2014年1月27日月曜日

愛の数式(雅歌より)



(アダムとエバの)物語に表されている筋書――〈2〉であるという粗野な状態、〈1〉であろうとする欲求、〈2〉をあわせて〈1〉にしようとする葛藤――は文学史上、特に詩において、様々な装い、順序、組み合せでくり返されている。(中略)

最近ではE・E・カミングズが「一とは二の半分ではない。一という半分が二つで一なのだ」と率直に述べている。

これらの物語や詩が簡単な数学の命題を表わしているのだとすれば、そこにはそれを解こうとする葛藤が示されていることになるだろう。

数自体は簡単である。

難しいのはその式を解くこと。

どのようにすれば、〈2〉から〈1〉が得られるだろうか。

もちろん引き算をすれば簡単なことである――「〈2〉マイナス〈1〉イコール〈1〉」。

しかし、そういうわけにはいかない。

だから、葛藤が起こる。

それはエロスとしての愛がもつ問いかけと約束、欲求不満と喜びという断ち切られた有り様の間に、ありえない繋がりを求める葛藤である。


古代イスラエルの文学の中でエロスとしての愛に献げられたもののうち、唯一現在に伝えられている雅歌もまた、この筋書きに関与している。

ロバート・オルターが巧みに言い表しているように、雅歌は「男女の体という異なる領域、異なる感覚を混ぜ合わせている卓越した愛の詩」である。

この混ぜ合わせ、つまり、ひとつになろうとする二人の欲求は、雅歌の技法、欲求の本質と力のより明示的な描写の中に見ることができる。

技法という点では、詩の大部分の言葉を発している恋する二人の声の絡み合いや、互いの体についての描写が混ざり合う傾向にあるという手法に注目したい。

二人とも鳩のような目をしているとされ、百合を連想させ、子鹿とガゼルの優美さを呼び起こし、素晴らしい髪をもち、甘い匂いがする。

また、それぞれが力と強さをもって描かれている(例えば、塔と城壁、杉の木と大理石の柱)。

〈1〉であろうとすることへの欲求は、二つある夜の場面のうちの最初のものではっきりと表現されている(雅歌三1−5。二つめの場面ではさらにはっきりと表現されている。五2−8。後述)。

この場面の中で若い女は「私の魂が愛している彼」を夜のうちにうまく見つけたと物語る―「つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします」 (雅歌三4)。

母親の家は第二連では外の世界に対する安全と親密さの表象だが、第三連では人目につかない場所(母親の家のさらに奥の部屋)を求めるという、さらに場所が絞られたイメージへと変わっている。

それは失われた繋がりへの回帰をより明示的に示す比喩であり、受胎の小部屋は次第に子宮へと変わっていく。

恋する二人はそこで母親というひとつの体の中に包み込まれた双子―骨の骨、肉の肉―となるのである。


この比喩は八章一節でさらに強められている――「おお、あなたはともに母の乳房を吸った/兄のよう……」。

おそらく、〈1〉であろうとする熱望を最も印象深く連想させるのは八章六節の有名な言葉であろう。


わたしを刻みつけてください
あなたの心に、印章として
あなたの腕に、印章として
愛は死のように強く
熱情は陰府のように酷い


心に刻みつけられ、肌に入れ墨され、死において共に結びつく
この詩では強迫観念ギリギリのところで揺れ動き、互いの間にある境界を消し去らせるほど強い愛が語られている。


トッド・リナフェルト 「愛の数式」(日本版インタープリテイション79号「雅歌」)





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特 集

雅 歌

第79号 2010年8月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年1月22日水曜日

書評『イエスは誤解されている』


Amy-Jill Levine, The Misunderstood Jew: The Church and the Scandal of the Jewish Jesus, 2006.

