2014年9月21日日曜日

ヤハウェ信仰の精髄と宗教多元主義



S・ディーン・マクブライド「正統の精髄」
(81号「ほかに神があってはならない」)


「主」ヤハウェに対する妥協なき忠誠は他の神への崇拝、人間の手が造り出す神のいかなる表現をも排除する。

それが古代イスラエルの宗教習慣であり、イスラエルを他のすべての民族や国と表面的に区別する政治的なアイデンティティの本質を構成する特徴であったと聖書の多くの個所が証言している。

聖書に書かれているという点では特殊なものだが、こうした証言が「正統ヤハウェ信仰」(orthodox Yahwism)とでも呼び得るものを規定している。

正統的信仰の綱領は五書の律法と前の預言者、後の預言者に説明されているけれども、そこには申命記が特に強く刻印されている。

申命記六章4-5節の信仰宣言がそれを象徴する。


聞け、イスラエルよ
われらの神、主は唯一の主
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし
あなたの神、主を愛すべし


集団としての「イスラエル」に限っていえば、真正の神--「われらの神」--に対応するのは「ヤハウェのみ」でしかあり得ない。

その結果、単一にして十分な神であるヤハウェへのイスラエルの献身は熱烈で忠実なものでなければならず、また確固としていなければならない。



しかし、宗教上の多元主義という社会的現実を倫理的価値として尊重することが求められる現代の視点からすれば、〈正統ヤハウェ信仰〉は抑圧的で、執拗に狭量なものに見えるかもしれない。

それは古代の基準からしても相当なものであった(例えば、民二三9、ヨシュ二四14-24、王上一一1-8、ミカ四5)。

さらにずっと問題が多いのは、現代史においても陰惨な例がないでもないが、それを確立し、実行するために厳格主義的な方法がとられたということである(例えば、民三三51-52、申一二2-4、13)。

熱狂的な正統信仰は政治権力と結びついたとき、残忍な結果を生む(王下一〇18-27、二三19-20参照)。

また、攻撃的な帝国主義的民族主義という古代の環境においては、守護神同士が競い合い、激しい文化的衝突がしばしば生じるので(例えば、王上一八、王下一八-一九)、排他的で偶像をもたないヤハウェ信仰の神学がもつ鋭敏さは軽視できない。

問題は単に近東における通常の政治と宗教をもっとよく理解するということではなく、はるかに荘厳な何かである。

古代イスラエルの神学者は独特の聖なる使命として共同体の生の可能性をどのように心に描いていたのか。

それは契約という枠組みの中で、ヤハウェの主権の完全性、そしてイスラエル形成期の歴史とその存続、刷新への見通しに独特な形で介入する神という自己開示性と密接に連携していた。

また、〈正統ヤハウェ信仰〉が非常に壊れやすい社会的事象であり、時として国の公的な政策によって侵害されることもあったと聖書自体が認めていることもまた重要であろう(例えば、王上一一1-8、一六31-33、王下二一1-9)。

もっとも、民衆の敬虔な心がヤハウェと「他の神々」を緩く包み込んだ礼拝の形態に惹かれていたことによって脅かされることの方が遙かに多かったかもしれない(例えば、王上一八12、王下一七29-34、エレ七9-10、ゼファ一4-6)。

イスラエルの聖なる使命を維持するために、〈正統ヤハウェ信仰〉の設計者は神学上適切な多様性と利己的な信仰上の諂いの境界を規定しようとした。

彼らにしてみれば、その境界は単に形がないというより、無意識のうちに寛容になっていたということであった。



本稿では〈正統ヤハウェ信仰〉がいつ、どのように、またどのような要因から古代イスラエルの宗教史の中に現出したのか、聖書時代のイスラエル、ユダヤの社会においてどの程度、多数派としての説得力をもち、規範的なものとして受け入れられていたのかという進行中の大きな学問上の議論は直接には扱わない。

その代わりに、十戒の最初の節に最も影響力のある形で明確に表現されている正統的信仰がもつ文脈上の意味と神学的重要性に焦点を合わせる。





特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

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