは反ユダヤ主義はキリスト教の教えに原因があると主張した」と訳注をつけたが、こういう主張そのものは日本でも知られていないわけではない。

ただ「侮蔑の教え」という言葉から連想されることではない。もちろん、ジュール・イザークという名も非常によく知られた名というわけではない(アイザック、イサークと変えていった末に、印刷直前に「イザーク」に差し替えた。後述)。


引用されていた書籍は主要な大学の図書館にはなく、ネット上の原書へのレビューが参考になった。カトリックの教えを古代から丹念に調べ上げ、そこに潜む反ユダヤ的傾向を指摘したものであるらしい。非常に興味深い。

この手の本は邦訳されていてもいいような気がするが、「反ユダヤ」についての本は訳されても、「反ユダヤのキリスト教」がテーマではやはり避けられるようだ。

著者は1963年に亡くなっており、版権もおそらく来年には切れる。手頃な厚さの本。どなたか訳さないか。


Jules Isaac, The Teaching of Contempt: Christian Roots of Anti-Semitism, New York: Holt, Rinehart and Winston, 1964. 

外国の中古市場でしか見つからなかった








Gesù e Israele
 (この本をもとに上の本は書かれた)







この手のことを研究している日本人がいそうなものと思って検索してみたが、問題はJules Isaac という名前であった。カタカナ表記が不安定だと検索にかかりにくい。しかも「ジュール」も「イサーク」も非常に多い名前。なかなか当人の情報が集まらない。

さらに悪いことには、アニメのガンダムシリーズに「イザーク・ジュール」なる登場人物がおり、グーグルでの検索の大部分はこの人物のもの。宗教関係の固有名詞はアニメなどで用いられることが多く、こういうときは非常に厄介。

ふとしたきっかけで、別の検索エンジンをつかってみると、今まで見たことのなかったエントリーがいくつか上位に並ぶ。 検索語が多少違っていたのかもしれない。

この検索で、菅野賢治さんという東京理科大の先生がジュール・イザークの周辺を研究しているということがわかり、フランス留学経験がおありということで、Jules Isaac のカタカナ表記も確証を得た。関連する訳書が数冊ある。

  


右の『イスラエルとは何か』(平凡社新書)が値段も手頃で、さらなる探求の入口としてはよさそう。『反ユダヤ主義の歴史』は五巻の大作。

ユダヤ教とキリスト教の関係についての研究には、もっと注目しておいた方がよさそうだ。さらには反ユダヤ主義とシオニズム。

【追記6/3/2013】
『インタープリテイション』 でも22号に「ユダヤ教とキリスト教の対話」という特集が組まれている。1993年7月刊。すでに20年前。他宗教との関係については、近刊84号86号が扱う。来年2月と8月の予定。


2013年5月25日土曜日

81号「ほかに神があってはならない」 新装版で刊行



http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742446/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742446&linkCode=as2&tag=mmiyas-22早いところでは週末には店頭で手にとってご覧いただけると思います。

特集タイトルは「ほかに神があってはならない」。偶像崇拝をめぐる問題が主に扱われています。

【旧約】関連の論考では、「二つの十戒」の違いや、前文から第二戒についての詳細な検討から、古代における〈正統ヤハウェ信仰〉を描き出し、今日の「一神教」信仰が抱える問題を考えています。


【新約】関連の論考では、新約聖書において、イエス、パウロ、ヨハネ文書が偶像崇拝に対して、どのような態度を取っているか、その違いが対比されています。また、古代における偶像崇拝への批判は戯画化されたものであることが多く、必ずしも実際の祭儀などを描写したものではないと指摘されています。


【神学】関連では、アウグスティヌスが扱われており、個人が神との関係においてもつ「驕り」が偶像崇拝につながるという考えが『告白』における「洋梨」のエピソードを中心に、分かりやすく読み解かれています。



【現代社会】との関連での論考では、ブッシュ大統領(ジュニア)時代のアメリカ政府が戦争の遂行などの政策の正当化に宗教を利用していたことが詳しく辿られています。そうしたことを是としていた当時の社会的雰囲気に警鐘を鳴らしつつ、現代においてキリスト教信仰をもつ者は国家への忠誠について、どのような態度を取るべきなのかという問題が提起されています。




『日本版インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお買い求めいただけますが、お近くにない場合は こちら からもご注文いただけます。「81号」と明記の上、ご連絡下さい。また、「継続講読」も受け付けています。継続でご予約いただきますと、刊行の数日後には郵送でお手許に届きます。

Amazonでもご注文いただけます。
 


2013年4月26日金曜日

5月末、新装版にて再出発いたします

諸般の事情により、刊行が止まっておりました『日本版インタープリテイション』ですが、5月末より装いも新たに再始動することになりました。

版元がATD・NTD聖書註解刊行会から聖公会出版に変わり、刊行順も変更になります。

判型はこれまでどおりのA5判ですが、装幀が新しくなり、年4冊刊行の態勢がすでに整いつつあります。詳細は追ってこのブログでもお知らせいたしますが、 新生第1号の81号は5月25日刊と決定しました。


このブログ経由の注文はバックナンバーも含め、従来どおり受け付けます。価格も税込2100円のまま。継続講読・予約の注文もお待ちしております。




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