2015年6月28日日曜日

マタイ福音書の成立




ユージン・ボーリング
「マタイ福音書の物語キリスト論」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)



マタイ福音書形成の物語は、以下の四つの段階をもって寸描されるだろう。


(1)キリスト論の変化
マタイ福音書が書かれる二世代前、マタイ自身がキリスト教徒になる以前、キリスト論に根本的な変化が起こった。


イエスの磔刑の数日後のことである。

ナザレのイエスについての物語や印象、彼自身が発した言葉は、神が彼を死人のうちから復活させたことによって変化した。

マタイは出生から復活顕現まで順を追ってイエスの物語を語るが、彼は後から振り返って書いているのであり、それは神が磔刑をイエスの物語の終わりとはしなかったのだという確信から始まる。

イエスの生涯を辿り、イエスが語り、行ったことから推測されることを描けば、当然のように人々はイエスをメシアと理解するようになるとはマタイは思わなかった。

マタイは誰もが「史的イエス」を実際に目にし、「神の顕現」と見ることができたとは思っていなかった。

最初期の教会にとって、またマタイにとっても、復活が唯一の欠くことのできないキリスト論のしるしであったのである(一二39—40、一六4)。

イエスの本当の正体は啓示によってのみもたらされる直観である(一六16—17)。

復活以前の物語の枠組みの中に組み込まれてはいるが、このイエスの正体の開示は常に決定的な啓示として復活を前提としている。

これによって、イエス理解に最初の変化がおこり、キリスト論が出現したのである。
 



(2)再 解 釈
マタイと彼の共同体がこの信仰を表現する伝承を受けとった時点で、その伝承は様々に再解釈を受けていた。


マタイが継承したキリスト論の解釈が最初に私たちの目に見える形になったのはQ資料の復元においてである。

Q資料を書いた預言者的な教師はシリアの新しいキリスト教共同体の形成において活躍していた。

シリアの首都アンティオキアあるいはその近郊にあったマタイの教会において、Q資料はキリスト論を含め、彼らの信仰を形成し、表現する役割を果たしていた。

Q資料はイエスの生涯と死、そして復活の物語ではなく、主としてイエスの教えを表現するために整えられた御言葉集であった。

しかし、Q資料のイエスは単なる賢人、ラビではなく、超越した「人の子」、終末における権威者として語っている。

イエスの言葉は単なるよき忠告でもなかった。

イエスが教えの中で具体的にされる根本的で権威ある律法の再解釈は、「人の子」が再び現れるときの審判の基準であった。

Q資料における支配的なキリスト論の称号は断然「人の子」である。

「人の子」という語は終末の審判者という意味で八回用いられ、地上のイエスを指して三回用いられているが、苦しみ、死に、復活する救い主の姿には一度も用いられていない。

「人の子」以外の称号はQ資料のキリスト論においては何の役割も演じていない。

「来るべき方」という表現はQ三16、七19、一三35に現れる。

「主」はQ六46を除いて、キリスト論として用いられていない。

「神の子」は悪魔が発言する誤った言葉としてのみで用いられるが(Q四3、四9)。

「子」という表現は単に啓示を知る者としてQ一〇21︱22の「父」と「子」という話の中で現れる。

そして、「キリスト」という表現はQ資料には見られていない。
 




(3)新しい物語形式
マタイ自身が福音書を書く二〇年あるいは三〇年前に、あるキリスト教徒の教師が、おそらくシリアで、キリスト信仰を伝えるために物語という新しい手段を考案した。


そのマルコ福音書はパウロ神学に基づくイエスの死と復活の宣教上の焦点を神の救いの力がイエスの地上での人生の中で明らかとされたという物話と結合させたのである。

Q資料ではキリスト、神の子、ダビデの子、主、教師、ユダヤ人の王といったマルコ福音書ではキリスト理解において重要な鍵となる言葉が全く用いられていないかほとんど目立たない。

マルコはさらに、「人の子」に「苦しみ」「死」「復活」という重要な新しい概念を加えていた。

マタイ共同体はそれまでの一〇年以上の間、ヘレニズムのユダヤ人キリスト教徒の共同体であったが、Q資料が焦点を当てていた聖書とイエスのメッセージの理解によって導かれていた。

