2015年11月28日土曜日

天地創造から見る医者と獣医 〈書籍紹介〉

NHK教育の「スーパープレゼンテーション」を見ていたら、動物も診察する人間の医者の講演だった。

天地創造における人間の特別視の影響がこんなところにも残っているとは思わなかった。医者は進化論を信じていない? 

盲点を突かれる講演。 

いつものことながら、TEDは新鮮な視点を与えてくれる。

講師の本の邦訳は下記。 


http://www.amazon.co.jp/gp/product/4772695389/ref=as_li_tf_il?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4772695389&linkCode=as2&tag=mmiyas-22バーバラ・N・ホロウィッツ/キャスリン・バウアーズ(土屋晶子・訳) 
『人間と動物の病気を一緒にみる』 

インターシフト刊  2300円+税





同番組は同内容のものが下記で見られる。
TED「バ-バラ・ナッタ-ソン・ホロウィッツ: 獣医が知っていて医師が知らないこと」








2015年10月11日日曜日

90号「年をとるということ」まえがき





http://www.amazon.co.jp/gp/product/488274287X/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=488274287X&linkCode=as2&tag=mmiyas-22特 集

年をとるということ

第90号 2015年9月
定価2000円+税




まえがき





「生まれる時」があり、「白髪が輝く冠」である時があり、「死ぬ時」がある(コヘ三1、箴一六31)。

賢者たちに由来するこのような知恵の文学は現代の物書きが「老齢」の問題で引用する言葉の宝庫である。

 


マーガレット・ガレットは「アメリカにおける老人差別は悪化の一方」で、「アルツハイマー病の時代」が年配者たちに恐怖に与えていると論じている。

「老境に入った」人が直面する恐ろしい二分法は生物学的というよりも文化的なもので、そこで年配者は賢人か認知障害者のどちらかに分けられてしまう。

ガレットはこの二分法を老齢と知恵の間にある伝統的な結びつきを維持することで打破しようとしている。

わたしたちは「互いが心置きなく年を重ね、―死に至るまでも―今よりずっとやさしく、文化的に接し合うことができる」し、そうしなければならない。
 



ダグラス・ナイトはヘブライ語聖書とその様々な社会・経済的背景を周辺地域の文化や考古学的な証拠などから検討し、イスラエルにおいて「老齢」とは四〇歳以上のことを意味していたと結論づける。

年配者は困難や不測の事態、病気に満ちた労働集約型の生活に耐えて生きてきたが、「家族や共同体のために長年尽くしてきたのであり、それに見合った形で尊敬」されるべきとされていた。

聖書テクストが明確にしているように、年配者への世話と敬意は「道徳的、社会的義務であり、それに違反すれば共同体から罰せられる」。
 



米国の六五歳以上の人口比率は二〇三〇年には現在の一三パーセントから二〇パーセントになる。この先例のない人口統計上の変化にどう対応すべきだろうか。

ハリー・ムーディとアンドリュー・エイケンボームは連帯、持続可能性、管理責任という三つの倫理的原則を深い宗教的な根をもつものと見ている。

こうした原則は長い間、環境保護と関連するものと受け止められてきたが、ムーディとエイケンボームは寛容、正義、感謝という徳に基づく「環境神学」とそれを結びつけ、世代を超えた責任の絶対的原理にまで拡大させている。
 



「教会に専従している人」は老齢という旅路にある人への「ケアの提供を期待されている」が、人生の最後の三分の一の複雑さ(長寿化、社会的・人口統計学的な変動など)が教会に新しい課題を突きつけている。

 ヘンリー・シモンズはこうした課題に牧会的な想像力をもって対応する四つの戦略として、会話を共有すること、儀式の分かち合い、神の国が来るものとして世話をすること、政治的ホスピタリティを提案している。

教会がこの課題に挑戦すべく立ち上がれば、年配者へのケアは「恵みの出来事」となる。
 



トーマス・リンチは生者と死者、死すべき者である人間を一度きり変化する現実の際にもたらすことによって、その死すべき運命を担うのを助けてくれるのが「よい葬儀」であるとしている。

「空の墓」は「キリスト教の決定的な真実」であるので、「その神学は終末論によって形づくられ」、「神についての考えは、終わりに起こることの熟考によって知らされる」。

故人の遺体が安置され、残された者を思いやり、暫定的なものであれ死の意味について答える物語があり、聖なる場所で死者を葬る「よい葬儀」において「命の奇跡と死の神秘は明白に繫がっている」。



ジョン・キャロル
サミュエル・アダムズ





2015年10月2日金曜日

《書籍紹介》「ゲーム漬け」は危ない


電車に乗っていると、隣の人がスマホのゲームをしている。一心不乱。30分以上、休むことなく。

こういう経験は珍しいことではない。皆さん、よくご存じのように。

なにやら丸いものをなぞって、消していくゲームをしている人が多い。無心になれるのだそうだ。仕事のストレス解消とか。

確かに、ストレス解消にはなるらしい。しかし、その状態が長く続くと(一説では15分以上) 、脳の機能に確実に影響が出るそうだ。科学的なデータだという。

大人でもそうだというのだから、成長過程にある子どもに及ぼす影響は推して知るべし。

その影響で人相が明らかに変わってしまった子供の写真とか、見てしまった。この本には出ていないが、かなり衝撃的。別に顔が崩れてしまうわけではない。全く別人の顔になってしまうのだ。子どものうちなら元に戻らないわけではないというが、発育や、将来における知的活動に影響は出るだろう。


 
田澤 雄作 (教文館 1404円/税込)










昔から「ゲームをやり過ぎるとバカになる」 と言われているが、実例やデータを突きつけられると、自分はゲームをやらなくとも、人の子の親としては心配にならざるを得ない。

単純なゲームに夢中になっている状態は麻薬を使っている状態と非常に似ているのだそうだ。パチンコなどのギャンブル依存症もそれに近いかもしれない。

そういうような話を聞きかじっていたが、先頃、以下の本に遭遇。「デジタル・ヘロイン」なる惹句が帯を飾る。



インターネット・ゲーム依存症 ネトゲからスマホまで 

岡田尊司 (文春新書 886円/税込)
 


こういう本はたとえ真剣に考えなければならない問題を含んでいたとしても、ネットゲーム会社の広告収入をかなり頼りにしている民放テレビでは取り上げられる機会は少ないだろう。

本だけではなく、話題としても、 流行りのゴールデンタイムの医療番組でこの話が取り上げられることもないだろう。ネットゲームの会社がスポンサーの深夜番組ならなおさら。




2015年9月27日日曜日

Generativity 次世代育成能力



ハリー・R・ムーディー
W・アンドリュー・エイケンボーム
「世代を超えた環境倫理に向けて」
(90号「年をとるということ」)



人は自分の家族の中で世代をまたいだ義務、つまり親の子どもに対する義務、子どもの親に対する義務について考えることに慣れている。

親族集団と家族は持続可能性、つまり第一に生き物であることを示す誕生と死のサイクルという生物学上の基礎であり続けている。

持続可能性のこの側面は非常に根本的なものであるため、偉大な心理学者であるエリク・エリクソンはこれを人生の様々な段階における徳目の図式の中で強調している。

エリクソンは成熟した大人にとって最も重要な徳は「次世代育成能力」と理解していたが、ジョン・コートルはそれを「自分を長く生かすこと」という注目すべきフレーズに練り上げている。
 



「持続可能性」という語は環境保護思想の標語として広く普及し、その語は中身の濃い複雑な歴史をもつことになった。

環境保護論者は持続可能性について語るとき、エリクソンの次世代育成能力という徳のようなものを援用するが、たいていはそれがもつ宗教性には言及しない。

実際には、大きな世界宗教の実践の核心には常に持続可能性がある。

そうでなければ、それらの宗教は生き残らなかっただろう。

これからの世代に対する義務の出発点は感謝、つまり自分たちがこれまでにいた世代の人たちから受け取ったものを認めることにある。

聖パウロの「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(Ⅰコリ四7)という問いよりそれをうまく表現しているものはない。

つまり、自分たちより前にいた人たちへの感謝は自分たちより後に来る人たちへの義務につながっているのである。






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特 集

年をとるということ

第90号 2015年9月
定価2000円+税



2015年9月20日日曜日

90号「年をとるということ」目 次


9月30日 発売開始




http://www.amazon.co.jp/gp/product/488274287X/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=488274287X&linkCode=as2&tag=mmiyas-22特 集

年をとるということ

第90号 2015年9月
定価2000円+税




まえがき





マーガレット・M・ガレット(榊原芙美子・訳)Margaret Morganroth Gullette
知恵と認知症 ―アメリカ社会はこの二者択一に陥ったのか

    社会が生み出してきた「知恵か認知上の不全か」という二分法打をち破るために、著者の母親が九〇代を迎えたときの具体的な状況を描くことが試みられる。アメリカの福祉一般が直面している危機には医療診断や介護上の失敗もあるが、伝統的に老齢と知恵の間にある決定的な結びつきがもたらし続けている問題も小さなものではない。この問題に希望を見出すには、異なる考えに目をやり、年長者に対する尊敬を回復し、知恵が見出されるときにはいつでもそれを認める必要がある。 
     《キーワード》 老人差別、アルツハイマー病、認知不全、協働知能(Collaborative intelligence)、認知症、記憶障害、多重知能、知恵、知恵文学
     