・・・(略)・・・

(反ユダヤという)問題に気づいていて、それにうまく対処していると思っているキリスト教徒に欠けていることが指摘されている。

この点について、自分は著者の告発の対象にはなっていないと考える読者はあまりいないのではないだろうか。
 


例えば、イエスを女性の解放者とするフェミニスト研究は第二神殿時代のユダヤ人社会において女が隅に追いやられていたことを誇張する傾向があると著者は論じている。

同様に、解放神学はイエスを抑圧された人々を擁護する者として描き、その際にユダヤ教は生来的に過酷なものとして非難される。

反戦主義者はユダヤ人が「戦う救世主」を求めていたからイエスを受け入れることなどあり得なかったと語る。

著者はこうした描写が歴史的に正しいのかを問題にし、神学的には、それぞれの点において、イエスが独特で、例外的であったとする必然性に疑問を呈している。
 


また、パレスティナ人の権利を擁護する人が時として用いる不当で非生産的な反ユダヤ的固定観念がどのようなものであるかも短く論じている。

この点についてパレスチナの神学者ナイム・アティークが特に取り上げられ、著作やスピーチを引用して、その裏づけに乏しい主張の実例を示している。

本書のこの部分はアティーク(およびパレスチナ解放運動一般)を擁護するキリスト教左派の怒りを買い、レヴァインは反シオニズムと反ユダヤを混同していると反論された。

しかし、彼女の立ち位置にはもっと微妙なニュアンスがあるのではないだろうか。

著者は「パレスティナ人の正当な要求」(183頁)を退けるつもりはないが、それを支持するために究極的には役に立たない主張を用いた言葉とイメージが横行していることに疑問を呈しているのではないだろうか。

本書の出版以来、著者は「目的は手段を正当化しない。よいことを意図しているにも拘わらず、使われている言葉は毒を含んでいる」という主張を繰り返している。

(《書評》エイミー=ジル・レヴァイン著『誤解されたユダヤ人』インタープリテイション82号「エレミヤの肖像」)




 

特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年8月
定価2000円+税
 

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2014年1月17日金曜日

81号「ほかに神があってはならない」まえがき



現代文化の多くはカルヴァンがおよそ五〇〇年前に『キリスト教綱要』の中で「人間の本性は永久に偶像を造り続ける工場だ」と言ったのが正しかったことを確認させてくれる(第一編11章8節)。

エンターテイメントやスポーツなどの娯楽産業が生み出す偶像から、個人の繁栄や国の安全の名のもとに忠誠を求める経済や政治の上での偶像まで、信仰的であろうとしている人は「わたしをおいてほかにいかなる神もあってはならない」と戒める聖書の神に対抗して誘惑を仕掛けてくる強力な敵と日々遭遇している。

今号の『インタープリテイション』はこの戒めの聖書における基礎とその神学上の重要性について探求していく。

 

ディーン・マクブライド教授は「ヤハウェのみ」の排他的礼拝が古代イスラエルの信仰の本質であるとし、それを「正統ヤハウェ信仰」と呼ぶ。

同教授は神とモーセの声が混ざりあっている法を適切に理解するための解釈上の鍵として、この規範的な命令がどのように機能しているかを論じ、「主なる神の個別性とイスラエルとの独特な契約関係における親密で感情豊かな相互関係を強調することで、寛大な一神教という露骨な落し穴を回避する一方、偶像崇拝の多神教を避けることもできる」と結論する。


新約聖書は偶像崇拝に対する旧約聖書の戒めをもとにしているとジョエル・マーカス教授は考える。

特に使徒パウロの書簡では、偶像崇拝は性的な不道徳と金銭への欲と関連づけられている。

同教授は「『カエサルのものはカエサルに、アフロディーテのものはアフロディーテに、401Kのものは401Kに』がなすべき正しい敬虔なこととされる状況がある。

しかし、この世界の財に対する適切な評価が限界を越え、偶像崇拝になってしまうような状況もある」と論じている。


レノ教授は古典的なキリスト教思想における驕りと偶像崇拝の関係を検証する。

聖アウグスティヌスは驕りという罪において現れる過度の自己愛を偶像崇拝に結びつけた。

若き日のアウグスティヌスが梨を盗むという有名なエピソードに啓蒙時代の人間中心主義における驕りに満ちた自己主張を関連づけ、「自身のうちに安息を見出すという精神上の計画は熱に浮かされたようにして仕える偶像を作ることにつながったりしないのだろうか」と同教授は問いかける。 


その次の論文でナンシー・ダフ准教授がその問いに応答する。

大統領の公式声明や福音派の大統領報道官が用いるレトリックが他の神を拝んではならないという戒律への違反になっていると同教授は論じている。

「合衆国にあるすべての教会はリベラル派であれ保守派であれ、なによりもまず他に並ぶもののないイエス・キリストの十字架の下にあるのだということを知らしめ、福音書の完全性を擁護するために力を合わせる必要がある」と著者は結論している。


J・A・ブラッシュラー
S・E・バレンタイン




特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

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2014年1月12日日曜日

80号「神の像」まえがき



現代文化において、少なくとも北米においては、「イメージ」といえば、政治家や自己宣伝をする各界の指導者が自分をよく見せようとするときに使う言葉ととられるが、今号のインタープリテイションではそれとは非常に異なる意味におけるイメージ(像)の概念を探求していく。
 