その共同体が権威あるキリスト教の伝承としてマルコ福音書を用い始めたとき、マタイのキリスト論は大きく変化したのである。
 




(4)最終的な再解釈
しばらくの間、マタイ共同体はQ資料とマルコ福音書を真正な目撃証言の文書、キリストの出来事の意味の案内書であると認めて、教理問答、礼拝、説教において用いていくことになった。


マタイと彼が教師を務めていた教会はマルコ福音書とQ資料に非常に精通するようになり、その両方を会衆の生活の規範として解釈し続けていた。

そして、最終的な再解釈が必要とされる時が来る。
 



マタイは自らの教会のためにQ資料とマルコ福音書の意味を更新するという注解書的な方法を選ぶこともできた。

これについては当時のユダヤ教徒の文脈によい先例がある。

クムラン共同体の「ハバクク書注解」などがその好例である。

この方式においては、元の信頼すべきテクストが引用され、それに現在的な意味が与えられる。

しかし、新約聖書時代においてマタイも他のキリスト教徒の教師も信頼すべきテクストに注解をつけることによって自分たちの信仰を再解釈したのではなかったのは明らかである。

そのような手順は聞き手あるいは読み手と神聖なテクストの間の調和を阻害しただろう。

マタイは注解をつける代わりに、聖書を語り直すという方式を採用する。

マタイのもっていた聖書〔旧約聖書〕には以前の文書を再解釈した書がすでに含まれていたが、それは主たるテクストと二次的な注釈を区別する説明的な方式のものではなかった。

歴代誌の上下二巻はサムエル記上下と列王記上下というそれ以前の物語を再解釈しているが、文書と解釈が分かち難い統一体へと融合され、以前の物語をその当時のものとして語り直してまとめている。

また、モーセ五書、詩編、預言者の書の新しい層は後代の解釈を物語が続く中に取り入れている。

つまり、マタイはマルコ福音書、Q資料、また他の伝承をひとつの一貫した物語に結合し、マタイ自身のキリスト教共同体の必要に対処するために書き直したのである。

こうして、マタイのキリスト論は彼の教会論、終末論、倫理など彼の神学がもつ要素すべてとともに、その物語の中でまとめて把握されるものとして理解されるようになった。




特 集

とともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税








2015年6月21日日曜日

「ともにある神」 マタイにおけるインマヌエルとは


バーバラ・リード
「どちらの神がともにいるのか」
(89号特集「とともにある神 マタイ福音書」)


マタイが描写するのは、限りなく慈悲深い神が与えてくれる深い赦し、愛、忍耐であり、その意思は常に拡大し続ける慈悲の連鎖の中で永遠にわたしたちとともにある。

しかし、このメッセージは非常に受け入れるのが難しい。

神は罪に対してその代償を求め、その愛を得るためには努力が必要であるとする話の方がずっと簡単に理解できる。

正しい秩序の感覚が報復を行わない神によって試されているのである。

このような神のイメージは理解し難いだけでなく、他者との関わりの中で同じように振る舞うなど到底無理に思える。

では、悪人のやりたい放題を許すということなのだろうか。

終末の譬え話はこの疑問への答えなのである。

神の方針に反する人に厳しい結末がもたらされることを神は積極的に望んでいるわけではいないが、そうした人々は自らの選択によって自らのもとに返ってくる暴力の連鎖を生み出している。

マタイは神の慈悲深い招きに対する倫理的な応答の重大さを描いている。

わたしたちが慈悲と寛大という身に余る贈り物を受け入れ、自分たちが変わろうとする限り、神は常にわたしたちとともにある。







特 集

神、われらとともにあり

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税







2015年6月14日日曜日

「三位一体論」のはじまり




ベネディクト・ヴィヴィアーノ
「マタイ福音書における神」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)


〈三つの位格〉
マタイ福音書は神について何か特徴的なことを述べているのだろうかという問いはすでに立てておいた。

インマヌエルの扱いがそのひとつに挙げられることはすでに言及したが、最終節の前の節に三つの位格が用いられる洗礼定式文「すべての民をわたしの弟子にしなさい。

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け……」が見られることも特徴のひとつであろう。

この定式文はまだ本格的な三位一体の神学を表してはいないので、三つの位格と呼んでおく。

新約聖書の他の個所ではイエスの名のもとに洗礼が施されている。

マタイがこの特徴的な定式文を提案したのである。

マタイはどのようにしてこれに到達したのだろうか。

手短に言えば、復活後の初期キリスト教徒は男性にも女性にも同じように行われる(割礼とは違った)入会儀礼を必要としており、そこに洗礼者ヨハネの洗礼の儀式が受け継ぎやすいものとしてあったということであろう。