ダグラス・A・ナイト (標珠実・訳)Douglas A. Knight 

ヘブライ語聖書における年齢観
    ヘブライ語聖書において、老いや高齢者について言及しているテクストは古代イスラエルにおける実際の社会経済的背景に照らして理解する必要がある。資料が示すところによれば、当時の寿命は四〇歳前後であり、そのくらいの年齢で老人とみなされ、老いの症状に悩まされていたことが分かる。また、老いの苦痛について描写している周辺文化の文学についても検討する必要がある。
     《キーワード》 老化、老い、ヘブライ語聖書、イスラエル、社会史、古代近東、クムラン、メギド、メロン


ハリー・R・ムーディー/W・アンドリュー・エイケンボーム (吉谷かおる・訳)
Harry R. Moody and W. Andrew Achenbaum
世代を超えた環境倫理に向けて―連帯、持続可能性、管理責任について―
    環境問題の宗教的基礎づけが環境倫理の基礎、すなわち世代を超えた義務と見なされることはほとんどない。ここでは連帯、持続可能性、管理責任という三つの倫理的原則を提示する。これら三つが宗教的に根ざしていることがこれからの世代のためになすべき義務を明らかにしている。「連帯」はまだ生まれていない人間にも人間以外の種にも及ぶ。「持続可能性」は過去と未来の世代との関係から考察される。「管理責任」は地球規模の環境変化を理解し、絶望ではなく希望によってそれに対応する今日の世代に課されている責任の絶対的原理である。
    《キーワード》 高齢化、連帯、持続可能性、管理責任、世代、環境神学、環境

ヘンリー・C・シモンズ (古本みさ・訳)Henry C. Simmons
ケアへの挑戦
    「人生の残り三分の一」におけるケアに対する会衆の期待は教会従事者に課題をもたらしている。寿命が伸び、病死が増加するにつれ、「人生の残り三分の一」という期間は今や長く、複雑なものとなっている。現代における社会および教会の人口動態はケアに対する新しい要求と限界を生み出し、ケアの個人的な要求に応えるのが困難な課題となる教会従事者もいる。ここでは、長期間にわたって持続される会話、信徒間の儀式と経験の分かち合い、「~であるかのように」生きること、政治的なホスピタリティという四つの方策について考えてみる。
    《キーワード》 老い、人口動態、社会、教会、資源、親、ケア、儀式、環境
     
トーマス・リンチ(吉岡誠悦・訳)Thomas Lynch
よい葬儀と「空の墓」
    キリスト教の決定的な真実とは「空の墓」である(ヨハ一九38―42)。それゆえ、キリスト教の神学は終末論や生と死に対する最高の希望によって形成される。したがって「よい葬儀」とは、終末のための演習なのであり、死者の世話をすることによって、どのように生に仕えるかということなのである。  
    《キーワード》 死、葬式、火葬、記念碑、身体、救い、生存者、物語



テクストと説教の間
エレミヤ書31章1─6節 (ケリー・H・ウィン/標珠実・訳)
ヨハネによる福音書20章19─23節 (ケイシー・トンプソン/齋藤百合子・訳)
エフェソの信徒への手紙1章15─23節 (ギャレット・アンドリュー/齋藤百合子・訳)


書評紹介(標珠実、榊原芙美子、吉谷かおる・訳)
ギルバート・メイレンダー著『人は永遠に生きるべきか ―老いに関する倫理的両義性―』
トーマス・G・ロング/トーマス・リンチ著『よい葬儀 ―死、悲しみ、ケアする共同体―』
ドナルド・H・ジュエル著『聖典の想像力を形づくる ―聖書の真実・意味・神学的解釈― 』
マーヴィン・A・スウィーニー著『タナハ ―神学的・批判的ユダヤ教聖書入門―』



2015年9月13日日曜日

巨人イエス


ウルリヒ・ルツ
「芸術表現におけるイエスの復活」
(88号「イースターの祈り」)



イエスの復活という出来事の最古の描写は新約聖書外典の「ペトロ福音書」の中に見られる。

ペトロ福音書は一五〇年より少し前に書かれたと推定されるが、文書全体は残されていない。

受難物語の長い断片がひとつと、それよりも短いものが数片発見されたのみである。

この福音書は明らかに、共観福音書がすでに存在していることを前提としている。

著者は共観福音書をほとんど暗記していたのだろう。

そう考えると、他の福音書についての数々の言及、ことにマタイによる福音書からの夥しい引用を最も容易に説明できる。

ペトロ福音書における復活の物語はマタイによる番兵の描写を前提としている(マタ二七62—66)。

そこではイエスの復活は神話的、宇宙的な次元から描かれている。

レイモンド・ブラウンによる訳をここに記そう。
 





[32]  そこに居たものすべてで大きな石を転がし、百人隊長と番兵たちとともに、墓の扉の前に置いた。

[33] そして、扉を七か所、蝋で封印し、幕屋を立て、見張った。

[34] 安息日が明けるころ、エルサレムと周辺から、封のしてある墓を見ようと人の群れがやって来た。

[35] しかし、主日が明けたその晩、二人ずつの兵士が番にあたっていたとき、天で大きな声がした。

[36] そして、兵士たちは天が開き、光り輝く二人の男が降りてきて墓に近寄るのを見た。

[37] すると、墓の扉のところに置いてあった石が自ら脇へ転がった。そして、墓は開き、その若い男たちは二人とも中へ入って行った。

[38] 番兵たちはそれを見て、(同じように見張りにあたっていた)百人隊長や祭司長たちを起こしに行った。

[39] そして、自分たちはいったい何を見たのかを話す間に、今度は墓から三人の男が出て来るのを見た。二人が残る一人を支えているようであった。三人の後には十字架が続いて出てきた。

[40] 二人の頭は天に届かんばかりで、手を取られているもうひとりの人の頭は天を越えていた。

[41] そして、天から「冥府へ宣教に行ってきたのか」という声が聞こえた。

[42] すると、十字架から「はい」という敬意に満ちた答えがあった。

[43] 彼ら(そこにいた者たち)は逃げ出して、ピラトに報告するための相談をした。

[44] 彼らがまだ考えている間、再び天が開き、ある男が降りてきて、墓に入った。

[45] これらのことを見て、百人隊長たちは(見張りをしていた墓を離れ)ピラトのもとへと夜の中を急ぎ、大きな苦悩をもって、しかと見たことを話し、「あの男は本当に神の子でした」と言った。






特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税



2015年9月6日日曜日

西洋を越えて



テリー・マック
「パラダイムを越えて
(86号「対話を求めて」より)


ニッターもヒックも西洋の哲学、西洋の神学の伝統に属している。

他に何者であり得よう。

ヒックの言葉を別の形で言い換えれば、ヒンドゥー文化の中に生まれた人はヒンドゥー教徒になる可能性が非常に高く、イスラム文化の中で生まれた人はイスラム教徒に、仏教文化の中であれば仏教徒、キリスト教文化であればキリスト教徒になる可能性が高いということである。

また、付け加えれば、西洋哲学の文化は西洋哲学者を生み出すのである。

西洋の哲学者あるいは神学者であれば、避けがたく新プラトン主義的なキリスト教神学、アリストテレスの論理学、カントの形而上学の継承者であり、そこに①キルケゴールの実存主義、②ヨーロッパのロマン主義、③ローマ・カトリック教会の神秘主義、④宗教改革の敬虔主義などの添加物が加えられる。

ニッターもヒックもこの伝統の継承者であり、そのことは彼らの著作に見てとれる。
 


これが彼らにとって避けられないことであり、避けられるはずもないことであったと述べておくことは重要である。

仮にそれが避けられたとしても、それは望ましいことではなかった。

誰でもある視点をもって研究を行う。

何かが可能であるということ、あるいはあり得ないということが分かるのも何らかの視点があればこそなのである。

神学と哲学についての西洋の考え方は重要であり、有益である。

そして、西洋人が自らの考え方を棄てて、たとえば東洋的な考え方を受け入れようとするとき、その結果はたいてい気まずいものになる。


 



特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税

















2015年9月2日水曜日

緊急告知「安全保障関連法案に反対する学者の会」

「学者の会」アピール賛同者の皆様へ緊急のお願い

緊迫した国会情勢のもと、「学生と学者の共同行動」を大成功させましょう。
佐藤学(「安全保障関連法案に反対する学者の会」発起人・事務局代表)

