バーバラ・リード
「どちらの神がわたしたちとともにいるのか」
(89号特集「ともにある神 マタイ福音書」)
それぞれの譬え話で描写されているのは、神から繰り返し無条件に与えられる慈悲と寛容さに応えるにも時間には限りがあるということである。
「山上の説教」における神のイメージは、弟子が今ここで倣うべきものである。神の愛はどこまでも成長する。
その絶えることのない慈悲や愛を経験するとき、それを他の人に与える能力も向上する。
神の恩恵が効力を発揮することを許さず、暴力と迫害の連鎖を存続させれば、それ相応の結論が導かれ、それがいつまでも続くことになる。
マタイは終末の譬え話で、やがて時が満ちれば、神の慈悲深さに倣って自らの道を定める機会は過ぎ去り、審判の時が訪れると主張しているのである。
完全に慈悲深い神に倣って成長していれば、終末とは恐れるべきものではなく、むしろ永遠の正しい関係のあり方が完成する地点となる。
このように考えれば、信者は倣うべき神についてジレンマを感じなくてすむ。
最後の審判と懲罰は神のみに属すことであり、人間がまねるべきことではない。問題は終末に行われる悪人と善人の選別を現代において作用させてしまうことがあまりに多いという点である。
福音書を読んだり,聞いたりする人のほとんどは、自分が救われる側に入るという確信をそこに見出し、自分が悪人と思う人のことは非難されるべきと見る。
現時点で善悪に厳密な境界を設けても、それぞれの人、それぞれの共同体の中にある善悪の混じり合った状態に対峙することはできない。
悪しきものを許容する力を認めないことが、他の人を必要ならば暴力に訴えてでも根絶すべき敵や悪の権化と見なすことができるようになる確実な一歩である。
権力をもつ人は神が悪人をいかに厳しく罰するかを読んで、悪人を特定し、罰を与え、あるいは処刑するという自らの力を誤って破棄してしまうかもしれない。
ともにある神
マタイ福音書
第89号 2015年6月
定価2000円+税
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