最初の二本の論文は、特に創世記の創造物語に描かれている人類における神の像に焦点を当てている。

W・シブリー・タウナー教授は人間が神の像において創造された被造物と描かれていることの意味をどう解釈すべきかを検討している。

同教授はカール・バルトを引き合いに出しつつ、人間における神の像は人間の性質をその全体性が神、自然、そして両者相互の正しい関係に左右される相関的な存在として描いていると結論づける。

そこでは神の像が原罪ゆえに失われたと強調する解釈よりもずっと肯定的で力のある概念となっている。
 


デボラ・クラウス教授は硬貨に描かれるカエサル像を出発点に、イエスの教えとその後のパウロおよびその信奉者の手紙における発展の中で神の像を分析している。

神の像はこの世の帝国すべてに立ちはだかるものとしてイエスが描いた神の支配というもうひとつの世界の表象であった。

神の像における人間はすべてをその創造者に負っている。
 



残り二本の論文は、わたしたち人間がどのように現実を思い描き、どのようにして自分にとっての神の像と自分自身を形成しているかを注意深く見ていくことで、神学的に神の像という概念に近づこうとしている。

ダグラス・オッターティ教授は時間と空間の膨大な広がりについての科学的な知識が急速に増大している現状に照らして見るとき、神学における神の像、神の世界、そしてその中での人間として地位は見直されるべきなのではないかと挑発的に論じていく。

アン・アステル教授はローマ・カトリックに改宗したユダヤ人殉教者エーディト・シュタインについて記している。

同教授によれば、シュタインはヒトラーの死刑執行人の手による死に直面したとき、自身の自己イメージとして探し求めた神の像を十字架の聖ヨハネの著述の中に見出したという。
 

 本号の表紙を飾るヨーク大聖堂の扉に刻まれたアダムとイブは彼らの創造者であり、われわれの創造者である神の手に安全に、そして当然のこととして包まれている。

それは政治家や自己宣伝をする各界の指導者の狡猾な能力を越えたところにある現実を描き出し、人間であるということが何を意味するのかについて神学的な真理を指し示している。


ジェームズ・A・ブラシュラー
サミュエル・E・バレンタイン






特 集

神の像

第80号 2011年7月
定価2000円+税
 

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2014年1月7日火曜日

キリスト礼拝は偶像崇拝か



使徒パウロは異教に多くの「神々」と多くの「主」がいることを

    「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
    また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」

というキリスト者の告白と対比している(Ⅰコリ八4−6)。

多神教については〈シェマ〉(申六4)および古典的なヤハウェ信仰における唯一の神が語られる。



とはいえ、どういうわけか、神のこの唯一性はイエスを(神と同義語である)主と告白することと両立している。


これはキリスト者が父なる神とイエスという二柱の神を礼拝し、十戒の第一戒に違反しているということではないのだろうか。

また、第一戒は第二戒と密接に関係しているのだから、まさにキリスト者こそが偶像崇拝者であることを意味することにもならないだろうか。


この非難は中世のユダヤ人によるキリスト教への反論によく見られたものであり、ラビ伝承の中にも潜在する。
 

イエスを神的な者として崇拝するキリスト者は第一戒に反しているとして、旧約聖書、その後のユダヤ教およびキリスト教の伝統において第一戒と密接に結びついている〈シェマ〉における神の唯一性を侵していると考えるユダヤ人が新約聖書には登場する。


例えば、ヨハネ福音書では「ユダヤ人たち」が二度神に対する冒瀆の罰として(レビ二四16)イエスを石打ちにしようとしている。

イエスが自分を単なる人ではなく、神に等しい者としたからである(八58—59、一〇3133。五18参照)。


同様に、マルコ福音書二章57節では律法学者たちが中風の人の罪を赦したイエスの言葉に憤慨し、「唯一の方、すなわち神以外の者は誰も罪を赦すことはできない」のだから、神への冒瀆だとイエスを非難している。

この言葉は〈シェマ〉を思い起こさせようとしているのであろう。

マルコ福音書の後段では、大祭司がイエスは神を冒瀆したという非難を繰り返しているが、これは神の右手に自分が立っているとイエスが預言したからであった。

自分を神に等しいとしたのである(一四6164)。


パウロが偶像崇拝に関する言葉と「唯一の神、唯一の主」という言葉を並置したのは偶然ではなく、イエスを主と宣言するということは逆説的なことであり、潜在的に躓きとなるのだという慎重な認識を示そうとしていたからのようだ。