(1)9月6日(日)は午後3時から午後5時半、新宿伊勢丹前の歩行者天国で、「学生と学者の共同街宣行動」を行います。歩行者天国を埋め尽くしましょう。この街宣行動では、学生と学者のスピーチの他、蓮舫民主党代表代行、志位和夫日本共産党委員長、吉田忠智社会民主党党首、二見伸明公明党元副委員長が、スピーチを行います。(他の野党は返答まち)
 重要な時期の重要な街宣になるので、ぜひ、ご参加ください。当日のフライヤーを添付します。なお、雨天の場合は、歩行者天国は行われないので、新宿駅東口で街宣行動を行います。

(2)9月11日(金)は学生と学者の共同行動第3弾として、午後7時半から国会前の抗議行動を行います。こちらも、こぞって参加してください。

(3)以下のように各地方でSEALDsの行動が展開されます。地方ごとにSEALDsを支援し共に闘いましょう。


【SEALDs】
9/4(金) 19:30~21:30 戦争法案に反対する国会前抗議行動
9/6(日) 15:00~17:30 安全保障関連法案に反対する学者と学生による街宣@新宿
9/10(木) 19:30~21:30 戦争法案に反対する国会前抗議行動
9/11(金) 19:30~21:30 戦争法案に反対する国会前抗議行動
9/12(土) S4LON vol.3[この国で生きる―経済 憲法 安保法制―]第1部 15:00~ 第2部 19:00~
9/14(月)~9/18(金) 戦争法案強行採決に反対する国会前緊急抗議行動


【TOHOKU】
9/4~ 毎週金曜街宣
9/5(土) SALON(詳細未定)
(9/6(日) 弁護士大集会)
9/10 緊急アピール(詳細未定)


【KANSAI】
9/4 (金) 18:30~20:00 戦争法案に反対する金曜街宣アピール@大阪梅田ヨドバシカメラ前
9/11 (金) 19:30~21:30 戦争法案に反対する国会前抗議行動
9/13 (日) 16:00~18:30 戦争法案に反対する関西大行動@大阪 靭公園


【RYUKYU】
9/12(土) 10:00~12:00 サロンvol.2トポセシア(沖縄県宜野湾市我如古2-12-6)
9/19(土) 「沖縄のことは沖縄で決める緊急アピール」(場所未定)

2015年8月30日日曜日

福音書は調和しているのか


クリスティーン・ジョインズ
「沈黙の音」
(88号「イースターの祈り」)



 

マルコ福音書の女性たちが空の墓を訪れる物語は、この出来事の最初期の伝承と考えられている。

福音書記者はマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人がイエスに塗るための香油を買い、墓に行った様子を描いている。

女性たちは墓への道すがらどうすれば墓の入口の石を動かして中に入れるかを話し合っているが、墓に到着すると、石は転がされていた。

女性たちが墓に入ると、若い男性が「白い衣を着て右手に座って」いた。「そして婦人たちはひどく驚いた」(一六5)。


その若者は女性たちを安心させる言葉をかけ(「驚くことはない」)、復活の知らせ(「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」一六6)と委託(「行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる」一六7)を伝える。

しかし、女性たちは委託されたことを実行せずに逃げ去り、「だれにも何も言わなかった」。マルコ福音書はこのようにして終わる(一六8)。
 




マルコ福音書を最初に解釈したマタイ福音書は、マルコ福音書のテクストの曖昧なところや不合理なところを取り去ろうとしている。

マタイ福音書では、女性たちはイエスに油を塗ろうとして墓に来たのではなく墓穴で二日も経った後ではそれは無駄なことだろう墓を見に来たことになっている。

また、墓の入口から石を動かしたのが天の使いであると説明されており、石が取り除かれていたことを謎のままにしているマルコ福音書とは対照的である(一六4)。

マルコ福音書の「若者」はマタイ福音書でははっきりと「天使」として解釈されており、地震に関する独自の資料も加えられている。

「ガリラヤへ行け」という命令はマタイ福音書でも保持されているが、ペトロの名を特に出してはいない。

こうしたことよりも重要な違いは、マルコ福音書とは対照的に、女性たちは天使のメッセージを弟子たちに伝えたとされ、女性たちが沈黙したとはされていないことである。
 




ルカ福音書は空の墓の話を語り直すにあたり(マタイ福音書とは合致しないが)マルコ福音書とはいくつか重要な点で一致している。

すなわち、女性たちは(マルコ福音書と同様、おそらく遺体に油を塗るために)香料を携えており、誰が石を取り除いたのかという謎は謎のままとされている。

しかし、ルカ福音書は二人の「輝く衣を着た人」が女性たちにかなり異なるメッセージを伝えている。

これはルカに特有なルカ特殊資料で、「ガリラヤへ行け」という命令はなく、受難の予告を想起させることによって、その成就が語られている(二四7—8)。

しかし、ルカ福音書もマタイ福音書と同様に、マルコ福音書における女性たちの沈黙は採用していない。






特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税



2015年8月23日日曜日

フィリピの信徒への手紙と「キリスト賛歌」



ジョセフ・マーシャル
「キリスト賛歌のレトリック
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)



フィリピの信徒への手紙はパウロ書簡の中でも些細で重要度の低い書に分類されることがあまりにも多い。

そのような評価のせいで、不幸なことに、この手紙はあまり検証されないままにされており、四章という短さの中に様々な考えが複雑に絡み合ってひとつの主張をなしていることを考えると、それはやはり不幸なことと思われる。

パウロ研究者の多くがこの手紙を見過ごしにしているが、一部の専門家はその中心的なテーマや主張、あるいは主要なイメージ群に関して幅広く問題提議をしている。

さらに詳しい学問上の問題、たとえば苦難と喜びという奇妙な組み合わせや、古代における友情と庇護の概念の適用と変化、また市民の連帯についての軍事的、帝国主義的な文脈といった点については今号の他の論考などで扱われるだろう。
 




ここではフィリピの信徒への手紙に対して取られる解釈のアプローチを概観していく。

この手紙への印象や興味は主に次の二つの条件によって規定されている。

第一に挙げられるのは二章6―11節の「キリスト賛歌」に注目する傾向であり、手紙全体よりもこの部分に限定した分析が行われがちである。

何らかの期待をもって今号のインタープリテイションを開いた人からしてみれば、その期待のうちのひとつはキリスト賛歌が今号の論考の中で最高の場所を与えられているであろうという期待であったはずである。

分析に影響を与えている解釈上の第二の傾向はフィリピの信徒たちが温和で害がなく、概して友好的であるという印象が定着していることである。

そうした印象はこの手紙をすぐに考察の対象から外し、〝愛を込めて〟その意義を小さくしてきた学問的姿勢、あるいは特定の学者が行った手紙の分析方法や、この支配的なイメージとの関わり方によって生み出されたものと考えられる。


 


特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2015年8月16日日曜日

終わりははじまり アドベントと終末論



ゲイル・オデイ
「未来に戻れ アドベントの終末論的ヴィジョン」
(83号特集「アドベントと典礼」)

 

アドベントの期節には時間それ自体が明確な神学的カテゴリーとなる。

アドベントは新しいキリスト教暦年の始まりを示すものであるから、その典礼期節としての中心的特色のひとつは、礼拝共同体がそのアイデンティティの根源である物語サイクルに再び入るということである。

教会の時の捉え方がもつ循環的性質は、聖なる物語は毎年アドベントに新たに始まるということを意味する。

典礼暦年において宗教上の物語と時が交差することによって、過去、現在、未来が共同体の共同生活において絶えず新たに得られるものとなる。

すなわち、過去、現在、未来は絶えず長くなり続ける予定表に沿って進むのではなく、時の中で循環的に互いに関連し合うのである。

アドベントは礼拝するキリスト者たちを従来の線的な時間理解から離れさせ、神の時に入らせる。
 



http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742578/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742578&linkCode=as2&tag=mmiyas-22アドベントにとっての時の重要性は、典礼暦の要にあるポイントを見るとはっきりする。

典礼暦はキリストの支配または〈王であるキリストの主日〉で終わる。

〈通常の時〉の最後の主日、〈王であるキリストの主日〉の聖書日課は選ばれた朗読パターンに従う。

受肉のサイクルと過越のサイクルと同様、三つの日課には宇宙を治めるキリストの支配というこの日のテーマを際立たせるものが選ばれている。

〈通常の時〉における聖書日課は、聖書の幅広さや教会の礼拝と宣教を通して知られるキリスト教の物語の多くの面に焦点を合わせたものと特徴づけられるが、その最後の主日にはキリストの物語に焦点が戻る。

しかし、重要なのは〈王であるキリストの主日〉には、受肉のサイクルと過越のサイクルと違って、キリストの物語の出来事を物語り、再演することに焦点があるのではなく、その物語によって生み出された未来が焦点になっているということなのである。






特 集

アドベントと典礼


第83号 2013年11月
定価2000円+税








2015年8月9日日曜日

聖書の「終わり」とヨハネ福音書




フランシス・J・マローニー
聖書の「終わり」



イエスの死はイスラエルの聖典を実現するだけでなく、それを「完全なる終わり」へと導く。

 一九章28─30節aの簡単な説明において確認したように、ヨハネはそこまでに「テロス」と関連する様々なギリシャ語の名詞や動詞を用いて、神の計画に「完全なる終わり」がもたらされる最後の瞬間の到来を約束している(四34、一三1、一七4参照)。

