2014年9月4日木曜日

86号「対話を求めて」まえがき

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特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月(14年9月10日発売)
定価2000円+税





 

まえがき

 

本誌の読者であれば、長年にわたって続いている一連の特集の中で、「今日、○○についてはどのように言われているのか」といったテーマ設問には親しんでいるはずである。

このシリーズの眼目は専門家ではない人や学生に聖書学と神学における最新の情報をもたらすことにある。

今日、専門家は三位一体について何を言っているのか。

ヨハネ福音書の研究はどこへ向かおうとしているのか。

誰の理論が聖書の歴史的理解をリードしているのか……。
 



本号も同じような目的をもっている。探求される分野は「諸宗教の神学」〔キリスト教以外の宗教への理解を通じてキリスト教の神を理解しようとする研究〕である。

それを今日の神学における喫緊の課題と確信しているキリスト教徒が多いかどうかは問題ではない。

通信技術の新しい形態と、ここ数十年に新しい国へと移っていった何百万もの人の存在は、これまでに経験したことのないような形で異なる宗教を互いに近い位置に置くことになった。

異なる信仰をもつ人とともに生きていく術を学ばなければならない状況がますます増えてきているのである。

西洋社会ではかつてはなじみが薄かった宗教が今や会話の深いところに現れるようになってきており、公的な生活の中で宗教が占める場に関する議論はさらに複雑になっている。

異なる宗教の許容を要求する暴力という世界的規模での脅威は、身近にいる宗教的な他者との最善の関係を複雑なものにしている。

自分が属する信仰グループの外にいる人々を理解しようとする気持ちが時にそうした暴力への恐れによって完全に蝕まれてしまうこともある。
 




「諸宗教の神学」は他の宗教との平和的共存への戦略を考案することをその第一の目的としているわけではない。

どのように他の宗教共同体の信者とその伝統に敬意を払ったらよいかというのがその大きな関心事である。

キリスト教の外側に存在する他宗教の信仰、宗教的であるということの無数の意味をキリスト教神学として総合的に説明を試みる―これがよく知られた諸宗教の神学の定義のひとつであろう。

この分野では「排他主義」「包括主義」「多元主義」という標準的なパラダイムが三〇年以上にわたって広く認められてきた。

これが長く保持されてきたということは、それが有効であったということである。

しかし、今日、諸宗教の神学に携わる研究者のすべてがそれに満足しているわけではない。

では、何が重大な問題とされているのだろうか。

その議論の最前線の状況はどのようなものなのだろうか。

神学の教育課程の中ではどのような工夫が実践されているのであろうか。


テリー・マックによる最初の論考ではそうした問題を議論するための素晴らしい舞台が設定されている。


ポール・ニッターとジョン・ヒックの業績を通して形成された「パラダイム」がどのように生じてきたのかを示すことから始め、「ニッターの子ら、ヒックの娘」と言われるように、この一世代ほどの間、物事の見方がそれに広く影響されてきたことを明らかにし、その支配的な仮説にはいくつか弱点があることをマックは確認していく。

彼の将来への提案は既存のテーマを少し変形させたものなどではない。

ヒックとニッター、また彼らの以前からの支持者の多くがいつも設定してきた問いとは異なる問いがそこでは提起されている。

その問いは広義のキリスト教共同体における神学全体を見渡す思考法を刺激するものとなるであろう。
 



エイモス・ヤンとマリアンヌ・ファリーナはそれぞれ全く異なる背景と学問的な関心からマックの論考に応えている。

ヤンは学問としての神学を研究しており、ペンテコステ派の視点から諸宗教の神学について広く意見を表明している。

ファリーナはキリスト教とイスラム教がもつ倫理伝統の徹底された基礎の上に、バングラデシュで一〇年以上カトリックの修道会宣教シスターとして異文化交流をした経験をつけ加えている。

ヤンもファリーナもマックの「参与による神学形成」という考えに注目している。

ヤンはこの概念は別の文化に直接参与して観察するという文化人類学の手法と類似しているとして、その限界を詳しく調査し、その上で、このアプローチが哲学的な前提に捕らわれずに「パラダイム」の中で生活様式を知的に表現しているかどうか考えている。

ファリーナは異なる信仰をもつ人々とともにそれぞれのテクストを相互に読み合うというカトリックにおける研究に結びつけながら、マックの研究について、バングラデシュの地でキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ人、仏教徒、ヒンドゥー教徒などと交流した経験においてすでに見出されている異教間の関係のあり方の方向性を示すものと見ている。
 



デイヴィッド・バレルはイスラム教徒とキリスト教徒の接点について、より細かく、さらに挑戦的な切り口を試みている。

その出発点はカトリックの神学者ジャン・ダニエルーの第二バチカン公会議以前の知見である。

ダニエルーは聖霊の導きに従おうと望む宣教師は神の創造のあらゆるところに神の活動の証拠を探し求めると考えた。

「聖なる歴史は常に継続しており、それは聖霊によって成し遂げられる。

すべての精神的な創造は神によるものである」とダニエルーは述べているた。

ダニエルーの見方を受け入れるのであれば、キリスト教徒は西洋社会におけるイスラム教徒と関心を共有していることが分かるだろう。

特に、タリク・ラマダンを支持する西洋のイスラム教徒は自分たちの宗教的アイデンティティが活性化され、敬意を受けている文書と豊富な伝統に基づいた新しい環境の中で創り出される「証言の領域」にいると感じているという。

こうした状況における対話がキリスト教徒に与えられた真理を改めて評価し直す方法になるのではないかとバレルは提案する。



 

聖書学者マイケル・バラムによる最後の論考ではこの問題がさらに詳しく論じられている。

バラムが関心を寄せているのは今日聖書を解釈するとき、宣教的な解釈を用いる必要性である。

バラムによれば、新約聖書に宣教的に取り組むべき理由は、それが当初読まれた初期教会の時代はまさに宣教的な性格をもっていたと考えられるからである。その時代は不安定で、宗教的な変化への可能性に満ちた社会的文脈にあった。

バラムの論考は宗教多元主義、「諸宗教の神学」とは関係がないように見えるかもしれない。

しかし、バラムがキリスト教共同体に対して聖書学と宣教学の助けを借りて取り組むよう呼びかけている課題のいくつかは、実際のところ、世俗的な西洋社会の中で暮らす多くのイスラム教徒らが感じている切実な問題とよく似ている。

彼らもまた古代のテクストと伝統をポストモダンの現実と関連づけるのに苦労している。

もしそうであるなら、教会の指導者は必要とされる自己検証と新たな基礎づけに向けた大きな努力の方向性をバラムの論考の中に見出すことになるだろう。

信仰篤いキリスト教徒はその努力を惜しまず、異教間の新しい出会いに備えている。

そのような機会は今日、ほぼすべての教会において以前にもまして当然のように生じているのである。

 



スタンリー・H・スクレスレット




今号はゲスト編集責任者にユニオン神学校―PSCEの宣教学F・S・ロイスター記念教授スタンリー・スクレスレット氏を迎えた。同教授はエール大学で博士号取得後、米国長老派教会の宣教師としてエジプトのカイロで八年間、教鞭をとった。著作にStanley H. Skreslet, Picturing Christian Mission: New Testament Images of Disciples in Mission, Eerdmans, 2006がある。




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