2014年9月14日日曜日

偶像崇拝の2つのかたち




ナンシー・J・ダフ
全く間違った場所に神を置く」
(81号「ほかに神があってはならない」)



セシル・B・デミル監督の一九五六年の映画『十戒』の終わり近くに、イスラエル人の男女が金の子牛の像を囲んで踊るシーンと、シナイ山上で(火の柱演ずるところの)神が石板に十戒を刻みつけるのを(チャールトン・ヘストン演ずるところの)モーセが見ているという場面が並置されている。

山の麓にいるイスラエル人が脅えて、新しく作った偶像に人身供犠を捧げようとしていたとき(聖書にはこうした場面はない)、神はシナイ山頂上から紛ごうことなき男性の声で大音声に戒律をひとつひとつ告げ、火の柱から繰り出される明らかに長い指のように見える炎が石板にヘブライ語を刻みつける。

今日、この映画のこうした視覚表現の多くは五〇年も前に作成されたことを鑑みれば賞賛されるものではあるけれども、神の描写は当時でさえおかしなものだった。

皮肉なことに、イスラエル人が造った金の子牛の場面よりも、火の柱と大音声の男性の声で神が表現されている場面の方がなぜ神の像を造ってはならないのかを示す例としては適している。




神の像を造ることを禁ずる戒律は二通りに解釈される。

ひとつは偽りの神を礼拝することの禁止とするものである。冒頭の例で言えば、奴隷状態から解放してくれた神に代わるものとして金の子牛を造ったことである。

今日のキリスト教徒がよく用いる解釈では、神以外の何かに忠誠を捧げている考え、活動、行動は何であれ金の子牛を崇拝することであるとされる。

説教ではよく経済的な成功や性的な快楽を際限なく追求することが今日における「金の子牛」とされるけれども、他にも同様の例は多い。

たとえば、あるウェブサイトではリック・ウォーレンの著書『人生を動かす目的』のことを現代版「金の子牛」だといっており、別のサイトでは現代の典礼舞踏がそれに当たるのではないかとしている。

現代において偶像をいかなる解釈学的立場で考えるとしても、十戒第二戒には反するとされる。




第二戒のもうひとつの解釈では「神のいかなる像も造ってはならない」という禁止であるとされる。

この場合に問題となるのは、偽りの神を礼拝する偶像崇拝ではなく、真の神に間違った表現を与えることである。

冒頭の例で言えば、エジプトの地から連れ出してくれた神を金の子牛によって表現したことがそれに当たる。

イスラエル人はその神を信じるのを止めたわけではなく、具体的で親しみのある何かに神の場所を定めることで、長引いているモーセの不在の間、安心を見出す必要があったのだろう。

問題は当然のことながら、神がどこでどのように自らを顕しているのかを見極めようとはせず、イスラエル人が自分たちで選んだ形で神を表現する像を造ったことにある。

さらには一旦神が具体的な物に関連づけられれば、人は神の実在性と力がそうした物を超えて存在し、それに審判を下しさえするものだということを忘れようとする誘惑に抗しきれなくなる。

 



特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

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