2015年7月26日日曜日

偶像崇拝と性的な不品行




ジョエル・マーカス
「新約聖書における偶像崇拝」
(81号特集「ほかに神があってはならない」)


偶像崇拝と性的な不品行の結びつきはさらに深いレベルにも及んでいる。

像の礼拝は他のすべての違反の根源という考えもそのひとつである。

この点で、ローマの信徒への手紙一章1827節に見られる悪の起源についてのパウロの分析は、ヘレニズム時代のユダヤ教文書である知恵の書一四章1231節に明確に示された道筋を辿っている(偶像崇拝は「姦淫の始まり」であり、「諸悪の始まりであり原因であり結末である」。一四12、27)。

偶像崇拝は根本的な罪であり、とりわけ姦淫を含む他の罪へと必然的に導く。

偶像崇拝と姦淫の結びつきはとりわけ密接なもので、この二つの違反によって、被造物を創造者と取り違え、被造物を拝み、創造者ではなく被造物に仕えることになる(ロマ一25参照)。

つまり、姦淫は偶像崇拝の一形態なのである。

逆に言えば、姦淫と偶像崇拝は、ヤハウェの花嫁たるイスラエル、そしてヤハウェに対する不貞としての偶像崇拝という聖書のメタファーによって密接に結びついており、偶像崇拝は姦淫の一形態ということにもなる(これはホセア書一四章、エゼキエル書一六章および二三章において最もよく展開されている)。

偶像崇拝は様々な違反のリストによって詳しく語られているが(知一四13−27)、それを姦淫の始まりであるとしている知恵の書一四章12節の言葉はこのメタファーを背景としているのかもしれない。

ここでいう「姦淫」は、あらゆる不信仰を意味する幅広い言葉となっているようで、しばしば「偶像崇拝」をも意味する。


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特 集

ほかに神があってはならない


第81号 2013年5月
定価2000円+税








2015年7月19日日曜日

バビロニアの「ユダの町」—アル・イェフードゥ文書




ケネス・D・ハッチェンズ
「イザヤ書45章14−23節」
(81号特集「ほかに神があってはならない」)


前六世紀、バビロニア帝国各地に散り散りになっていた古代イスラエル人は多くの選択肢に直面していた。

彼らが住む世界は多神教が広く行き渡った世界だった。

それぞれの民にはそれぞれ守護神がいたが、他の神や女神たちへの礼拝もあきれるほどの数の組み合わせと形をもって広く行われていた。

捕囚以前に声を上げた預言者たちの主たる批判のひとつは、イスラエルの神ヤハウェへの礼拝を他の神への礼拝と混合させたり、神を取り替えたりする古代イスラエル人の性向に対するものであった。

多神教に順応すること、あるいはヤハウェを捨て去ることへの圧力は、ユダを打ち負かしたバビロニアによるエルサレム破壊よりも大きなものでさえあった。

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先日、 ある研究会で「アル・イェフードゥ」というバビロニアのユダ人居住地の話を聞いた。「アル・イェフードゥ」は「ユダの町」という意味。

そこではユダ人がバビロニアの神の名がついたバビロニア名をもつようになったり、世代を経て、ヤハウェを含んだユダ名をもつものに戻ったりする様子が経済文書から明らかにされている。

バビロニアの神の名がついた名をもっていても、ユダ人でありつづけるという現象は、これまでの考え方とはかなりちがう。

興味のある方は下記参照。楔形文字のテクストですが、英訳つき。

 L. E. Pearce and C. Wunsch, Documents of Judean Exiles and West Semites in Babylonia in the Collection of David Sofer. Cornell University Studies in Assyriology and Sumerology 28, Bethesda, MD, 2014.






特 集

ほかに神があってはならない


第81号 2013年5月
定価2000円+税








2015年7月12日日曜日

聖書学の成立




ユージン・ボーリング
「マタイ福音書の物語キリスト論」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)


マタイが自らの福音書を通して自らのキリスト教信仰を発見したように、一八世紀以前のキリスト教神学者の大半は旧約聖書と新約聖書を均質なキリスト教信仰の書として読んでいた。

そこでは教条神学と歴史神学は切り離されておらず、聖書は教会の教えを支えるためのテクストとして探究された。

他の新約聖書の著者、あるいは後のキリスト教の神学者とは区別される「マタイのキリスト論」があるという考えは、それぞれの実存的な現実に聖書が直接語りかけていた各時代の教会の解釈者には思いもよらないものであった。