イエスの死を完成、成就とする表現はいずれにしても一九章30節aにおける劇的な結末に繫がる。

聖書からの引用とは関連しないが、十字架上からのイエスの叫び、「成し遂げられた」(30節a)はすべてが最終的な達成をみたこと、すべてが実現したことを権威をもって宣言する。

第四福音書全体を通じて丹念に組み立てられたイスラエルの聖典からの引用は、イエスの物語の開示と密に組み合わされ、着実にこの「成し遂げられた」というクライマックスに繫がっている。

ヨハネ福音書の中で語られているように、イエスの死において、またそれを通じて神の栄光を示すことが聖書の物語の「終わり」、すなわち、その実現であり、それがここにおいて初めて、極めて重要なものとして示されている。









特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月
定価2000円+税





2015年8月2日日曜日

土地との正しい関係 —カインの場合—



クリスティン・M・スウェンソン
「エデンの東を守り、保つ」
(84号特集「他者へのまなざし」)


神はカインに語る。

カインが自分の職業とされた仕事、すなわち神が園に住まわせた人間を部分的に規定していた仕事をするとき、地は「もはやお前にその力を与えない。

お前は地上で落ち着くことなく、さまよい歩く」(12節。私訳)。

聖書では接続詞が非常に多く用いられているので、この二文の間に接続詞がないことは非常に目立つ。

この接続詞の欠如が示唆するのは、土地がその力を与えないということとカインの不安定さという二つの異なる事柄を語る別々の二文として12節を読むべきではないということである。

むしろ、土地がカインを拒否するということがカインの不安定なのである。

言い換えれば、カインの安定とは土地との正しい関係なしにもたらされることはないということである。
 




土地自体に拒絶されたカインはさまよう根のない生活に追いやられる。

語り手はこのことを物語の終わりに強烈な語呂合わせで強調する。

カインが「落ち着く場所」は「さまよい」という意味をもつノドという名の地なのである(16節)。

カインは7節で神が発した警告を反映した形で、自分の運命について「罰が大きすぎて耐えられません」と訴える(13節)。

「耐える」に当たる動詞〈ナサー〉は、正いことをしているなら顔を上げていられるはずと言ったときに神が用いた動詞と同じ動詞である。

語り手は以前に用いられた後を思い出させることで、カインがどれほど脇道に反れてしまったかを明らかにする。

カインは正しいことをした結果として顔を上げるのではなく、間違った行為ゆえの面倒な結末に耐えることができないと叫ぶ。
 




カインはこの苦しい応答において、自分の行為によって明らかになった関係には別の次元があることを示している。

自分の運命についてのカインの解釈は、神の存在の経験を自分の奉仕の対象である土地と結びつけている。

彼は言う—「今日、あなたはわたしを土地(の表面)から追放した。

そして、わたしはあなたの顔から隠される」(14節)。

カインの応答のキアスムス的な並行関係が土地と神を結びつけている。

「あなたはわたしを追放した」は構造的に「わたしは隠される」と関係し、「あなたの顔」は「土地の表面」と対にされている。

二つめの組は同じ単語で〔「顔」「表面」はヘブライ語では全く同じ語〕、付される前置詞も同じ「〜から」なので、その関連は特に強い。

カインの応答は土地そのものがカインの神体験を仲介していることを明らかにしている。

土地との正しい関係が神の存在をカインが経験する手段であった。

カインが神を知るのは土地を通してなのである。




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特 集

他者へのまなざし


第84号 2014年3月
定価2000円+税








2015年7月26日日曜日

偶像崇拝と性的な不品行




ジョエル・マーカス
「新約聖書における偶像崇拝」
(81号特集「ほかに神があってはならない」)


偶像崇拝と性的な不品行の結びつきはさらに深いレベルにも及んでいる。

像の礼拝は他のすべての違反の根源という考えもそのひとつである。

この点で、ローマの信徒への手紙一章1827節に見られる悪の起源についてのパウロの分析は、ヘレニズム時代のユダヤ教文書である知恵の書一四章1231節に明確に示された道筋を辿っている(偶像崇拝は「姦淫の始まり」であり、「諸悪の始まりであり原因であり結末である」。一四12、27)。

偶像崇拝は根本的な罪であり、とりわけ姦淫を含む他の罪へと必然的に導く。

偶像崇拝と姦淫の結びつきはとりわけ密接なもので、この二つの違反によって、被造物を創造者と取り違え、被造物を拝み、創造者ではなく被造物に仕えることになる(ロマ一25参照)。

つまり、姦淫は偶像崇拝の一形態なのである。

逆に言えば、姦淫と偶像崇拝は、ヤハウェの花嫁たるイスラエル、そしてヤハウェに対する不貞としての偶像崇拝という聖書のメタファーによって密接に結びついており、偶像崇拝は姦淫の一形態ということにもなる(これはホセア書一四章、エゼキエル書一六章および二三章において最もよく展開されている)。

偶像崇拝は様々な違反のリストによって詳しく語られているが(知一四13−27)、それを姦淫の始まりであるとしている知恵の書一四章12節の言葉はこのメタファーを背景としているのかもしれない。

ここでいう「姦淫」は、あらゆる不信仰を意味する幅広い言葉となっているようで、しばしば「偶像崇拝」をも意味する。


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特 集

ほかに神があってはならない


第81号 2013年5月
定価2000円+税








2015年7月19日日曜日

バビロニアの「ユダの町」—アル・イェフードゥ文書




ケネス・D・ハッチェンズ
「イザヤ書45章14−23節」
(81号特集「ほかに神があってはならない」)


前六世紀、バビロニア帝国各地に散り散りになっていた古代イスラエル人は多くの選択肢に直面していた。

彼らが住む世界は多神教が広く行き渡った世界だった。

それぞれの民にはそれぞれ守護神がいたが、他の神や女神たちへの礼拝もあきれるほどの数の組み合わせと形をもって広く行われていた。

捕囚以前に声を上げた預言者たちの主たる批判のひとつは、イスラエルの神ヤハウェへの礼拝を他の神への礼拝と混合させたり、神を取り替えたりする古代イスラエル人の性向に対するものであった。

多神教に順応すること、あるいはヤハウェを捨て去ることへの圧力は、ユダを打ち負かしたバビロニアによるエルサレム破壊よりも大きなものでさえあった。

====== 

先日、 ある研究会で「アル・イェフードゥ」というバビロニアのユダ人居住地の話を聞いた。「アル・イェフードゥ」は「ユダの町」という意味。

そこではユダ人がバビロニアの神の名がついたバビロニア名をもつようになったり、世代を経て、ヤハウェを含んだユダ名をもつものに戻ったりする様子が経済文書から明らかにされている。

バビロニアの神の名がついた名をもっていても、ユダ人でありつづけるという現象は、これまでの考え方とはかなりちがう。

興味のある方は下記参照。楔形文字のテクストですが、英訳つき。

 L. E. Pearce and C. Wunsch, Documents of Judean Exiles and West Semites in Babylonia in the Collection of David Sofer. Cornell University Studies in Assyriology and Sumerology 28, Bethesda, MD, 2014.






特 集

ほかに神があってはならない


第81号 2013年5月
定価2000円+税








2015年7月12日日曜日

聖書学の成立




ユージン・ボーリング
「マタイ福音書の物語キリスト論」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)


マタイが自らの福音書を通して自らのキリスト教信仰を発見したように、一八世紀以前のキリスト教神学者の大半は旧約聖書と新約聖書を均質なキリスト教信仰の書として読んでいた。

そこでは教条神学と歴史神学は切り離されておらず、聖書は教会の教えを支えるためのテクストとして探究された。

他の新約聖書の著者、あるいは後のキリスト教の神学者とは区別される「マタイのキリスト論」があるという考えは、それぞれの実存的な現実に聖書が直接語りかけていた各時代の教会の解釈者には思いもよらないものであった。

一八世紀の歴史主義の高まりは一七八七年のヨハン・フィリップ・ガプラーの「教条神学と聖書神学の適切な区別とその境界の正しい決定」という言葉によって始まる。

聖書神学は純粋に歴史的な学問と定義されるものとして始まった。

後代の教条的な制約なしに、古代の聖書の著者が自身の言葉において考えたことを展開していくのがその課題であった。

「今、ここで」という規範的な意味での探究は組織神学者に任せ、「そのとき、そこで」についての純粋に記述的でアカデミックな学問であることが聖書神学には求められた。

神学校では聖書学は組織神学とは別の分野となった。聖書学者は自らを神学者であるとは主張せず、神学者は釈義の問題については聖書学者に従い、〝縄張り〟は尊重された。

このアプローチは古くはクリスター・ステンダールが一九六二年に発表した「聖書神学の歴史」において表現され、主要な教派で一世代ほどの間、広く用いられた注解書シリーズ「インタープリーターズ・バイブル」では「釈義」(それが意味したこと)と「注釈」(それが意味すること)の間に明確な線引きがなされた。





