2014年3月29日土曜日

考古学から見た聖書、聖書から見た考古学

 

長谷川修一『聖書考古学 - 遺跡が語る史実』(中央新書)は最近では、この分野最大のヒットと言っていいだろう。刊行1年で部数3万を超え、その勢いを残したまま、同著者の続編登場である。







 長谷川修一『旧約聖書の謎 - 隠されたメッセージ』(中央新書)


  聖書考古学では馴染みの「ノアの方舟」「出エジプト」「エリコ征服」「ダビデとゴリアト」といったテーマだけでなく、「シシャクの侵攻」「アフェクの戦い」「ヨナ書と大魚」といったテーマが前著同様、具体的な資料を示しながら、わかりやすい文章で綴られている。

前著が新約時代を含む広い時代を対象にしていたのに対して、新著は旧約聖書にテーマが絞られている。よく知られた物語のどの部分に考古学が関わってくるのか。ときに古代メソポタミアの文学も引用し、ときに発掘の歴史を振り返りながら、その関係が解き明かされていく。しかし、専門的になりすぎることなく、広く一般に語りかける筆致、わかりやすい比較、具体的な資料の示し方は
むしろ前著に優る。

この利点が最も効果的に発揮されているのが、「シシャクの侵攻」「アフェクの戦い」を扱う章ではないだろうか。
一般にはあまり語られることのないテーマだが、専門的な知識を随所にはさみながら、読者を置き去りにせず、テンポよく議論をまとめ上げている。

 語り尽くされたテーマを新しいデータで語り直すのもよいが、そこでは読者の興味、関心がそこまでに語られる知識の蓄積をもとに、新しいテーマへと徐々に広げられていく。

著者の長谷川修一氏はこの春から立教大学に研究の場を移す。ますますの活躍が期待できそうである。

 

2014年3月24日月曜日

新約聖書の中の「聖書」


「グラフェー」のこと

新約聖書に「聖書に書かれている」などと書かれるときの「聖書」は、原語のギリシャ語ではだいたい「ホ・グラフェー」という語である。「ホ」は定冠詞男性単数、「グラフェー」は「書いてあるもの」というような意味であろうか。日本語的には「書かれた物」という方がしっくりいくかもしれないが、原語には受け身の意味はないようだ。

新約聖書で「聖書」といえば、当然のこととして、「旧約聖書」のことを指していると考えられるが、「いつでもそうだろうか」ということを論じ、それによって、ヨハネ福音書の性格を明らかにするというのが、次号85号「ヨハネ福音書と教会」の第二論文「聖書の〈終わり〉」である。

85号は取り組むのにはやや尻込みしてしまいがちなヨハネ福音書への格好の入門書になっている。四本の論考、三本の「注解」が相互に作用しながら、ヨハネ福音書の周辺にある話題、「ヨハネ共同体」、グノーシス主義との関係などについて、ひとつひとつ解き明かされることがあまりない話題が扱われている。

論考の中の主張もさることながら、その主張の過程にある基本概念の「復習的な」説明から得るものが多い。

ところで、ヘブライ語聖書、つまり、一般に言うところの旧約聖書のことをヘブライ語では「ミクラー」という。「読む物」「読み物」という意味である。

ギリシャ語では「書かれた物」、ヘブライ語では「読まれる物」ということになる。

2014年3月19日水曜日

聖書の中の「黒人」観


 クシュ人の妻についての物語は「人種的に黒い」と見なされることが聖書の著者にどのように受けとめられていたかも教えてくれる。

まず第一に、この物語にクシュ人の妻が登場するということは出エジプト記一二章38節の民族的に「種々雑多な」集団の移動にクシュ人も含まれていたと著者が考えていたということである。

第二に、クシュ人の女性との結婚で後代におけるモーセの地位が貶められることは決してなかったという点である。

後代の解釈者はクシュ人の女性との結婚ゆえに法伝授者モーセを貶めることはなかった。

最後に、ミリアムが不満を述べたモーセの結婚そのものに対してヤハウェから否定的な反応がないということは、そのような結婚を神は禁止していないということである。

モーセは民族的にはクシュ人ではないというのが現代の釈義における前提だが、「異人種間の」結婚は神学的に禁止されているという現代における考えはこの物語によって打ち負かされる。

清浄こそが最重要課題であるレビ人のうちで最も優れた人物であったモーセにもこのような結婚が禁じられていなかったとすれば、現代の解釈者が今日においてそうした結婚を問題視することはできなくなる。
 