一八世紀の歴史主義の高まりは一七八七年のヨハン・フィリップ・ガプラーの「教条神学と聖書神学の適切な区別とその境界の正しい決定」という言葉によって始まる。

聖書神学は純粋に歴史的な学問と定義されるものとして始まった。

後代の教条的な制約なしに、古代の聖書の著者が自身の言葉において考えたことを展開していくのがその課題であった。

「今、ここで」という規範的な意味での探究は組織神学者に任せ、「そのとき、そこで」についての純粋に記述的でアカデミックな学問であることが聖書神学には求められた。

神学校では聖書学は組織神学とは別の分野となった。聖書学者は自らを神学者であるとは主張せず、神学者は釈義の問題については聖書学者に従い、〝縄張り〟は尊重された。

このアプローチは古くはクリスター・ステンダールが一九六二年に発表した「聖書神学の歴史」において表現され、主要な教派で一世代ほどの間、広く用いられた注解書シリーズ「インタープリーターズ・バイブル」では「釈義」(それが意味したこと)と「注釈」(それが意味すること)の間に明確な線引きがなされた。





特 集

とともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税







2015年7月5日日曜日

89号「ともにある神 ―マタイ福音書― 」まえがき





特 集

ともにある神 −マタイ福音書−

第89号 2015年6月
定価2000円+税






まえがき


「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ一23)。

マタイによる福音書はこのようにして始まる。

しかし、「神は我々と共におられる」という言葉はマタイ福音書を読む者にとって、どういう意味をもっているのだろうか。本号ではこの問いを五人の新約学者が探求している。
 


「マタイは神について何か特別なことを言っているのだろうか」—この問いに「言っている」と答えるのは正しいことだが、それでは単純すぎるとヴィヴィアーノは言う。

マタイの神は婉曲表現と神的受動態に隠されて、「決して遠くにいるわけではないが、直接見ることも摑むこともできない」。

マタイのインマヌエルを受け入れるには、マタイの価値観と霊的な方向性を受け入れる準備が必要である。
 



ユージン・ボーリングによれば、マタイのキリスト論は「イエスとは誰なのか」ではなく「神とは誰なのか」を問うものである。

その答えは〈マタイ福音書についての物語〉〈マタイ福音書の物語〉〈マタイ福音書における物語〉という三つの絡み合った物語の中に表現されており、そのそれぞれが「わたしたちとともにある神であるイエスの人格」と分かち難く繫がっている。

この三つの物語は「現代において解釈する者自身が埋め込まれている物語の文脈において、より適切に評価される」。
 


スコット・スペンサーはイエスがファリサイ人に向ける「聖書を読んだことがないのか」という問いかけをきっかけに、インマヌエルの意味を探求している。イエスの解釈は聖書の命令を和らげる「リベラルな」イエス(たとえば、マタ一二18)と聖書の教えにひき止める「保守的な」イエス(たとえば、マタ一九19)の両方に読む者を出会わせており、「心を挫けさせたり、気持ちをイライラさせたりする」ものではない。

この緊張関係を切り抜けるためのマタイによる忠告(マタ一八20)が「神の民の共同体の中で聖書と開かれた心をもって、神の言葉を通してわたしたちを神の真理の完成へと導く生けるインマヌエルと新たに出会うべきなのである」というスペンサーの結論の根拠となる。


 

バーバラ・リードはマタイの譬え話の研究で「どちらの神がともにいるのか。

山上の説教の恵み深く、寛大な神か、報復的で懲罰的な譬え話の神か」という辛辣な問いを提示している。

これは読む者に深刻な倫理的ジレンマを生じさせる。

「邪悪な者を罰することで神が正義を確立しようとしているとしたら、わたしたちも同様にすべきなのだろうか」。

リードはこの二つのイメージの間にある緊張を解決する策を探求し、ジレンマを減らすことなく、「神の愛の力はあらゆる悪行や死の力さえも克服し、そのイメージを他者に伝えようとするすべての信者を力づける」として、マタイ福音書の最後のイメージを強調している(マタ二八20)。
 


マタイにおける「インマヌエル」は一世紀パレスティナの無力で評価の低かった女性たちにはどのような意味で「よき知らせ」だったのだろうか。

ドロシー・J・ウィーヴァーはこれに応えて、マタイ福音書の物語の中に父権制的な世界を表現する「下位レベル」の視点とレトリックによって話を転覆させる「上位レベル」の視点を見出し、それに注目している。

イエスの誕生物語(マタ一1二23)、宣教(マタ三125、46、二七5556)、復活(マタ二六1二八20)において、この「上位レベル」の視点は予期せぬ驚くべき存在感を女性に与えている。

それは「始まりと同様、驚きをもって終わる」福音書の根本なのである。

そして、「その驚きをつくり出しているのは女性」であり、「読む者はそれを理解しておかなければならない」。



サミュエル・E・バランタイン

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