2015年5月31日日曜日

激烈な裁きの警告で終わる譬え話はどう理解すべきなのか 




バーバラ・リード
「どちらの神がわたしたちとともにいるのか」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)



それぞれの譬え話で描写されているのは、神から繰り返し無条件に与えられる慈悲と寛容さに応えるにも時間には限りがあるということである。

「山上の説教」における神のイメージは、弟子が今ここで倣うべきものである。神の愛はどこまでも成長する。

その絶えることのない慈悲や愛を経験するとき、それを他の人に与える能力も向上する。

神の恩恵が効力を発揮することを許さず、暴力と迫害の連鎖を存続させれば、それ相応の結論が導かれ、それがいつまでも続くことになる。

マタイは終末の譬え話で、やがて時が満ちれば、神の慈悲深さに倣って自らの道を定める機会は過ぎ去り、審判の時が訪れると主張しているのである。

完全に慈悲深い神に倣って成長していれば、終末とは恐れるべきものではなく、むしろ永遠の正しい関係のあり方が完成する地点となる。





このように考えれば、信者は倣うべき神についてジレンマを感じなくてすむ。

最後の審判と懲罰は神のみに属すことであり、人間がまねるべきことではない。問題は終末に行われる悪人と善人の選別を現代において作用させてしまうことがあまりに多いという点である。

福音書を読んだり,聞いたりする人のほとんどは、自分が救われる側に入るという確信をそこに見出し、自分が悪人と思う人のことは非難されるべきと見る。

現時点で善悪に厳密な境界を設けても、それぞれの人、それぞれの共同体の中にある善悪の混じり合った状態に対峙することはできない。

悪しきものを許容する力を認めないことが、他の人を必要ならば暴力に訴えてでも根絶すべき敵や悪の権化と見なすことができるようになる確実な一歩である。

権力をもつ人は神が悪人をいかに厳しく罰するかを読んで、悪人を特定し、罰を与え、あるいは処刑するという自らの力を誤って破棄してしまうかもしれない。




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ともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税








2015年5月24日日曜日

後記 88号『イースターの祈り』


88号『イースターの祈り』後記




◎イースターの背後にある歴史を説明しようとするとき、ある種の難しさを感じる人も多いのではないだろうか。

クリスマスの場合、イエスがその日に生まれたわけではなく、キリスト教がローマの国教となり、冬至の祭りと結びついてイエスの誕生を記念する祝いをクリスマスの日にするようになったと説明されるが、この説明がもつ気軽さはイースターにはないように思われる。

もちろん、イースターはユダヤ教の過越祭と直接結びついており、その背景として過越祭の話をすることにはさほどの問題はない。
 



◎大きな違いはクリスマスが喜ばしさ一色の行事であるのに対して、イースターが「キリストの復活」を祝うと同時に、その「死」も祝うという点にあるだろう。

十字架が単なるアクセサリーのひとつとして見られる日本文化の中でも、それが死と結びついていることは理解されている。
 


◎大学などでひとつの宗教としてのキリスト教を教えるとき、「復活」が十分に理解されていないことに気づく。

説明すれば理解してもらえるが、ミッション系の出身である程度キリスト教の知識がある人からも「ちゃんと説明されたことがなかった」と言われることが意外に多い。



 

◎宗教を問わず信仰一般に対する忌避の感覚がある中、「復活」のような特殊な事柄を説明する機会は滅多にない。

宣教という文脈を離れて、「復活」を一般に理解できるような形で説明する機会は大切にすべきだろう。

それを避けるのは単に「復活」が「死」と結びついているからだろうか。

今号の論考はどれもこの問題を改めて問い直しているように思われる。

宗教の意義が大いに問われている昨今の状況の中、信仰心について考える材料が提供できていれば幸いである。


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特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税



2015年5月17日日曜日

五人の女



ジョン・ウィトヴリート
「擦り切れた賛美の歌は主に歌わず」
(83号特集「アドベントと典礼」)




 

