2014年6月29日日曜日

逆境の悲しみの中で




ルアン・スノー・フレシャー 
 「詩編一二六編」 
84号「他者へのまなざし」より


「九・一一」の後、アメリカ人は敵の攻撃という危機、土地の荒廃、愛する者の喪失を経験した。

その直後には悲しみと怒りが多く表現された。まさにそういうときであったのだ。

しかし、詩編一二六編は苦しみと怒りを越えたところに希望があることを示す実例にも、それを伝える手段にもなり得る。

わたしたちは信仰の民として、ひとつの国民として、エスカレートする一方の暴力を正当化する終わりのない怒りの下降螺旋に巻き込まるわけにはいかない。

賛美と嘆きが古代イスラエルの共同体を支えていたように、怒りと希望は手を携えて新しい日をもたらしてくれるはずなのである。



古代イスラエルの人々は典礼を通して人生の盛衰への心構えができていた。その詩編の構成は賛美の歌が五五パーセント、嘆きの歌が四五パーセントで、ほぼ半々になっている。

その結果、逆境に襲われたとき、詩編は悲しみと哀悼によって民を導く典礼上の道具となった。

また、そうすることで神が回復をもたらしてくれるはずという信仰に満ちた希望を表現しながら、怒りに向き合った。

いくつもの最悪の危機にもかかわらず信仰の民ユダヤ民族を保たせたのはこの平衡感覚なのである。

けれども、この平衡感覚は現代のキリスト教の教会では強調されてこなかった。

教会は繁栄の原則への同意をますます強め、信徒個人には人生においてはよいことだけを待ち望むよう教え、悪いことが起こるのは信仰が足らないからだと非難してきた。

このような教義では人生は肯定的なことと否定的なことの両方でできており、信仰と信仰の深さはどのように状況に応答したかによって示されるという考えが信頼を得ることはない。

詩編一二六編は涙を流した日々もついには過ぎ去り、喜びに叫ぶ日が来るということを認める信仰共同体の姿を示しているのである。






特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税






2014年6月23日月曜日

エレミヤの告白




キャスリン・オコナー「再び生きていくための嘆き」
82号「エレミヤの肖像」より


エレミヤの告白は一見すると、預言者という職業にまつわるエレミヤの苦悶を表現したもののように思われるだろう。

彼の悲痛な人生を描写するかのような祈りがエレミヤ書全体に見られる。

エレミヤの祈りは彼が預言者であるがゆえに被る苦難を中心に構成されているため、その関心は彼自身だけに向けられたものであるかのように見えるのである。

エレミヤの「告白」は、神からの召命によって生じる数々の困難と、そのせいで被る不当な苦しみについて神に不満を述べている。

エレミヤの考えでは、自分は預言の言葉に身体と霊をしっかりと結びつけているのだから苦しめられるべきではないのであり、そのような視点は「告白」の中にはっきりと示されている。

迫害を引き起こしたと考えられるような事柄のすべてについて、彼は無実なのだ。


私はあなたの言葉を貪ったのです。

あなたの言葉は私にとって喜びとなり、私の心を歓喜させたのです。

なぜなら私はあなたの名で呼ばれているからです、万軍の主よ。  (一五16)



エレミヤは神の言葉を自らのうちに取り込み、血肉とした。彼は「神の目的の代弁者」であり、「聖なる言葉の模範的な具現者」なのである。

彼個人のアイデンティティを神の言葉と切り離すことは不可能であった。

それは彼と敵対する者にも知られており、だから彼らはエレミヤを嘲るときに「主のみ言葉はどこへ行った、見せてみよ」と言うのである(一七15)。

また、神が忘れてしまっている場合に備え、エレミヤは民のための仲裁を行う中で、自身の忠実な預言者としての振る舞いを神に思い起こさせようとしている―

「思い出してください。あなたの怒りを彼らから取り除こうと、私が彼らを弁護したことを」(一八20)。

そして、彼がこの骨の折れる仕事から手を引きたいと思うときには、彼の内なる力、つまり霊的な激しい衝動、心のうちに燃えさかる炎が神のために語り続けることを彼に強いるのである。


私が「もう神のことは思い出すまい。

もはや主の名によって語るまい」と思うときは決まって、

私の心を燃やし尽くし、骨の中でなお燃えさかる炎が現れる。

私は疲れ果て、それを私の中に留めておくことなどできません。  (二〇9)




エレミヤは預言者としての召命から逃れようと懸命に試みるが、それは叶わず、苦しみあえぐ。

敵対する者たちは彼を嘲り、攻撃し、陰謀を企てる。

「まるで屠り場へと引かれていく小羊のごとく」(一一19)エレミヤを迫害するのである。

彼らが望んだのはエレミヤの死であり、最初から存在しなかったかのように、彼をこの世から抹殺し、記憶から消し去ることであった。


木を実をつけたまま切り倒してしまおう。

そして生者の世界から彼を切り離そう。

彼の名が二度と思い起こされることのないように。  (一一19)