キリスト者が偶像崇拝の罪を犯していないと言えるのは、イエスが唯一の神から切り離された神的存在というのではなく、唯一の神からこの世界の創造と回復のために遣わされた宇宙的な代理人旧約聖書における知恵やフィロンにおけるロゴスのような存在であるからだとパウロは論じているのかもしれない。

ヨハネ福音書ではこの「天に二つの力」という問題について、〈シェマ〉を再解釈してイエスを父と子の同一性に矛盾しないものとし、父と子は「ひとつ」であるという同様の解決法が示されている(ヨハ一〇30、一七11、2223)。




ジョエル・マーカス「新約聖書における偶像崇拝」47-48頁 (インタープリテイション81号「ほかに神があってはならない」)




特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

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2014年1月3日金曜日

82号「エレミヤの肖像」まえがき



インタープリテイション82号

エレミヤの肖像




まえがき

A・ヘッシェルは「預言者の根本的経験は神の感じることを分かちもつことである」と述べた(『イスラエル預言者〈上〉』教文館、五九頁)。まさに今号「エレミヤの肖像」を始めるに相応しい言葉であろう。文学上の登場人物としてのエレミヤは「われわれの罪がわれわれ自身を告発する」とき(エレ一四7)、「とこしえの愛で」愛する神(エレ三一3)の複合的で威厳のある神学上の肖像をどのように体現するのか―。今号はそれを論じる四つの論考からなる。

ルイス・スタルマンはエレミヤ書を「意味作成図」として説明する。拒絶し難く、しばしば不可解なものとして経験される苦難と喪失を古代および現代の信仰共同体は信仰のもとに、またしっかりと希望に繋がっている「率直の精神」をもって、いかに乗り切るべきかがそこに示される。「エレミヤの希望は危険であり、破壊的であり、人を戸惑わせる」。「勝利の保証はほとんどなく、苦難を免れる可能性はそれ以上に小さい」。そのような希望は古代イスラエルが期待していたものでも、現代のわれわれが望むものでもないかもしれない。しかし、スタルマンがはっきりと示すように、それがエレミヤにもたらされた神の言葉が伝える不変の遺産なのである。

クリストル・マイヤーは「何が預言者を預言者たらしめているのか」という単純ではあるが重要な問いから議論を始める。エレミヤ書における「律法」という語の用例を焦点に、悔い改め(エレ七5―8)、安息日遵守(一七19―27)、公正と正義(二二1―5)、社会の中で虐げられている人々への配慮(三四13―17)をめぐって、エレミヤの説教者、教師、神の命令の解釈者としての役割に慎重な釈義が施され、結びには「トーラーの教師としてのエレミヤ、特にその社会的価値に焦点を合わせることは現代の読者に聖書における神の命令への義務について考えさせる」と述べられている。

キャスリン・オコナーはトラウマと災害の研究を用いて、エレミヤ書一一―二〇章におけるエレミヤの嘆きに新たな解釈を試みている。なぜこの嘆きは苦難を神の正当な罰として正当化する罪の「告白」として読まれることが多いのか。オコナーはこの解釈を放棄することなく、エレミヤの視点から、その解釈は心的外傷を受けた受難者を将来において積極的な方向へと動かすには「牧会的にも神学的にも十分でない」と見る。「生存者の模範」としてのエレミヤは「再び生きていくために嘆く」。真実を語るためには「公平な審判者の面前で、怒りと絶望と喪失を表現」しなければならないが、そんなときでさえ神にしがみついていくのだということをエレミヤは嘆きを通して信仰の共同体に示すのである。

ピート・ダイヤモンドは〝終結〟に抗う多声的なテキストに関するミハイル・バフチンの理論を通して、エレミヤ書の中心人物であるエレミヤと神を解釈している。エレミヤ書におけるレトリックは、ひとつの声が真実をすべて話し、独白によってテキストを確定するというのではなく、読む人に真の対話を示すという戦略をとっている。ダイヤモンドがこの創意に富んだ論考で示すように、神、預言者、そしてわれわれ読者は相互にこの対話の維持に力を注ぐべきなのである。この視点においてエレミヤ書の「解釈の試み」を示し、また右手に聖四文字(ヤハウェ)の入れ墨があるミステリアスな人物とダイヤモンド自身が交わす想像力に富んだ結びの「対話」も示しながら、その論考はエレミヤ書の「最初のページを開き」、エレミヤ書を改めて解釈し直すことへの誘いで終わる。

J・A・ブラッシュラー
S・E・バレンタイン



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