バーバラ・リード
「どちらの神がわたしたちとともにいるのか」
(89号「ともにある神 マタイ福音書」)
マタイ福音書の「山上の説教」は「汝の隣人を愛せ」という五章43—48節でクライマックスを迎える。
イエスはそこで、攻撃してくる敵や反対者、共同体の仲間に対して、なぜこうした対応をすべきなのか、その動機づけを行っている。
イエスに従う者たちは神の子なのだから、神が悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせていることに倣わなくてはならない。
イエスはさらに説明する。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。
徴税人でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。
異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(五46—47)。
正しくない者にも分け隔てなく愛や慈悲を与えたとき、憎しみの中に疎外された者を悔恨や和解の道へと導くことによって正しい関係が生まれる可能性があるということがここでは示されている。
そして、イエスは
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
と言って、話を締め括る(五48)。
ここのギリシャ語「テレイオス」は「完全な」と訳さざるを得ないが、不適当である。
この語には達成し難い「倫理的な完全さ」という含みはそれほどなく、むしろ、完全性、成熟、完全な発達という意味が強い。
「あなたがたが示すことができる善良さに限りはない。天の父の善良さに限りがないように」
という『改訂英訳聖書』(REB)の訳はこのニュアンスをうまく捉えているだろう。
ともにある神
マタイ福音書
第89号 2015年6月
定価2000円+税
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