2014年7月27日日曜日

エレミヤは神を非難する




キャスリン・オコナー「再び生きていくための嘆き」
82号「エレミヤの肖像」より



エレミヤは自分は預言者として失敗したが、それは自分のせいではないと信じて疑わなかった。

エレミヤが宣告を余儀なくされた暴力と廃墟の到来の時期を遅らせたのは、彼が代わりに言葉を伝えたその信頼しがたい神なのである。

その遅れが敵対する人々、友人、家族による嘲りと迫害を招いた――「主の約束はどこへ行ったのか」(一七15)。

神の言葉の成就が遅れたことで、彼は侮蔑と冷笑の対象に仕立て上げられた。

それで、エレミヤは間違いを犯したのは神だと宣言するのである。

その中で、預言者としての責務をめぐるエレミヤの苦しみは災害の被害者たちの苦しみや神学上のジレンマを思い起こさせる。

エレミヤは神の言葉を宣言し、神の代理となり、民に敵対し、民の残酷さの標的になっているが、彼の祈りには預言者としての使命の追求以上のものが窺われるのである。



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特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年9月
定価2000円+税








2014年7月20日日曜日

永遠の未来との調和



ジョン・D・ウィトヴリート「擦り切れた賛美の歌は主に歌わず」
83号「アドベントと典礼」より


創造は組織神学においてもアドベントの敬虔においても、ごく自然に神の摂理および時における神の御業の理解についての観想に結びつく。

アドベントは予定が詰まり過ぎの一週間のスケジュールという暴君から距離をおき、特にパウロの「時が満ちる」(ガラ四4)という概念との関連において、神が贖いを実現する宇宙の時刻表の雄大さを見渡す稀有な機会を与えてくれる。



ラーナーはアドベントにおける印象深い黙想において

「アドベントにおける典礼の記憶は……過去と現在と未来を結びつける。

過去とは、まだ神のみに隠されていた救いの到来を待ち望んでいた旧約聖書のことであり、現在とはすでに世界の中では起こっているが、まだキリストのうちに隠されている救いのこと。

そして、未来とは時の終わりにおける世界の変容とともに明らかにされる救いのことである」と述べ、こう結論づけた。



キリストにおける神の働きを通して、時はあるべき姿をとるようになった。

時はもはや空虚で荒涼とした、消えゆく瞬間の連続ではなく……、

時そのものが救われているのである。

時には現在を保護し、未来をその中に集めることのできる中心がある。

すなわち、すでに真にもたらされている未来で現在を満たす核心部分であり、今生きている現在を永遠の未来と調和させる焦点なのである。




 



特 集

アドベントと典礼

第83号 2013年11月
定価2000円+税



2014年7月13日日曜日

最も美しい瞬間




F・W・ドブス=オルソップ
 「美の喜びと雅歌4章1―7節」
79号「雅歌」より



肉体の美しさがもつ生に息吹を与える力はイーダ・フィンクの短編集『時の切り抜き』の中の一編に非常に痛切に(そして脳裏から離れないような形で)見せつけられる。

その物語の舞台は第二次世界大戦中のポーランドのどこか――時はその架空の町が最初の「主の民の恐ろしい犠牲」となった一年後――に設定されている。

語り手は足が弱く「椅子」に座ったままの生活をしている無名の老女である。

彼女の家とそれを囲む果樹園――繰り返し「庭」と呼ばれる――の外で起こっていることはすべて、彼女の世話をする若い女性アガフィアの「物語」を通してのみ表れる。

ある時、アガフィアはある日の朝、森の中に隠れていた時に牧場で行われていた「トラック二台分のユダヤ人」の銃殺を目撃したと語る。

犠牲者のうちのひとりは「おさげの黒髪で絵のように可愛らしい」十五歳の少女であった。

彼女は「裸にされ」、まさに銃殺されるところだった。

「でも、彼女に狙いを定めた人は彼女を撃つことができなかったんです」

とアガフィアはいう。

「その人は美しいものを見る目をもっていたのだと思います」。

しかしながら、この物語は語り手が「聞いたこともない残虐さで暮らしがが充満していた」と言うところのユダヤ人虐殺の時代に設定されており、少女の美しさによってもたらされた死刑執行の猶予は短く、結局シュラムのおとめの如くその少女も美しさによって救われることはなかったと知らされても驚きはない。