特 集

とともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税







2015年7月5日日曜日

89号「ともにある神 ―マタイ福音書― 」まえがき





特 集

ともにある神 −マタイ福音書−

第89号 2015年6月
定価2000円+税






まえがき


「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ一23)。

マタイによる福音書はこのようにして始まる。

しかし、「神は我々と共におられる」という言葉はマタイ福音書を読む者にとって、どういう意味をもっているのだろうか。本号ではこの問いを五人の新約学者が探求している。
 


「マタイは神について何か特別なことを言っているのだろうか」—この問いに「言っている」と答えるのは正しいことだが、それでは単純すぎるとヴィヴィアーノは言う。

マタイの神は婉曲表現と神的受動態に隠されて、「決して遠くにいるわけではないが、直接見ることも摑むこともできない」。

マタイのインマヌエルを受け入れるには、マタイの価値観と霊的な方向性を受け入れる準備が必要である。
 



ユージン・ボーリングによれば、マタイのキリスト論は「イエスとは誰なのか」ではなく「神とは誰なのか」を問うものである。

その答えは〈マタイ福音書についての物語〉〈マタイ福音書の物語〉〈マタイ福音書における物語〉という三つの絡み合った物語の中に表現されており、そのそれぞれが「わたしたちとともにある神であるイエスの人格」と分かち難く繫がっている。

この三つの物語は「現代において解釈する者自身が埋め込まれている物語の文脈において、より適切に評価される」。
 


スコット・スペンサーはイエスがファリサイ人に向ける「聖書を読んだことがないのか」という問いかけをきっかけに、インマヌエルの意味を探求している。イエスの解釈は聖書の命令を和らげる「リベラルな」イエス(たとえば、マタ一二18)と聖書の教えにひき止める「保守的な」イエス(たとえば、マタ一九19)の両方に読む者を出会わせており、「心を挫けさせたり、気持ちをイライラさせたりする」ものではない。

この緊張関係を切り抜けるためのマタイによる忠告(マタ一八20)が「神の民の共同体の中で聖書と開かれた心をもって、神の言葉を通してわたしたちを神の真理の完成へと導く生けるインマヌエルと新たに出会うべきなのである」というスペンサーの結論の根拠となる。


 

バーバラ・リードはマタイの譬え話の研究で「どちらの神がともにいるのか。

山上の説教の恵み深く、寛大な神か、報復的で懲罰的な譬え話の神か」という辛辣な問いを提示している。

これは読む者に深刻な倫理的ジレンマを生じさせる。

「邪悪な者を罰することで神が正義を確立しようとしているとしたら、わたしたちも同様にすべきなのだろうか」。

リードはこの二つのイメージの間にある緊張を解決する策を探求し、ジレンマを減らすことなく、「神の愛の力はあらゆる悪行や死の力さえも克服し、そのイメージを他者に伝えようとするすべての信者を力づける」として、マタイ福音書の最後のイメージを強調している(マタ二八20)。
 


マタイにおける「インマヌエル」は一世紀パレスティナの無力で評価の低かった女性たちにはどのような意味で「よき知らせ」だったのだろうか。

ドロシー・J・ウィーヴァーはこれに応えて、マタイ福音書の物語の中に父権制的な世界を表現する「下位レベル」の視点とレトリックによって話を転覆させる「上位レベル」の視点を見出し、それに注目している。

イエスの誕生物語(マタ一1二23)、宣教(マタ三125、46、二七5556)、復活(マタ二六1二八20)において、この「上位レベル」の視点は予期せぬ驚くべき存在感を女性に与えている。

それは「始まりと同様、驚きをもって終わる」福音書の根本なのである。

そして、「その驚きをつくり出しているのは女性」であり、「読む者はそれを理解しておかなければならない」。



サミュエル・E・バランタイン

2015年6月28日日曜日

マタイ福音書の成立




ユージン・ボーリング
「マタイ福音書の物語キリスト論」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)



マタイ福音書形成の物語は、以下の四つの段階をもって寸描されるだろう。


(1)キリスト論の変化
マタイ福音書が書かれる二世代前、マタイ自身がキリスト教徒になる以前、キリスト論に根本的な変化が起こった。


イエスの磔刑の数日後のことである。

ナザレのイエスについての物語や印象、彼自身が発した言葉は、神が彼を死人のうちから復活させたことによって変化した。

マタイは出生から復活顕現まで順を追ってイエスの物語を語るが、彼は後から振り返って書いているのであり、それは神が磔刑をイエスの物語の終わりとはしなかったのだという確信から始まる。

イエスの生涯を辿り、イエスが語り、行ったことから推測されることを描けば、当然のように人々はイエスをメシアと理解するようになるとはマタイは思わなかった。

マタイは誰もが「史的イエス」を実際に目にし、「神の顕現」と見ることができたとは思っていなかった。

最初期の教会にとって、またマタイにとっても、復活が唯一の欠くことのできないキリスト論のしるしであったのである(一二39—40、一六4)。

イエスの本当の正体は啓示によってのみもたらされる直観である(一六16—17)。

復活以前の物語の枠組みの中に組み込まれてはいるが、このイエスの正体の開示は常に決定的な啓示として復活を前提としている。

これによって、イエス理解に最初の変化がおこり、キリスト論が出現したのである。
 



(2)再 解 釈
マタイと彼の共同体がこの信仰を表現する伝承を受けとった時点で、その伝承は様々に再解釈を受けていた。


マタイが継承したキリスト論の解釈が最初に私たちの目に見える形になったのはQ資料の復元においてである。

Q資料を書いた預言者的な教師はシリアの新しいキリスト教共同体の形成において活躍していた。

シリアの首都アンティオキアあるいはその近郊にあったマタイの教会において、Q資料はキリスト論を含め、彼らの信仰を形成し、表現する役割を果たしていた。

Q資料はイエスの生涯と死、そして復活の物語ではなく、主としてイエスの教えを表現するために整えられた御言葉集であった。

しかし、Q資料のイエスは単なる賢人、ラビではなく、超越した「人の子」、終末における権威者として語っている。

イエスの言葉は単なるよき忠告でもなかった。

イエスが教えの中で具体的にされる根本的で権威ある律法の再解釈は、「人の子」が再び現れるときの審判の基準であった。

Q資料における支配的なキリスト論の称号は断然「人の子」である。

「人の子」という語は終末の審判者という意味で八回用いられ、地上のイエスを指して三回用いられているが、苦しみ、死に、復活する救い主の姿には一度も用いられていない。

「人の子」以外の称号はQ資料のキリスト論においては何の役割も演じていない。

「来るべき方」という表現はQ三16、七19、一三35に現れる。

「主」はQ六46を除いて、キリスト論として用いられていない。

「神の子」は悪魔が発言する誤った言葉としてのみで用いられるが(Q四3、四9)。

「子」という表現は単に啓示を知る者としてQ一〇21︱22の「父」と「子」という話の中で現れる。

そして、「キリスト」という表現はQ資料には見られていない。
 




(3)新しい物語形式
マタイ自身が福音書を書く二〇年あるいは三〇年前に、あるキリスト教徒の教師が、おそらくシリアで、キリスト信仰を伝えるために物語という新しい手段を考案した。


そのマルコ福音書はパウロ神学に基づくイエスの死と復活の宣教上の焦点を神の救いの力がイエスの地上での人生の中で明らかとされたという物話と結合させたのである。

Q資料ではキリスト、神の子、ダビデの子、主、教師、ユダヤ人の王といったマルコ福音書ではキリスト理解において重要な鍵となる言葉が全く用いられていないかほとんど目立たない。

マルコはさらに、「人の子」に「苦しみ」「死」「復活」という重要な新しい概念を加えていた。

マタイ共同体はそれまでの一〇年以上の間、ヘレニズムのユダヤ人キリスト教徒の共同体であったが、Q資料が焦点を当てていた聖書とイエスのメッセージの理解によって導かれていた。

その共同体が権威あるキリスト教の伝承としてマルコ福音書を用い始めたとき、マタイのキリスト論は大きく変化したのである。
 




(4)最終的な再解釈
しばらくの間、マタイ共同体はQ資料とマルコ福音書を真正な目撃証言の文書、キリストの出来事の意味の案内書であると認めて、教理問答、礼拝、説教において用いていくことになった。


マタイと彼が教師を務めていた教会はマルコ福音書とQ資料に非常に精通するようになり、その両方を会衆の生活の規範として解釈し続けていた。

そして、最終的な再解釈が必要とされる時が来る。
 



マタイは自らの教会のためにQ資料とマルコ福音書の意味を更新するという注解書的な方法を選ぶこともできた。

これについては当時のユダヤ教徒の文脈によい先例がある。

クムラン共同体の「ハバクク書注解」などがその好例である。

この方式においては、元の信頼すべきテクストが引用され、それに現在的な意味が与えられる。

しかし、新約聖書時代においてマタイも他のキリスト教徒の教師も信頼すべきテクストに注解をつけることによって自分たちの信仰を再解釈したのではなかったのは明らかである。