まとめれば、現代の読者に「人種的に他者」と見なされるかもしれない女性とモーセが結婚したことをめぐる議論は、誹謗中傷を正当化するために「人種」をもち出すことの妥当性をなくしていく役割をもっているということである。

この物語の著者の傾向はモーセがクシュ人の女性と結婚したことに侮蔑的態度をとるミリアムに明確に反対する。

民数記一二章が方向性として意図的に反人種論的立場をとっており、クシュ人がヘブライ人と存在論的に異なっているという考えを排除しようとしているということ、また、同章がモーセとクシュ人の女性の結婚にヤハウェの承認を与えることによって、感知される他者性を象徴的に乗り越えているとすることは十分に妥当であろう。

この物語はミリアムの不満に対するヤハウェの皮肉な反応を強調することによって、有色人種への偏見に対抗しようとした初期の聖書の著者の戦略を示していると見ることもできるのである。


ロドニー・S・サドラー「クシュ人はその肌の色を変えられるだろうか ―クシュ人・「人種的他者化」・ヘブライ語聖書―」(インタープリテイション84号 「他者」へのまなざし)





特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税





2014年3月14日金曜日

心の石板に刻む

〔書評〕
デイヴィッド・M・カー著
心の石板に刻む ─聖書と文学の起源─



(略)

カーによれば、人間形成がこの書記教育システムの目的であった。

その結果として読み書きができるエリートが生産された。

ここでいう読み書きの能力は単に読んだり書いたりする能力ではなく、文化的な能力だったのである。

この教育システム、文化教化のシステムによって形成された者は自分が習得した教育課程によって伝えられるイメージや思想の蓄積の中から引き出されるものを基にして考え、話すことができた。

そうした長く保持されたテクストは記されたテクストを通してだけでなく、それを修得した者の〝心に記された〟伝承として記憶され、世代から世代へとその文化がもつ価値感を伝えたのである。




古代エジプト、ギリシャに目を向ければ、そこでは書記教育、文化教化についての資料は比較的乏しいが、カーは同じような図式があったことを支持する根拠はあるとしている。

そこでも古めかしい言葉遣いの古いテクストが文化的なエリートによって修得される教育課程となっていた。

指導は小さな家族集団内で行われ、「父」は「息子」に読み書きの基本を教えるだけでなく、文学の総体を習熟させた。

その熟達度はやはり実演によって示される。特にギリシャ文化では饗宴の席がホメロスなど代表的な詩人の古典的な「修得科目」の暗唱の場であった。

最も重要なのは、伝統の熟達によって社会のエリートを分離するためにこの教育方法が用いられたことである。

 


カーは同じ図式が古代イスラエルにも見られるとし、箴言のような「知恵」のテクストだけでなく、詩編や申命記、レビ記、また、イザヤ書、エレミヤ書などの預言書のテクストも教育目的で用いられていたことを示す証拠があると論じている。

そこにはテクストの再生産だけでなく、暗記や暗唱、指導といった要素が見出されることが注目される(エレミヤ書三六章、申命記六章など)。

そうしたテクストもまた、政治にせよ宗教にせよエリート集団の文化教化に用いられたというのがカーの主張である。





http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742624/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742624&linkCode=as2&tag=mmiyas-22

特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年3月10日月曜日

エデンの東と「他者」へのまなざし


フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは「他者」との関係を神の存在を経験する手段であると記している。

レヴィナスによれば、キリスト教徒は個々人の一対一のやり取りの産物として神との関係を考える傾向にあるという。

それに対して

「わたしたちユダヤ人は常に三人一組である。

すなわち、わたしとあなた、そしてその間にいる第三者としての神。

そして、神は第三者としてのみ自らを顕したもうのである」とレヴィナスは記している。

レヴィナスの宗派的な区別に同意するかどうかは別として、キリスト教徒とユダヤ教徒がともに権威ある文章としている創世記二―四章の物語においては、カインが自分の神体験が土地との関係に依存していると認識していたとされる。

物語を読む者は敬虔な奉仕を通して、カインが弟の幸福を守ることと密接不可分に結びついている土地との関係に関係することになる。

このとき「他者」にあたるものには人間以外の自然界と他の人間が含まれる。カインの問いに「そうだ」に答えるとき、土地への配慮と人間の幸福への配慮が不可分であることに同意することになる。


クリスティン・M・スウェンソン「エデンの東を守り、保つ ―エデンの園から見るカインとアベルの物語―」(インタープリテイション84号 聖書の中の「他者」へのまなざし)




http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742624/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742624&linkCode=as2&tag=mmiyas-22


特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税






IP Store