予定されていた死刑執行人の上官である「金髪の男」がすぐさまやって来て、銃を取りあげ、少女を撃ち殺す(ツェランの『死のフーガ』からの引喩であることは疑いない)。

この場面は物語が四分の三ほど進んだところに出てくる。

そこまで読み進んで初めてわかることだが、この出来事が語られる少し前のところに、老女が彼女の「庭」でその「黒髪の」美少女が少年と交情におよぼうとしているのを見つけて追い払うという場面があり、老女は物語の残りでこの場面について考えを巡らせることになるのである。

彼女は痛々しく椅子から立ち上がり、「一歩一歩」たどたどしく「美しい庭」へと歩いてゆく。

暗闇が「ぶどう酒の色
――それとも血の色」で迫ってくる。

老女にとって一日のうちで「最も美しい瞬間」はこのときであった

――
 
「満開の花が約束されている」早朝でもなく、「それ自体が豪奢な美しさ」を誇る真昼でもない。

彼女の視線は最後に、半裸で横たわる少女を見つけた場へと向けられる。

少女の「美しさが私の心に真っ直ぐに迫ってきた」


――老女は思い返す。

しかし、彼女は若い世代の放蕩ぶりを非難しながら、その男女を追い払う。

そして今、彼女の怒号に対して少女が静かに言い放った苦い言葉を思い出す
――
 
「私たちは何をすることも許されていないんだわ。

愛し合うことも、幸福にすることも、私たちには許されていない。

許されているのは、死ぬことだけね。

『私があなたくらいの年頃のときには』なんてあなたは言うけれど、私たちがもっと年をとるなんてことがあるのかしら。

さあ、ジクムント……行きましょ」。

少年と少女は走り去る。

「楽園から追放」されたのだ。

二人が横たわったところを老女が見ると、踏み潰された花、折れ曲げられていた芝や雑草は

「折れ曲がってもいなければ、誰かが触れたようでもなく、真っ直ぐに伸びていた」。







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特 集

雅 歌

第79号 2010年8月
定価2000円+税
 

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2014年7月6日日曜日

その肌の色を変えられるだろうか




ロドニー・S・サドラー
クシュ人はその肌の色を変えられるだろうか」
(84号「他者へのまなざし」)



クシュ人は現代人が安易に「黒人」と分類する集団として「人種論的に他者化」される潜在性をもつにもかかわらず、ヘブライ語聖書の著者はそのような本質論的な分類をしていない。

ここで検討してきた例では、人種論的思考の構成要素は比較的少なく、クシュ人の肌の色が認識されているという程度のことに限られている。

肌の色の黒さは決して否定的に評価されておらず、クシュ人との関連で他の人種論的な構成要素が見られるとしても、聖書の著者はクシュ人を決して人種差別の対象とはしていなかった。



ここではユダ人とクシュ人の交流は頻繁であったけれども、聖書の著者はクシュ人を「人種論的に」異なる集団とは見ていなかったということを示してきた。

筆者は拙著『クシュ人は肌の色を変えられようか』ではそこからさらに一歩踏み込み、クシュ人について聖書の言及をすべて吟味した後、ヘブライ語聖書には表現型に基づく「人種」という概念はないと結論した。

旧約聖書では表現型の違いは人類のタイプについての存在論的な相違とは関係なく、様々な国の民についての差異を示す要素でしかなかった。

民数記一二章で見たように、聖書の神は人種論的な思考の根拠となりかねない偏見に時に悪影響を与えることもある。創世記九─一〇章は領土争いに関係するテクストや全人類の親類関係を人種論的な解釈、人種差別的解釈の基礎にすることによって、聖書を人種論的な思考で解釈し直す危険性を示している。

結果として、現代の釈義においては聖書の政治的な文脈に気を配る必要が強調されなければならない。

古代における偏見が現代の集団間の関係に影響を与えるようなことは許されないのである。







特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税





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