そのような手順は聞き手あるいは読み手と神聖なテクストの間の調和を阻害しただろう。

マタイは注解をつける代わりに、聖書を語り直すという方式を採用する。

マタイのもっていた聖書〔旧約聖書〕には以前の文書を再解釈した書がすでに含まれていたが、それは主たるテクストと二次的な注釈を区別する説明的な方式のものではなかった。

歴代誌の上下二巻はサムエル記上下と列王記上下というそれ以前の物語を再解釈しているが、文書と解釈が分かち難い統一体へと融合され、以前の物語をその当時のものとして語り直してまとめている。

また、モーセ五書、詩編、預言者の書の新しい層は後代の解釈を物語が続く中に取り入れている。

つまり、マタイはマルコ福音書、Q資料、また他の伝承をひとつの一貫した物語に結合し、マタイ自身のキリスト教共同体の必要に対処するために書き直したのである。

こうして、マタイのキリスト論は彼の教会論、終末論、倫理など彼の神学がもつ要素すべてとともに、その物語の中でまとめて把握されるものとして理解されるようになった。




特 集

とともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税








2015年6月21日日曜日

「ともにある神」 マタイにおけるインマヌエルとは


バーバラ・リード
「どちらの神がともにいるのか」
(89号特集「とともにある神 マタイ福音書」)


マタイが描写するのは、限りなく慈悲深い神が与えてくれる深い赦し、愛、忍耐であり、その意思は常に拡大し続ける慈悲の連鎖の中で永遠にわたしたちとともにある。

しかし、このメッセージは非常に受け入れるのが難しい。

神は罪に対してその代償を求め、その愛を得るためには努力が必要であるとする話の方がずっと簡単に理解できる。

正しい秩序の感覚が報復を行わない神によって試されているのである。

このような神のイメージは理解し難いだけでなく、他者との関わりの中で同じように振る舞うなど到底無理に思える。

では、悪人のやりたい放題を許すということなのだろうか。

終末の譬え話はこの疑問への答えなのである。

神の方針に反する人に厳しい結末がもたらされることを神は積極的に望んでいるわけではいないが、そうした人々は自らの選択によって自らのもとに返ってくる暴力の連鎖を生み出している。

マタイは神の慈悲深い招きに対する倫理的な応答の重大さを描いている。

わたしたちが慈悲と寛大という身に余る贈り物を受け入れ、自分たちが変わろうとする限り、神は常にわたしたちとともにある。







特 集

神、われらとともにあり

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税







2015年6月14日日曜日

「三位一体論」のはじまり




ベネディクト・ヴィヴィアーノ
「マタイ福音書における神」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)


〈三つの位格〉
マタイ福音書は神について何か特徴的なことを述べているのだろうかという問いはすでに立てておいた。

インマヌエルの扱いがそのひとつに挙げられることはすでに言及したが、最終節の前の節に三つの位格が用いられる洗礼定式文「すべての民をわたしの弟子にしなさい。

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け……」が見られることも特徴のひとつであろう。

この定式文はまだ本格的な三位一体の神学を表してはいないので、三つの位格と呼んでおく。

新約聖書の他の個所ではイエスの名のもとに洗礼が施されている。

マタイがこの特徴的な定式文を提案したのである。

マタイはどのようにしてこれに到達したのだろうか。

手短に言えば、復活後の初期キリスト教徒は男性にも女性にも同じように行われる(割礼とは違った)入会儀礼を必要としており、そこに洗礼者ヨハネの洗礼の儀式が受け継ぎやすいものとしてあったということであろう。

この定式文はおそらく、ダニエル書七章にあるような以前から存在する黙示思想の型に基づいて作ったのだろう。

ダニエル書七章には「日の老いたる者」(マタイはこれを「父」としてキリスト教化した)、「人の子」、マタイが聖霊へと縮合した「いと高き方の聖者たち」が見られる

(「神の霊」は創世記の初めの一頁目から黙示録の最終章に至るまで聖書の中に存在する)。

エゼキエル書一章と第一エノク書一四章には「子」と「聖霊」の代わりに、「選ばれた方」と天使が見られる。





特 集

とともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税







2015年6月7日日曜日

89号「ともにある神 ―マタイ福音書― 」目 次


6月中旬 発売開始



http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742810/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742810&linkCode=as2&tag=mmiyas-22
特 集

ともにある神

 マタイ福音書―

第89号 2015年6月
定価2000円+税









ベネディクト・T・ヴィヴィアーノ (吉谷かおる・訳)Benedict T. Viviano
マタイ福音書における神

    聖書に啓示される神はマタイによる福音書の至るところに存在するが、しばしばインマヌエル、すなわち、「わたしたちとともにいます神」であるイエスの後ろに下がって表に出ていない。神の存在は敬意を表す婉曲表現である「天」の後ろに隠され、「神的受動態」に覆われている。神の至高の名称は「父」である。マタイ福音書はたいてい日常生活の地平について語っているが、そこでは至るところで待ち受けている超越者そのものが地平なのである。


M・ユージン・ボーリング (石田雅嗣・訳)M. Eugene Boring 

マタイ福音書の物語キリスト論──三つの物語──
    マタイ福音書のキリスト論は神を中心としている。そこでは神の支配がこの世の支配者の統治と権力に代わるものとして、イエスの生涯において明らかに示されている。このキリスト論は物語の形で表現されており、現代においては解釈する者自身が埋め込まれている物語の文脈において、より適切に評価される。 
     

F・スコット・スペンサー (吉岡誠悦・訳)Thomas H. Troeger
マタイ福音書のイエスと聖書解釈
    マタイ福音書のイエスは典拠となる個々の聖句に対する不完全な焦点化を避けるため、聖書正典を縦断して創造的で刺激的な形で聖書によって聖書を解釈している。イエスによる解釈の方法と目的は偏狭な概念図の意味を失わせる。何よりも、マタイにおけるイエスは聖書の権威ある釈義者として、それを教える者として現れている。

バーバラ・E・リード (齋藤百合子・訳)Barbara E. Reid
どちらの神がわたしたちとともにいるのか
    マタイによる福音書には非常に異なる二つの神のイメージが表されており、その間に緊張関係が生じている。「山上の説教」における神は限りなく慈悲深く、寛容だが、八編の譬え話における神は報復と懲罰の神である。これは倫理的なジレンマを生じさせる。どちらがわたしたちとともにいる神なのか、わたしたちはどちらに倣うべきなのか。 
     
ドロシー・J・ウィーヴァー (吉谷かおる・訳)Dorothy Jean Weave
マタイ福音書における女性と神 
   「この福音が宣べ伝えられるところではどこでも──
    マタイ福音書の物語を注意深く検討すると、一世紀パレスチナという父権制世界に暮らす、無力で低く評価された人たちの印象的な姿が現れてくる。マタイは女性たちの物語に神をもち込むことで、究極的には神の民の生活と信仰に対する並外れた思いがけない意義を女性たちに与えたのである。



テクストと説教の間
マタイによる福音書3章13─17節 (アンドルー・F・コナーズ/標珠実・訳)
マタイによる福音書11章2─24節 (チャールズ・H・タルバート/齋藤百合子・訳)
マタイによる福音書26章 (デイヴィッド・レンウィック/吉岡誠悦・訳)


書評紹介(榊原芙美子、吉谷かおる・訳)
マイケル・J・ゴアマン著『十字架の形をした神の下に』
N・T・ライト著『義認神の計画とパウロのヴィジョン
ダグラス・A・キャンベル著『神の解放パウロの義認を黙示的に読み直す
ジョン・P・マイヤー著『律法と愛』(「周辺のユダヤ人史的イエス再考」第四巻)
デイヴィッド・H・ケルシー著『脱中心的存在―神学的人間学―』





2015年5月31日日曜日

激烈な裁きの警告で終わる譬え話はどう理解すべきなのか 




バーバラ・リード
「どちらの神がわたしたちとともにいるのか」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)



それぞれの譬え話で描写されているのは、神から繰り返し無条件に与えられる慈悲と寛容さに応えるにも時間には限りがあるということである。

「山上の説教」における神のイメージは、弟子が今ここで倣うべきものである。神の愛はどこまでも成長する。

その絶えることのない慈悲や愛を経験するとき、それを他の人に与える能力も向上する。

神の恩恵が効力を発揮することを許さず、暴力と迫害の連鎖を存続させれば、それ相応の結論が導かれ、それがいつまでも続くことになる。

マタイは終末の譬え話で、やがて時が満ちれば、神の慈悲深さに倣って自らの道を定める機会は過ぎ去り、審判の時が訪れると主張しているのである。

完全に慈悲深い神に倣って成長していれば、終末とは恐れるべきものではなく、むしろ永遠の正しい関係のあり方が完成する地点となる。





このように考えれば、信者は倣うべき神についてジレンマを感じなくてすむ。

最後の審判と懲罰は神のみに属すことであり、人間がまねるべきことではない。問題は終末に行われる悪人と善人の選別を現代において作用させてしまうことがあまりに多いという点である。

