ともにある神 −マタイ福音書−
第89号 2015年6月
定価2000円+税
まえがき
「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ一23)。
マタイによる福音書はこのようにして始まる。
しかし、「神は我々と共におられる」という言葉はマタイ福音書を読む者にとって、どういう意味をもっているのだろうか。本号ではこの問いを五人の新約学者が探求している。
「マタイは神について何か特別なことを言っているのだろうか」——この問いに「言っている」と答えるのは正しいことだが、それでは単純すぎるとヴィヴィアーノは言う。
マタイの神は婉曲表現と神的受動態に隠されて、「決して遠くにいるわけではないが、直接見ることも摑むこともできない」。
マタイのインマヌエルを受け入れるには、マタイの価値観と霊的な方向性を受け入れる準備が必要である。
ユージン・ボーリングによれば、マタイのキリスト論は「イエスとは誰なのか」ではなく「神とは誰なのか」を問うものである。
その答えは〈マタイ福音書についての物語〉〈マタイ福音書の物語〉〈マタイ福音書における物語〉という三つの絡み合った物語の中に表現されており、そのそれぞれが「わたしたちとともにある神であるイエスの人格」と分かち難く繫がっている。
この三つの物語は「現代において解釈する者自身が埋め込まれている物語の文脈において、より適切に評価される」。
スコット・スペンサーはイエスがファリサイ人に向ける「聖書を読んだことがないのか」という問いかけをきっかけに、インマヌエルの意味を探求している。イエスの解釈は聖書の命令を和らげる「リベラルな」イエス(たとえば、マタ一二1−8)と聖書の教えにひき止める「保守的な」イエス(たとえば、マタ一九1−9)の両方に読む者を出会わせており、「心を挫けさせたり、気持ちをイライラさせたりする」ものではない。
この緊張関係を切り抜けるためのマタイによる忠告(マタ一八20)が「神の民の共同体の中で聖書と開かれた心をもって、神の言葉を通してわたしたちを神の真理の完成へと導く生けるインマヌエルと新たに出会うべきなのである」というスペンサーの結論の根拠となる。
バーバラ・リードはマタイの譬え話の研究で「どちらの神がともにいるのか。
山上の説教の恵み深く、寛大な神か、報復的で懲罰的な譬え話の神か」という辛辣な問いを提示している。
これは読む者に深刻な倫理的ジレンマを生じさせる。
「邪悪な者を罰することで神が正義を確立しようとしているとしたら、わたしたちも同様にすべきなのだろうか」。
リードはこの二つのイメージの間にある緊張を解決する策を探求し、ジレンマを減らすことなく、「神の愛の力はあらゆる悪行や死の力さえも克服し、そのイメージを他者に伝えようとするすべての信者を力づける」として、マタイ福音書の最後のイメージを強調している(マタ二八20)。
マタイにおける「インマヌエル」は一世紀パレスティナの無力で評価の低かった女性たちにはどのような意味で「よき知らせ」だったのだろうか。
ドロシー・J・ウィーヴァーはこれに応えて、マタイ福音書の物語の中に父権制的な世界を表現する「下位レベル」の視点とレトリックによって話を転覆させる「上位レベル」の視点を見出し、それに注目している。
イエスの誕生物語(マタ一1−二23)、宣教(マタ三1−25、46、二七55−56)、復活(マタ二六1−二八20)において、この「上位レベル」の視点は予期せぬ驚くべき存在感を女性に与えている。
それは「始まりと同様、驚きをもって終わる」福音書の根本なのである。
そして、「その驚きをつくり出しているのは女性」であり、「読む者はそれを理解しておかなければならない」。
サミュエル・E・バランタイン
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