エレミヤは預言者であるがゆえに、このような攻撃の標的となった。

また、彼に加えられた痛みは不当なものであった。正しい者が痛みや喪失に苦しめられ、邪な者が栄えるという状況にエレミヤは激しい怒りを燃やす。

自身も属す民からエレミヤが迫害されるというこの構図は、彼を拒絶したためにユダに民族的な危機が訪れたということを暗示している。

こうした告発は話が進むにつれ、神を擁護することによって災害の被害者の支えとなっていく。




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特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年9月
定価2000円+税








2014年6月18日水曜日

アウグスティヌスにおける愛





R・R・レノ「驕りと偶像崇拝」
(81号「ほかに神があってはならない」)より


人の個性とはその人の行為の総計ではない。

個性とは多くの個々の行動の軌跡である。

たとえば、ダイエットしている人も食べなくてはならず、食べるその瞬間にはカロリー摂取を増やそうとしている。

しかし、食物に対するその人の総体的な態度は厳密にはカロリーを減らすことにある。

カロリーを摂取することとカロリーを減らすことの両方を意図しているのは矛盾しているように思われるが、そうではない。

ダイエットは全体としての計画であり、食べるという個別の行為はその計画の一部なのである。

戦術的な退却は勝利を目指す戦略と矛盾しない。

人生の他の側面にも同じことがいえる。

アウグスティヌスによれば、人生における全体的な戦略は愛の構造の中に見出される。愛とは欲求に形を与えたものである。

ケーキを食べようとかソファーで昼寝をしようとか、そういう欲求は常に存在する。

しかし、ダイエットを計画し、実行することはそうした欲求の優先度を健康と適度な運動の遙か下に落とす。

甘いものを食べる楽しみよりも健康、昼寝の楽しみよりも運動を好むべきとするのは優先順位の問題であり、アウグスティヌスが愛という言葉によって言おうとしたのはまさにこのことなのである。



アウグスティヌスにおける愛の概念を説明するために、ここでは個性という近代の概念を用いたが、このアプローチは危険を孕んでいる。

個性というものは定まったものと考えられる傾向にあり、流動的と考えられるとしても、個別の人間を構成する確たる中核があった上での流動性と見られる。

これほどアウグスティヌスの見方との違いが鮮明になるものはない。

アウグスティヌスは聖書の物語における終末論的な傾向を念頭に人間を常に動いているものと見ている。

われわれは自身の愛によって定義される動的な被造物であり、愛するものの方へと動いていく。

アウグスティヌスにおいては、われわれは非常に単純に自身の愛という錘あるいは推進力でしかない。

われわれが到達しようとする目的地、われわれが暮らしたいと思う未来、われわれが立てる計画−−こうしたものはすべて、外へ向けた魂の動き、今は存在しておらず、所有されていない何かに向けた動きである。

こうした動きが個人のアイデンティティを構成している。








特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

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2014年6月13日金曜日

「ナザレ人」の意味




メアリー・L・コロエ
ヨハネ福音書における神殿のイメージ


イエスがナザレ人と呼ばれるとき、イエスがその小さな村の出身であるということだけでなく、それがイザヤの託宣に由来する「若枝」に基づいたメシアの称号である可能性もある。

その可能性はクムラン文書からの証拠を考慮することによって高くなる。

クムランの巻物はイザヤ書におけるダビデの若枝を同じく枝を意味する「ツェマフ」という語に結びつけている。

この語はゼカリヤ書で用いられており、そこでは「若枝」という名の人物が未来の神殿を建て直すと言われている。

 


銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、宣言しなさい。

万軍の主はこう言われる。

見よ、これが『若枝』という名の人である。

その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。

彼こそ主の神殿を建て直し、威光をまとい、王座に座して治める。

(ゼカ六11─13)
 



クムラン共同体は未来のダビデの子に期待をかけ、彼に「若枝」という語を当てたが、イザヤの「ネツェル」ではなく、ゼカリヤの「ツェマフ」を使った。
 



ヤハウェは、あなたがたのために家を建てると宣言される。

わたしはあなたがたの種を育て、永遠なる彼の王国の座を造り上げる。

わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

これはダビデの若枝のことである (死海文書4Qflor col. 1, 11)。
 



 さらに特筆すべきはイザヤ書11章1─5節についての解釈である。

本文の引用ではヘブライ語聖書の本文に従って、「ネツェル」(若枝)が用いられているが、注解においてはその「ネツェル」にゼカリヤ書六章12節の「ツェマフ」が用いられ、「ダビデの若枝」と解釈されている。

これらのテクストはクムラン文書の時代までに、「ツェマフ」と「ネツェル」が同義語とされ、主の神殿を建てることになるゼカリヤ書六章の「若枝」と呼ばれる人物がダビデに連なるメシアの新芽と認識されていたことを示す。
 