福音書を読んだり,聞いたりする人のほとんどは、自分が救われる側に入るという確信をそこに見出し、自分が悪人と思う人のことは非難されるべきと見る。

現時点で善悪に厳密な境界を設けても、それぞれの人、それぞれの共同体の中にある善悪の混じり合った状態に対峙することはできない。

悪しきものを許容する力を認めないことが、他の人を必要ならば暴力に訴えてでも根絶すべき敵や悪の権化と見なすことができるようになる確実な一歩である。

権力をもつ人は神が悪人をいかに厳しく罰するかを読んで、悪人を特定し、罰を与え、あるいは処刑するという自らの力を誤って破棄してしまうかもしれない。




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ともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税








2015年5月24日日曜日

後記 88号『イースターの祈り』


88号『イースターの祈り』後記




◎イースターの背後にある歴史を説明しようとするとき、ある種の難しさを感じる人も多いのではないだろうか。

クリスマスの場合、イエスがその日に生まれたわけではなく、キリスト教がローマの国教となり、冬至の祭りと結びついてイエスの誕生を記念する祝いをクリスマスの日にするようになったと説明されるが、この説明がもつ気軽さはイースターにはないように思われる。

もちろん、イースターはユダヤ教の過越祭と直接結びついており、その背景として過越祭の話をすることにはさほどの問題はない。
 



◎大きな違いはクリスマスが喜ばしさ一色の行事であるのに対して、イースターが「キリストの復活」を祝うと同時に、その「死」も祝うという点にあるだろう。

十字架が単なるアクセサリーのひとつとして見られる日本文化の中でも、それが死と結びついていることは理解されている。
 


◎大学などでひとつの宗教としてのキリスト教を教えるとき、「復活」が十分に理解されていないことに気づく。

説明すれば理解してもらえるが、ミッション系の出身である程度キリスト教の知識がある人からも「ちゃんと説明されたことがなかった」と言われることが意外に多い。



 

◎宗教を問わず信仰一般に対する忌避の感覚がある中、「復活」のような特殊な事柄を説明する機会は滅多にない。

宣教という文脈を離れて、「復活」を一般に理解できるような形で説明する機会は大切にすべきだろう。

それを避けるのは単に「復活」が「死」と結びついているからだろうか。

今号の論考はどれもこの問題を改めて問い直しているように思われる。

宗教の意義が大いに問われている昨今の状況の中、信仰心について考える材料が提供できていれば幸いである。


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特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税



2015年5月17日日曜日

五人の女



ジョン・ウィトヴリート
「擦り切れた賛美の歌は主に歌わず」
(83号特集「アドベントと典礼」)




 

アドベントの具体的な敬虔において補足的な活動を行うことは、聖書日課で割り当てられる聖書個所にこだわらずに活動できる共同体には可能である。

イエスの誕生についての新約聖書の物語はアドベントやクリスマスの礼拝に繋がることはほぼないような内容で始まる。

マタイ福音書はほんの十七節を用いて、イエスの家系を辿り、イエスが「アブラハムの子、ダビデの子、メシア(キリスト)」(1節)であることをはっきりと確認する。

この章はイエスのメシアとしての正当性を確立するために、永遠の昔から続く神の計画における意図を伝えている。

しかし、系図の詳細はなお一層深い謎を示している。

イスラエルのメシアがアブラハム、イサク、ヤコブの末裔であるだけではなく、タマル、ラハブ、ルツの末裔でもあると紹介されていることを誰が想像できたであろうか。

真に神は神秘的な仕方で働かれているのだ。神は普通の人と特別な人、罪人と聖人、勝利と悲劇を通して働かれる。

このことはメアリ・ネルソン・キーサンの物語性のある賛美歌「マタイ福音書には五人いる」にも表されている。
 



マタイ福音書には五人いる、
名前で呼ばれる信仰の母が。
皆、イエス・キリストの先祖であり、
それぞれ蔑みに耐えてきた。
そんな女たちの存在を、今誰が考えるだろう、
すべては神が望まれたことだったのだと。
彼女らが選ばれたことは何と不思議なことか、
それによって、神のご計画が成し遂げられるとは。
 


(くりかえし)
神が彼女たちの用い方を見つけられたから、
彼女たちの忠誠心は燃え上がった。
そして、確かに、神は私たちをもまた用いてくださる、
 光をかかげる者として。
 


哀れなタマルは望まれない妻。
たびたびやもめとなり、
もう人を頼るまいと決めた。
不誠実で気まぐれな男など。
それほどまでに狡猾な女。
不満をもらすより行動し、
ことを自らの手中におさめ、
喪失を利得に変えた。
 


公平なるラハブはエリコに住み、
夜に働く女。
ヨシュアが斥候を送った時、
それをかくまった。
彼女は王に言った。彼らは立ち去ったと。
別の道を行ったと。
彼女は信じていた、神の民が、
エリコにとどまるということを。
 


やもめのルツはモアブの人。
故郷を後にした。
ベツレヘムに移り住み、
優しい農夫と結婚した。
ボアズとの間に生まれたその息子は、
ナオミの心を賛美で満たし、
このモアブの異邦人こそが、
ひとりの王の祖母となった。
 


ウリヤの妻は美しい女。
その名はバトシェバ。
ダビデ王は彼女を自分のものとして求め、
彼女を愛した、彼の恥ずべきこととして。
この御心にはかなわぬ交わりにより、
ひとりの幼子が生まれた。
それがもたらす縁の糸は、
約束の嬰児に至る。
 


若きマリアはナザレに住み、
そこで結婚した、
ヨセフという村の大工と。
しかし、そこへ天使が告げた。
「愛しいマリア、今あなたは身ごもっている」。
マリアは微笑んだ、「そうなりますように」。
「私たちの神は、私に大いなることを行われた」。
そして、ヨセフは言った、「分かりました」と。
 


マタイ福音書には五人いる、
名前で呼ばれる信仰の母が。
皆、イエス・キリストの先祖であり、
それぞれ多くの蔑みに耐えてきた。
神が彼女たちの用い方を見つけられたのであれば、
人としての苦境にあったけれども、
だから希望することができる、私たちもまた、
神の目に価値のある者なのだと。



 

クリスマスまでの数週間に、このよく忘れられてしまう五人の女性たちの物語は神の摂理がキリストの最初の降臨をもたらしたことを驚くべき方法で思い起こさせてくれる。

アドベントの二つの焦点という脈絡において、これらの物語は来たるべき神の国の完成をもたらすために神が選ばれた不思議な方法を知るべきだと問いかけてくるのである。

 



特 集

アドベントと典礼

第83号 2013年11月
定価2000円+税



2015年5月9日土曜日

隣人を愛せ


バーバラ・リード
「どちらの神がわたしたちとともにいるのか」
(89号「ともにある神 マタイ福音書」)



マタイ福音書の「山上の説教」は「汝の隣人を愛せ」という五章43—48節でクライマックスを迎える。

イエスはそこで、攻撃してくる敵や反対者、共同体の仲間に対して、なぜこうした対応をすべきなのか、その動機づけを行っている。

イエスに従う者たちは神の子なのだから、神が悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせていることに倣わなくてはならない。

イエスはさらに説明する。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。

徴税人でも、同じことをしているではないか。

自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。

異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(五46—47)。


正しくない者にも分け隔てなく愛や慈悲を与えたとき、憎しみの中に疎外された者を悔恨や和解の道へと導くことによって正しい関係が生まれる可能性があるということがここでは示されている。

そして、イエスは

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」

と言って、話を締め括る(五48)。

ここのギリシャ語「テレイオス」は「完全な」と訳さざるを得ないが、不適当である。

この語には達成し難い「倫理的な完全さ」という含みはそれほどなく、むしろ、完全性、成熟、完全な発達という意味が強い。

「あなたがたが示すことができる善良さに限りはない。天の父の善良さに限りがないように」

という『改訂英訳聖書』(REB)の訳はこのニュアンスをうまく捉えているだろう。





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特 集

ともにある神

マタイ福音書

第89号 2015年6月
定価2000円+税








 

2015年4月5日日曜日

聖書考古学 日本発掘調査団 2015年度発掘計画発表会


聖書考古学に関心をおもちの方の中には実際にイスラエルでの発掘に参加してみたいとお考えの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

日本のイスラエルでの発掘調査は五〇年の歴史があり、現在は下ガリラヤのタボル山の近くにある「テル・レヘシュ」という比較的大きな遺跡を発掘しています。

この夏も実施に向かって計画が始動しました。

昨年の発掘報告会も兼ねた2015年夏の「発掘計画発表会」が下記の通り開催されます。発掘参加をご希望の方は是非ご参加ください。発掘への参加方法の説明がされる予定です。

発表会への参加には事前予約のようなものは必要ありません。


日時
2015年4月18日15時30分~17時
場所
立教大学池袋キャンパス本館1203教室

アクセスマップはこちら   キャンパスマップはこちら



調査隊公式サイト

2013年調査のブログ



2015年3月29日日曜日

キリスト信仰は肉体に宿る


ロナルド・P・バイアース
書評・トマス・ロング著『死者を歌で送り出す』
(88号「イースターの祈り」)


