2014年10月25日土曜日

【講演会】「聖書の世界を発掘する」−−聖書考古学の現在−−



2014年度 聖書講座
聖書の世界を発掘する 
聖書考古学の現在

〈共催〉カトリック東京大司教区
上智大学キリスト教文化研究所

11月 15日(土)
10 : 00〜11 : 30
津本英利(古代オリエント博物館研究員)
「考古資料を通してみた旧約聖書の時代」

13 : 30〜15 : 00
小野塚拓造(東京国立博物館アソシエイトフェロー)
「油滴る地
聖書時代のオリーヴ油生産

15 : 30〜17 : 00
山吉智久(立教女学院短期大学非常勤講師)
「祭儀台からのぞく聖書時代の宗教生活」


11月 16日(日)
13 : 30〜15 : 00
月本昭男(上智大学教授)
「聖書時代の埋葬法と聖書の他界観」

15 : 30〜17 : 00
長谷川修一(立教大学准教授)
「文献学と考古学
古代イスラエル史の方法


場所

上智大学中央図書館9階  921会議室
 

聴講料
一般(学生)
1回当日券 1,000円(600円)
1日前売券    800円(500円)
5回連続券 3,800円(2,300円) 

前売券
10月 24日
(金)〜11月 14日(金)迄
(5回連続券は11月15日第1回受付まで販売。ご遠方の方はご相談ください)


発売所
聖イグナチオ教会案内所(月曜休み)    Tel 03-3230-3509
または上智大学キリスト教文化研究所(JR中央線、地下鉄丸ノ内線、南北線 四ツ谷駅下車)

問合せ先
〒102-8554
東京都千代田区紀尾井町 7-1
上智大学キリスト教文化研究所
Tel 03-3238-3540, 3190
Fax 03-3238-4145


 
 






2014年10月19日日曜日

復活の出来事における現実




トーマス・W・カリー
 テサロニケの信徒への手紙1 五章12-24節
(テクストと説教の間)
84号「他者へのまなざし」より


 

復活の出来事における現実は

「悪をもって悪に報いないようにしなさい。

いつでも互いにすべての人に対して善いことを行うようにしなさい」(Iテサ五15)


という教えの中により明快に見ることができる。

この忠告は道徳上の教えとしてはあまり効果的ではないように見えるかもしれない。

自虐的な自己抑制や天使のような無私無欲といった、人間の力を越えた何かがなくては、そのような「善い行い」は成り立たないように見える。

さらに悪いことに、単にそれを人間にできないことはないという意味に理解すれば、他の人や自分自身に「善い行い」を実行するということは、その自虐的傾向や私利私欲のなさがそのまま死に繫がる。

しかしながら、この言葉はこの個所に見える勧めと同様、間接的にイエスのことを語ることで、ともにある人生という奇跡を描いている。

つまり、(その死と復活を含む)イエスの生涯がテサロニケの信徒たち(そして、わたしたち)にとって「当然」ではない、想像以上に恵み溢れる現実である行いに特徴づけられる共同体を生み出したのだということがそこでは語られているのである。

そうでなければ、「常に喜んでいなさい。休みなく祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これがあなたがたに向けてイエス・キリストにおいて示された神の意思だからです」という命令をどう理解できるだろうか。



パウロが描く人生が十字架にかけられ、復活した主において見出される人生である限り、これらの節(ロマ一二9-13、フィリ四4-7と並行)がここで扱っている個所の中心になる。

十字架の下でわたしたちに惜しみなく与えられる赦しは、わたしたちのあまり「立派」ではない人生をそこに露わにしながら、その人生を単なる「立派なもの」ではなくする。

全く同様に、赦しとは復活の出来事それ自体が「あなたがたに向けてキリスト・イエスにおいて」可能とする喜びに満ちた赦しの源から気前よく与えられるときにだけ他の人にも広がるものでもある(18節)。

ここでの「喜び」と「恵み」は単に語源が同じ語というだけではない。

この二つの語はその善良さにおいて恐るべきことであるキリスト理解における現実を描いているのである。








特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税









2014年10月12日日曜日

カール・ラーナーの功績



デイヴィッド・バレル
「一神教の対話 ジャン・ダニエルーの宣教論再考
(86号「対話を求めて」より)



伝道についての聖霊本位の自由な考え方は〔ダニエルーの主張から〕三〇年の時を経たのち、カール・ラーナーによるウェストン神学校での有名な「世界教会」講義において、はっきりとした後押しを得ることになる。

手短に言えば、ラーナーは十分な省察がないことを「神学の危機」と呼び、それを教会として認識するよう呼びかけることで、西洋のキリスト教史の中でダニエルーによる聖書の図式が作用していたことを確認したのである。