クムランの巻物はヨハネ文書以前の第二神殿時代のユダヤ教に、メシアによる神殿再建の役割という考えが確かにあったことを示している。

それは一世紀までに「ナザレ人」という語が終末において神殿を建て直すダビデに連なるメシアに関連づけられていたとするここでの仮説を裏づけている。

第四福音書における「ナザレ人」という語の使用は、この仮説にさらなる支持を与えている。
 



イエスが「ナザレ人」と呼ばれるのは彼の「時」が来たあとにおいてのみである。

兵士たちはゲツセマネに来て「ナザレのイエス」を捜す(一八5)。

それは強調のために繰り返される(一八7)。

ピラトはゼカリヤ書の言葉を思い出させるように、「その名は若枝である」という言葉を隠したまま、イエスを群集に「見よ、この男だ」と紹介する(一九5)。

しかし、この決定的な言葉はピラトが付した称号、「ナザレ人(「若枝」)、ユダヤ人の王」(一九19)を暗に示している。

第四福音書において「ナザレ」という語は土地に由来する言葉ではなく、イエスの逮捕と死刑に繫がる称号なのである。

それは復活前の物語におけるイエスの正式な罪状書きであり、最後の称号であった。






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特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月
定価2000円+税





2014年6月8日日曜日

85号「ヨハネ福音書と教会」まえがき





特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月(14年6月2日発売予定)
定価2000円+税





 

まえがき

 

ヨハネによる福音書の研究ではこの五〇年の間、同福音書のメッセージの中で教会が果たす役割についての探求が盛んに行われてきた。

本号では「教会の福音書としてのヨハネ福音書」を共通テーマに、ヨハネ福音書の様々な側面を論じる四つの論考が展開される。
 



アラン・カルペッパーは一九五〇年代以降、ヨハネ福音書における教会の位置は神学、歴史、文学の視点からどのように定義されてきたかを調査する。

特に告別説教に注目しつつ、ヨハネ福音書における「教会の見取り図はヨハネの教会の実際を反映したものでは必ずしもなく、教会のあるべき理想」を形づくっていると論じられる。

そして、ヨハネ福音書における神と教会の深い関係の強調から、共同体における信徒相互の親交、世界との関係がキリスト論的、倫理的、宣教学的基礎であることが確認されていく。

「その見取り図は今なおわれわれに問いを発している」のである。
 


フランシス・マローニーは「聖書」という語のヨハネ福音書に特徴的な用法を調べ、

「イエスの死はイスラエルの神聖なる聖典における約束を実現するというだけでなく、その〝完全な終わり〟」をもたらすものであることを示している。

イエスの生涯、教え、そしてその死を「最後にして完全な〝聖書〟」(ヨハ二〇31)として読む「教会的な解釈」が上手く理解されるのは、霊の賜物によって力を与えられた「最愛の弟子の共同体」が深い「イエスへの信仰とイエスが神について知らせたすべて」を伴ったこのヨハネ福音書との出会いから生じたときだけだとマローニーは主張する。
 



メアリー・コロエはヨハネ福音書における神殿のイメージを焦点に、福音書の中で神殿の意味が信仰共同体において神の臨在を表現する建築物から、神の住まうところを体現するイエスにどのように移行していくかを論じている。

「神の臨在の神殿」としてのイエスはさらに、十字架のもとに成立する「神の新しい家族」に「世で進行中の神の臨在」としての役割を移す。
 



アディール・ラインハーツはユダヤ人の視点から、明らかにユダヤ教にどっぷりとつかっていたヨハネ福音書の記者が、長くキリスト教の反ユダヤ主義に重大な影響を与え続けた福音書をどうして生み出すことになったのかを問うている。

ラインハーツは難しいテクストの中に複数の解釈上の戦略を確認し、批評する(たとえば、ヨハ五18、八44)。

そして、「神の子であるためには悪魔の子である必要があるのか」という問いに正面から取り組む「連動的な解釈」に説得力ある論拠が与えられる。





 


ラインハーツの問いはカルペッパーによる巻頭の論考の結論部分と効果的に連携している。

「聖書解釈者に求められているのは、たえず変化する時代的な文脈においてその物語を解釈することである。

一方、教会に求められているのは聖書の物語に忠実であること、その福音を説き、共同体が今日において神の救済の目的をより十分な形で表すよう課題に向き合わせることである。

したがって、教会が聖書研究を支え、聖書研究が教会を育てるというのが最高の状態ということになる」。

S・E・バレンタイン

2014年6月3日火曜日

ヨハネ教団とは?




レイモンド・ブラウンはヨハネ共同体の歴史に以下の四つの局面を設定している。

(1)共同体が会堂から追放されたヨハネ福音書成立以前の時期(九22、一六2)。

(2)福音書が書かれ、迫害が続いていた時期のヨハネ共同体の生活状況。

(3)ヨハネ書簡が書かれた時期。共同体の一部が「出て行った」。ヨハネの手紙一を著した長老によれば「彼らはもともと仲間ではなかった」(Ⅰヨハ二19)。

(4)ヨハネ書簡が書かれた後の分裂。おそらくその共同体は二世紀のグノーシス主義的グループと合流していく分離主義者と、ヨハネ福音書とヨハネ書簡を携え、成立しつつあった東方教会の流れへと繫がっていく長老のグループに分裂した。



R・アラン・カルペッパー
ヨハネ福音書における「教会」を求めて
 (インタープリテイション85号「ヨハネ福音書と教会」




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特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月
定価2000円+税







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