この定式文はおそらく、ダニエル書七章にあるような以前から存在する黙示思想の型に基づいて作ったのだろう。

ダニエル書七章には「日の老いたる者」(マタイはこれを「父」としてキリスト教化した)、「人の子」、マタイが聖霊へと縮合した「いと高き方の聖者たち」が見られる

(「神の霊」は創世記の初めの一頁目から黙示録の最終章に至るまで聖書の中に存在する)。

エゼキエル書一章と第一エノク書一四章には「子」と「聖霊」の代わりに、「選ばれた方」と天使が見られる。





特 集

とともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税







2015年6月7日日曜日

89号「ともにある神 ―マタイ福音書― 」目 次


6月中旬 発売開始



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特 集

ともにある神

 マタイ福音書―

第89号 2015年6月
定価2000円+税









ベネディクト・T・ヴィヴィアーノ (吉谷かおる・訳)Benedict T. Viviano
マタイ福音書における神

    聖書に啓示される神はマタイによる福音書の至るところに存在するが、しばしばインマヌエル、すなわち、「わたしたちとともにいます神」であるイエスの後ろに下がって表に出ていない。神の存在は敬意を表す婉曲表現である「天」の後ろに隠され、「神的受動態」に覆われている。神の至高の名称は「父」である。マタイ福音書はたいてい日常生活の地平について語っているが、そこでは至るところで待ち受けている超越者そのものが地平なのである。


M・ユージン・ボーリング (石田雅嗣・訳)M. Eugene Boring 

マタイ福音書の物語キリスト論──三つの物語──
    マタイ福音書のキリスト論は神を中心としている。そこでは神の支配がこの世の支配者の統治と権力に代わるものとして、イエスの生涯において明らかに示されている。このキリスト論は物語の形で表現されており、現代においては解釈する者自身が埋め込まれている物語の文脈において、より適切に評価される。 
     

F・スコット・スペンサー (吉岡誠悦・訳)Thomas H. Troeger
マタイ福音書のイエスと聖書解釈
    マタイ福音書のイエスは典拠となる個々の聖句に対する不完全な焦点化を避けるため、聖書正典を縦断して創造的で刺激的な形で聖書によって聖書を解釈している。イエスによる解釈の方法と目的は偏狭な概念図の意味を失わせる。何よりも、マタイにおけるイエスは聖書の権威ある釈義者として、それを教える者として現れている。

バーバラ・E・リード (齋藤百合子・訳)Barbara E. Reid
どちらの神がわたしたちとともにいるのか
    マタイによる福音書には非常に異なる二つの神のイメージが表されており、その間に緊張関係が生じている。「山上の説教」における神は限りなく慈悲深く、寛容だが、八編の譬え話における神は報復と懲罰の神である。これは倫理的なジレンマを生じさせる。どちらがわたしたちとともにいる神なのか、わたしたちはどちらに倣うべきなのか。 
     
ドロシー・J・ウィーヴァー (吉谷かおる・訳)Dorothy Jean Weave
マタイ福音書における女性と神 
   「この福音が宣べ伝えられるところではどこでも──
    マタイ福音書の物語を注意深く検討すると、一世紀パレスチナという父権制世界に暮らす、無力で低く評価された人たちの印象的な姿が現れてくる。マタイは女性たちの物語に神をもち込むことで、究極的には神の民の生活と信仰に対する並外れた思いがけない意義を女性たちに与えたのである。



テクストと説教の間
マタイによる福音書3章13─17節 (アンドルー・F・コナーズ/標珠実・訳)
マタイによる福音書11章2─24節 (チャールズ・H・タルバート/齋藤百合子・訳)
マタイによる福音書26章 (デイヴィッド・レンウィック/吉岡誠悦・訳)


書評紹介(榊原芙美子、吉谷かおる・訳)
マイケル・J・ゴアマン著『十字架の形をした神の下に』
N・T・ライト著『義認神の計画とパウロのヴィジョン
ダグラス・A・キャンベル著『神の解放パウロの義認を黙示的に読み直す
ジョン・P・マイヤー著『律法と愛』(「周辺のユダヤ人史的イエス再考」第四巻)
デイヴィッド・H・ケルシー著『脱中心的存在―神学的人間学―』





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