ラーナーは後七〇年と一九七〇年という象徴的な区切りの年号の間に二つのそうした「危機」を挟んで併置し、伝道運動を含む西洋キリスト教の一九世紀間を効果的にひとまとめにした。

後七〇年という年はエルサレム神殿の破壊とヘブライ的キリスト教の差し迫った終焉、ギリシャ世界と異邦人への伝道の文化の始まりを思い起こさせる。

一九七〇年は現代の状況を表現している。

すなわち、第二バチカン公会議で《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》が発布され、脱植民地主義が始まり、ラテン典礼が「廃止」されて以降ということである。

ラテン典礼はローマ・カトリックにとってはモスクがメッカに向かっているようなもので、それがほぼ行われなくなったということはローマという典礼上の中心点(キブラ)が失われたということであった。

結果として、姿勢、音楽、言語において典礼上の文化受容が盛んになっていた。

後七〇年における最も重要な問題は異邦人の男性が聖霊を受けるにあたって割礼が必要とされるかどうかであった。

「個体発生は系統発生を繰り返す」〔ヘッケルの「反復説」。動物の発生の過程は、その動物の進化の過程を繰り返す形で行われるとする説〕として、割礼は神の元々の契約との連続性に適合した徴という議論も可能であった。


しかし、共同体はパウロとともにそれを必然ではないと決めたのである。

 

その後、一九世紀もの時を隔て、キリスト教と他宗教の関係を植民地主義の束縛から解き放たれたものとして作り上げるにあたって、《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》は元々の神の契約の民に関して広まっていた「代替論」の教えを廃しただけでなく、どのように起こるにせよ、すべての民が救済の恵みに与れるということを明白に断言する伝統の一面を確固として是認したのである(全人類の救済というのモチーフは文化的、政治的な文脈によっては排他的な姿勢を強めることもあるが、キリスト教の共有されている伝統のうちには常にある)。

第二バチカン公会議の直後、この非常に斬新な文書《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》は会議そのものから出された。

「新神学」運動が文書を準備するということはほとんどなかった。

たしかに、ルイ・マシニョンがイスラム教について先見的な意見を述べ、ダニエルーもユダヤ教に関して意見を述べていたわけだが、《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》の発布は教父時代以来、支配的とはいえないとしても非常に大きかった代替論という重圧を考えれば、ラーナーに「神学的危機」の鍵となる実例を与えた。

ラーナーによれば、この新しい視点においてキリスト教徒は、他の宗教の人々を対等に見ることができるのであり、教会の「政権交代」のたびに他の宗教を信じる人々との接し方を変えるということではない。

植民地時代の欺瞞から解放されて、聖霊はより大きな行動の自由を享受できる。

その上、ラーナーが西洋のキリスト教史を紀元後七〇年と一九七〇年という括弧で括ったことには、相対性理論がニュートン力学を限定的な事例として受け入れたのと同じように、一六世紀をより大きな劇場で文脈化するという副次的な効果もあった。

これによって教会一致運動の堰が切られ、今日あらゆるところで見られるように、教会一致運動と異なる宗教間の交流は気質的に関連していることが示された。



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特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税

















2014年10月5日日曜日

アレオパゴスでのパウロ




ロバート・E・ダナム 
使徒言行録17章16−34節」
(81号「ほかに神があってはならない」)



使徒パウロが初めてアテネを訪れたとき、この町はおそらくその全盛期から何世紀かを経ていただろう。

しかし、アテネはまだそこを訪れる者たちに芸術、詩、演劇、活発な哲学的、宗教的な対話といった多くの印象的なヘレニズム文化の宝を提供することができた。

要するに、当時アテネは文化の中心地として繁栄していたのであり、使徒パウロがテモテとシラスと合流するまでの間、その町を探究することに時間を費やしたのも頷ける。

パウロがそこで何を見つけ、それにどう反応したか、またアテネの人びとがパウロの反応にどのように応答したかを描くルカの記述は、聖書の中で特に印象的な邂逅のひとつといっていいだろう。

ルカはここにヘレニズム文化を一瞥させ、その文化の一部は新しいレンズを通して見るようにというパウロの挑発的な誘いに導く入口を用意している。


アレオパゴスでのパウロの演説は結局アテネの人びとの気持ちに変化をもたらすという点ではほんの控え目な成果しか上げることができなかったかもしれないが(一七34)、何世紀もの時間を隔てた今日においても、現代における文化財と文化的な前提(そして文化への熱望)に関わり、それに対する問いを強く発しようとしており、キリスト教徒の共同体には信仰の証しのモデルとなっている。

 


 


特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

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