6月中旬 発売開始
ともにある神
―マタイ福音書―
第89号 2015年6月
定価2000円+税
ベネディクト・T・ヴィヴィアーノ (吉谷かおる・訳)Benedict T. Viviano
マタイ福音書における神
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聖書に啓示される神はマタイによる福音書の至るところに存在するが、しばしばインマヌエル、すなわち、「わたしたちとともにいます神」であるイエスの後ろに下がって表に出ていない。神の存在は敬意を表す婉曲表現である「天」の後ろに隠され、「神的受動態」に覆われている。神の至高の名称は「父」である。マタイ福音書はたいてい日常生活の地平について語っているが、そこでは至るところで待ち受けている超越者そのものが地平なのである。
M・ユージン・ボーリング (石田雅嗣・訳)M. Eugene Boring
マタイ福音書の物語キリスト論──三つの物語──
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マタイ福音書のキリスト論は神を中心としている。そこでは神の支配がこの世の支配者の統治と権力に代わるものとして、イエスの生涯において明らかに示されている。このキリスト論は物語の形で表現されており、現代においては解釈する者自身が埋め込まれている物語の文脈において、より適切に評価される。
F・スコット・スペンサー (吉岡誠悦・訳)Thomas H. Troeger
マタイ福音書のイエスと聖書解釈
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マタイ福音書のイエスは典拠となる個々の聖句に対する不完全な焦点化を避けるため、聖書正典を縦断して創造的で刺激的な形で聖書によって聖書を解釈している。イエスによる解釈の方法と目的は偏狭な概念図の意味を失わせる。何よりも、マタイにおけるイエスは聖書の権威ある釈義者として、それを教える者として現れている。
バーバラ・E・リード (齋藤百合子・訳)Barbara E. Reid
どちらの神がわたしたちとともにいるのか
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マタイによる福音書には非常に異なる二つの神のイメージが表されており、その間に緊張関係が生じている。「山上の説教」における神は限りなく慈悲深く、寛容だが、八編の譬え話における神は報復と懲罰の神である。これは倫理的なジレンマを生じさせる。どちらがわたしたちとともにいる神なのか、わたしたちはどちらに倣うべきなのか。
マタイ福音書における女性と神
──「この福音が宣べ伝えられるところではどこでも」──
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マタイ福音書の物語を注意深く検討すると、一世紀パレスチナという父権制世界に暮らす、無力で低く評価された人たちの印象的な姿が現れてくる。マタイは女性たちの物語に神をもち込むことで、究極的には神の民の生活と信仰に対する並外れた思いがけない意義を女性たちに与えたのである。
テクストと説教の間
マタイによる福音書3章13─17節 (アンドルー・F・コナーズ/標珠実・訳)
マタイによる福音書11章2─24節 (チャールズ・H・タルバート/齋藤百合子・訳)
マタイによる福音書26章 (デイヴィッド・レンウィック/吉岡誠悦・訳)
書評紹介(榊原芙美子、吉谷かおる・訳)
マイケル・J・ゴアマン著『十字架の形をした神の下に』
N・T・ライト著『義認―神の計画とパウロのヴィジョン―』
ダグラス・A・キャンベル著『神の解放―パウロの義認を黙示的に読み直す― 』
ジョン・P・マイヤー著『律法と愛』(「周辺のユダヤ人―史的イエス再考―」第四巻)
デイヴィッド・H・ケルシー著『脱中心的存在―神学的人間学―』
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