アドベントの具体的な敬虔において補足的な活動を行うことは、聖書日課で割り当てられる聖書個所にこだわらずに活動できる共同体には可能である。

イエスの誕生についての新約聖書の物語はアドベントやクリスマスの礼拝に繋がることはほぼないような内容で始まる。

マタイ福音書はほんの十七節を用いて、イエスの家系を辿り、イエスが「アブラハムの子、ダビデの子、メシア(キリスト)」(1節)であることをはっきりと確認する。

この章はイエスのメシアとしての正当性を確立するために、永遠の昔から続く神の計画における意図を伝えている。

しかし、系図の詳細はなお一層深い謎を示している。

イスラエルのメシアがアブラハム、イサク、ヤコブの末裔であるだけではなく、タマル、ラハブ、ルツの末裔でもあると紹介されていることを誰が想像できたであろうか。

真に神は神秘的な仕方で働かれているのだ。神は普通の人と特別な人、罪人と聖人、勝利と悲劇を通して働かれる。

このことはメアリ・ネルソン・キーサンの物語性のある賛美歌「マタイ福音書には五人いる」にも表されている。
 



マタイ福音書には五人いる、
名前で呼ばれる信仰の母が。
皆、イエス・キリストの先祖であり、
それぞれ蔑みに耐えてきた。
そんな女たちの存在を、今誰が考えるだろう、
すべては神が望まれたことだったのだと。
彼女らが選ばれたことは何と不思議なことか、
それによって、神のご計画が成し遂げられるとは。
 


(くりかえし)
神が彼女たちの用い方を見つけられたから、
彼女たちの忠誠心は燃え上がった。
そして、確かに、神は私たちをもまた用いてくださる、
 光をかかげる者として。
 


哀れなタマルは望まれない妻。
たびたびやもめとなり、
もう人を頼るまいと決めた。
不誠実で気まぐれな男など。
それほどまでに狡猾な女。
不満をもらすより行動し、
ことを自らの手中におさめ、
喪失を利得に変えた。
 


公平なるラハブはエリコに住み、
夜に働く女。
ヨシュアが斥候を送った時、
それをかくまった。
彼女は王に言った。彼らは立ち去ったと。
別の道を行ったと。
彼女は信じていた、神の民が、
エリコにとどまるということを。
 


やもめのルツはモアブの人。
故郷を後にした。
ベツレヘムに移り住み、
優しい農夫と結婚した。
ボアズとの間に生まれたその息子は、
ナオミの心を賛美で満たし、
このモアブの異邦人こそが、
ひとりの王の祖母となった。
 


ウリヤの妻は美しい女。
その名はバトシェバ。
ダビデ王は彼女を自分のものとして求め、
彼女を愛した、彼の恥ずべきこととして。
この御心にはかなわぬ交わりにより、
ひとりの幼子が生まれた。
それがもたらす縁の糸は、
約束の嬰児に至る。
 


若きマリアはナザレに住み、
そこで結婚した、
ヨセフという村の大工と。
しかし、そこへ天使が告げた。
「愛しいマリア、今あなたは身ごもっている」。
マリアは微笑んだ、「そうなりますように」。
「私たちの神は、私に大いなることを行われた」。
そして、ヨセフは言った、「分かりました」と。
 


マタイ福音書には五人いる、
名前で呼ばれる信仰の母が。
皆、イエス・キリストの先祖であり、
それぞれ多くの蔑みに耐えてきた。
神が彼女たちの用い方を見つけられたのであれば、
人としての苦境にあったけれども、
だから希望することができる、私たちもまた、
神の目に価値のある者なのだと。



 

クリスマスまでの数週間に、このよく忘れられてしまう五人の女性たちの物語は神の摂理がキリストの最初の降臨をもたらしたことを驚くべき方法で思い起こさせてくれる。

アドベントの二つの焦点という脈絡において、これらの物語は来たるべき神の国の完成をもたらすために神が選ばれた不思議な方法を知るべきだと問いかけてくるのである。

 



特 集

アドベントと典礼

第83号 2013年11月
定価2000円+税



2015年5月9日土曜日

隣人を愛せ


バーバラ・リード
「どちらの神がわたしたちとともにいるのか」
(89号「ともにある神 マタイ福音書」)



マタイ福音書の「山上の説教」は「汝の隣人を愛せ」という五章43—48節でクライマックスを迎える。

イエスはそこで、攻撃してくる敵や反対者、共同体の仲間に対して、なぜこうした対応をすべきなのか、その動機づけを行っている。

イエスに従う者たちは神の子なのだから、神が悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせていることに倣わなくてはならない。

イエスはさらに説明する。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。

徴税人でも、同じことをしているではないか。

自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。

異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(五46—47)。


正しくない者にも分け隔てなく愛や慈悲を与えたとき、憎しみの中に疎外された者を悔恨や和解の道へと導くことによって正しい関係が生まれる可能性があるということがここでは示されている。

そして、イエスは

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」

と言って、話を締め括る(五48)。

ここのギリシャ語「テレイオス」は「完全な」と訳さざるを得ないが、不適当である。

この語には達成し難い「倫理的な完全さ」という含みはそれほどなく、むしろ、完全性、成熟、完全な発達という意味が強い。

「あなたがたが示すことができる善良さに限りはない。天の父の善良さに限りがないように」

という『改訂英訳聖書』(REB)の訳はこのニュアンスをうまく捉えているだろう。





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特 集

ともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税








 

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