キャスリン・オコナー「再び生きていくための嘆き」
82号「エレミヤの肖像」より
エレミヤの告白は一見すると、預言者という職業にまつわるエレミヤの苦悶を表現したもののように思われるだろう。
彼の悲痛な人生を描写するかのような祈りがエレミヤ書全体に見られる。
エレミヤの祈りは彼が預言者であるがゆえに被る苦難を中心に構成されているため、その関心は彼自身だけに向けられたものであるかのように見えるのである。
エレミヤの「告白」は、神からの召命によって生じる数々の困難と、そのせいで被る不当な苦しみについて神に不満を述べている。
エレミヤの考えでは、自分は預言の言葉に身体と霊をしっかりと結びつけているのだから苦しめられるべきではないのであり、そのような視点は「告白」の中にはっきりと示されている。
迫害を引き起こしたと考えられるような事柄のすべてについて、彼は無実なのだ。
私はあなたの言葉を貪ったのです。
あなたの言葉は私にとって喜びとなり、私の心を歓喜させたのです。
なぜなら私はあなたの名で呼ばれているからです、万軍の主よ。 (一五16)
エレミヤは神の言葉を自らのうちに取り込み、血肉とした。彼は「神の目的の代弁者」であり、「聖なる言葉の模範的な具現者」なのである。
彼個人のアイデンティティを神の言葉と切り離すことは不可能であった。
それは彼と敵対する者にも知られており、だから彼らはエレミヤを嘲るときに「主のみ言葉はどこへ行った、見せてみよ」と言うのである(一七15)。
また、神が忘れてしまっている場合に備え、エレミヤは民のための仲裁を行う中で、自身の忠実な預言者としての振る舞いを神に思い起こさせようとしている―
「思い出してください。あなたの怒りを彼らから取り除こうと、私が彼らを弁護したことを」(一八20)。
そして、彼がこの骨の折れる仕事から手を引きたいと思うときには、彼の内なる力、つまり霊的な激しい衝動、心のうちに燃えさかる炎が神のために語り続けることを彼に強いるのである。
私が「もう神のことは思い出すまい。
もはや主の名によって語るまい」と思うときは決まって、
私の心を燃やし尽くし、骨の中でなお燃えさかる炎が現れる。
私は疲れ果て、それを私の中に留めておくことなどできません。 (二〇9)
エレミヤは預言者としての召命から逃れようと懸命に試みるが、それは叶わず、苦しみあえぐ。
敵対する者たちは彼を嘲り、攻撃し、陰謀を企てる。
「まるで屠り場へと引かれていく小羊のごとく」(一一19)エレミヤを迫害するのである。
彼らが望んだのはエレミヤの死であり、最初から存在しなかったかのように、彼をこの世から抹殺し、記憶から消し去ることであった。
木を実をつけたまま切り倒してしまおう。
そして生者の世界から彼を切り離そう。
彼の名が二度と思い起こされることのないように。 (一一19)
エレミヤは預言者であるがゆえに、このような攻撃の標的となった。
また、彼に加えられた痛みは不当なものであった。正しい者が痛みや喪失に苦しめられ、邪な者が栄えるという状況にエレミヤは激しい怒りを燃やす。
自身も属す民からエレミヤが迫害されるというこの構図は、彼を拒絶したためにユダに民族的な危機が訪れたということを暗示している。
こうした告発は話が進むにつれ、神を擁護することによって災害の被害者の支えとなっていく。
エレミヤの肖像
第82号 2013年9月
定価2000円+税
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