トーマス・ロングは本書『死者を歌で送り出す』として結実する調査を始めたとき、葬儀とは主として遺族のための牧会的ケアであるという一般的な憶測を問い直すことはしなかった。

たしかに、その考えは疑う余地のないもののように見えるほど伝統的である。

しかし、「かつて共有されていたこの見方は、深刻に損なわれている」と彼は考えるようになった。

「たしかに、葬儀は慰めをもたらす。

……しかし、福音書の物語を再び語り、その意味を取り戻し、故人の洗礼によるアイデンティティを再確認し、神を崇めるというもっと大きな業の一部であればこそ、その慰めは与えられるのだ」(xiv頁)。

葬儀は蔓延するグノーシス思想から多大な影響を非常に長い間受けてきた。

グノーシス思想における人間は、霊魂と肉体に分離可能な要素で構成された存在である。非物質的な霊魂は善であり、肉体は取り残される

(ロングは『思い出から希望へと繫がる説教』という別の著作でグノーシス思想の影響に関する批判をさらに展開している。

Preaching from Memory to Hope, Westminster John Knox, Louisville, 2009)。



しかし、キリスト信仰とは肉体に宿るものであり、肉体なしの不死ではなく、「体の復活」−− 聖書によれば、変容した肉体−−を信じるものである(ヨハ二〇、ルカ二四、Ⅰコリ一五参照)。

ある意味、人間の体そのものがサクラメントの対象であるとも言える。

なぜなら、他者について知っていることのすべては身体的に伝えられるからである。

教会が人間の死に際して取る働きとは、肉体を視界から消し去ってしまうことではなく、墓や地下墓室まで行進しながら故人を「歌とともに」送ることである。

それはつまり、一般的な意味での死を否定することではなく、「死」という力に挑むことなのだ。

「墓の前でさえ『ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ(神を讃美せよ)』と歌声を上げる」と唱えられているように。





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特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税



2015年3月23日月曜日

88号「イースターの祈り」 まえがき


発 売 中



特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税






まえがき


イースターを特集する今号は先の「アドベントと典礼」(83号、二〇一三年刊)に続いて、教会暦に沿った説教を探求するシリーズの第二弾である。

来年には「レント」の特集が予定されており、このシリーズは「ペンテコステと三位一体の主日」「通常の時期の礼拝」と続いていく〔英語原書では既刊〕。
 



クラウディオ・カーヴァルヘスとポール・ガルブレイスの論考では、イースターの聖書と教会暦における発展の経過が探求され、イースター周辺の神学上のテーマがアメリカ合衆国、メキシコ、グアテマラにおける会衆の生活の中に表現される多様な形と結びつけられている。

そうした「想像図」がイースターの中心にある確信を具体化していく。

「創造が繰り返され、わたしたちの過去がやり直され、わたしたちの現在が固くつかまれ、わたしたちの未来が約束を手にする」のである。
 




空の墓を訪れた女性たちの沈黙に注目するとき、マルコによる福音書一六章1─8節はイースターの歓喜を宣言するものとしては奇妙なものに見えるかもしれない。

しかし、クリスティーン・ジョインズはこのテクストが古代の教会にも現代の教会にも重大な役割をもつことを論証している。

共同体を招き入れるには、マルコ福音書のテクストを読むことだけでなく、イースター劇(『墓所の訪問』)や、音楽(バッハのカンタータ第31番)、芸術上の描写(パリのサンドニ大聖堂の聖遺物箱の覆い)を例に、復活の出来事に参加し、それを聞き、目で見るという方法もあることが示される。

ジョインズはイエスに油を塗るために墓へ来た女性から聞こえる「沈黙の音」が「たくさんのノイズを生じさせてきた」ことに注目している。
 




トーマス・トロウガーはイースターが「説教や祈りよりも音楽で」多くを伝えられる聖なる日のひとつであることを思い出させてくれる。

イースターの聖歌「主キリストは今日復活する」の中で用いられる現在形の動詞は「讃美歌が歌われているまさにそのときに(キリストは)復活するのであり、そのとき、その場所で悲しみと絶望の世界は繰り返し打ち砕かれる」ことを明言している。

そのような讃美歌の歌詞とメロディは「信仰が考古学の方向へ向きがち」という苦悩から教会を救い出してくれる。



 


ウルリヒ・ルツによれば、新約聖書におけるイエスの復活は「中立的な証人が立てられるような空間と時間の中で起きた目に見える出来事としては描かれていない」。

しかし、芸術家たちは復活を表現するために紀元一〇〇〇年までには「無敵の十字架」、鷲、不死鳥などのシンボルを用い始めた。

中世には典礼的な作品の中に、より象徴的な表現が現れ始め、それが徐々に広く絵画の世界に見られるようになっていった(グリューネヴァルト、エルグレコ、レンブラントなど)。

現代の宗教芸術は復活をより抽象的、非具象的な表現に逆行させている。

ルツは芸術作品が礼拝において効果的に使われ、イースターのメッセージを忠実な信徒たちが見て、そして触れるような「表現」はどうすれば可能なのかを詳細に描こうとしている。
 




多くの牧師は「イースターは説教者には大変タフな一日である」というデイヴィッド・バトリックの言葉に共感するのではないだろうか。

復活を語るテクストには歴史的な根拠があるのだろうか。

パウロは霊の体という言葉で何を意味しようとしているのか(Ⅰコリ一五44)。

説教をする者はそうした疑問と対峙して、「説教の神学者」にならなければならない。

「半分しかまとまっていない」理解が会衆の意識の中に根づくことを願いながら、古代のテクストは教会の神学議論によって尖鋭化した現代における意味へと翻訳されていく。

バトリックが言うように「説教者に要求されている職務とはこうしたものなのである」。

サミュエル・E・バランタイン


2015年3月19日木曜日

88号「イースターの祈り」 目次


発 売 中


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特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税









クラウディオ・カーヴァルヘス/ポール・ガルブレイス (古本みさ・訳)
Cláudio Carvalhaes and Paul Galbreath
イースターにおける教会の姿

    教会暦において五〇日間と定められている復活節は、主要な神学的主題が復活祭という教会の中心的な祝祭の一部分となっていく長いプロセスの中で発展してきた。イースターの祝いの中にそうした主題が具体化されていることに注目すると、多様な信仰共同体において刷新が行えるようになるだろう。


クリスティーン・E・ジョインズ (吉谷かおる・訳)Christine E. Joynes  
沈黙の音──マルコ福音書一六章1-8節の解釈史──
    墓にいた「若者」の言葉に女性たちが沈黙で応じるのはマルコ福音書だけに見られる特徴である。マタイ福音書とルカ福音書にそれがないということは、両福音書がこの要素には問題があると見ていたということであろう。しかし、マルコ福音書のテクストは、古代教会においてもその後においてもイースターの典礼の中で重要な役割を果たしてきた。その物語の受容史には調和と不一致の両方が示されている。 
     

トーマス・H・トロウガー (齋藤百合子・訳)Thomas H. Troeger
復活の響き ──音楽が言葉をまとうとき──
    フィリピの信徒への手紙はレトリックを用いて苦しみと喜びを再構成している。苦しみと喜びは織り合わされることにより、主題となるだけではなく、手紙全体の背景をなすつづれ織りとなるのである。

ウルリヒ・ルツ (榊原芙美子・訳)Ulrich Luz
芸術表現におけるイエスの復活
    新約聖書ではイエスの復活は目に見える現象としては描かれておらず、そのためにおよそ一〇〇〇年もの間、復活は視覚芸術として表現されることはなかった。復活の出来事が直接的に描かれるようになるのは紀元一〇〇〇年以降のことである。その表現様式は具体的であり、復活の出来事は一定の問題をはらんだ形で具体化され、また歴史化されてきた。 
     
デイヴィッド・G・バトリック (石田雅嗣・訳)David G. Buttrick
イースターの説教
    説教をする者はイースターの時期に「復活物語は事実か伝説か」、「パウロの”霊的な体”とは何のことなのか」という二つの未解決の問題に直面することになる。パウロはそこに福音書とは異なるものをもち込もうとしているのか。説教において求められるイースターのメッセージとは何なのか。



テクストと説教の間
詩編31編2―6, 16―17節(W・デニス・タッカーJr/標珠実・訳)
マタイによる福音書28章1―10節(E・カーソン・ブリッソン/齋藤百合子・訳)
ペトロの手紙一 4章1―8節(ポール・J・アクティマイアー/齋藤百合子・訳)


 書評紹介(榊原芙美子、吉谷かおる・訳)
トーマス・G・ロング著『死者を歌で送り出す──キリスト教の葬儀──』
チャールズ・B・カウザー著『注解フィリピの信徒への手紙・フィレモンへの手紙』
ヘルマン・J・セルダーホイス著『ジャン・カルヴァン──巡礼者の生涯──』



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