2014年12月28日日曜日

「後 記」87号フィリピの信徒への手紙


  87号「フィリピの信徒への手紙」 後 記

◎このところ「ユダヤ教からみた新約聖書」というアプローチの著作や研究に接することが多い。

手頃なところでは『ユダヤ教の福音書』(教文館刊)がコンパクトで読みやすい。

ユダヤ教の視点からの解説付き新約聖書というものもある(英語版)。

イエスはもちろん、最初のキリスト教徒はすべてユダヤ教徒であったが、新約聖書とユダヤ教となると、どうしても聖書に登場する律法学者やサドカイ派が頭に浮かび、「キリスト教の中のユダヤ教」になりがちだ。

それを現代のユダヤ教から見る当時のユダヤ教という視点からキリスト教、新約聖書を見るのである。

少し古いが『ユダヤ人から見たキリスト教』(山本書店刊)はこの状況を先取りして日本に紹介した好著と言える。
 


◎「新約聖書の主要登場人物の中で最もユダヤ的なクリスチャンは誰か」という問いを設定してみた。

しばし考えて選んだ答えはパウロであった。

もちろん、パウロはユダヤ教と決別したわけだが、「ユダヤ教から見たキリスト教」という視点からは、パウロは一体ユダヤ教のどの部分と決別したのかという問いも生じてくる。
 



◎イエスの出来事について文書として残されている最も古い証言がパウロのものであることは見逃されがちなことではないだろうか。

七〇年代にマルコ福音書が成立する以前、五〇年代にパウロ書簡は書かれている。


 

◎本号は「パウロの教会論」とでも邦題をつけたくなるような特集であった。

つまり、フィリピの信徒への手紙には教会史のかなり早い時期における教会論が記されていることになる。

ヨハネとパウロの比較は本号でもなされているが、前々号の「ヨハネ福音書と教会」はヨハネの教会論であった。ヨハネ文書の成立は九〇年代とされる。

パウロと初期の教会について改めて考えを巡らせてみたくなる論考に多く出会えたように思う。
 (M)





 

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2014年12月21日日曜日

パウロの苦しみと喜び


L・G・ブルームクウィスト
「喜びによる反転
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)



歴史批判的研究はパウロの世界を理解する助けとなる資料を利用できるようにすることで聖書研究に大いに役立ってきた。

歴史批判的研究の手段を通じて、テクストとその構成部分が適合する規範的な歴史的、文化的背景を確定することができる。

そのような研究はフィリピの信徒への手紙のような手紙を理解するときの背景を教えてくれる。



 しかし、歴史批判的研究は聖書の記者が現実をどのように「引き受け」、それを再創造したか、またレトリックを用いて言えば、新たな文化をつくるための新たな言説をどのように「発明した」かを常に示してくれるわけではない。

フィリピの信徒への手紙を新たな言説の発明として読むとき、苦しみと死について予期されることにかかわる既存の文化的筋書きを用い、同じ現実へのもうひとつのアプローチをつくり出すためにその筋書きを再構成したものと理解することができる。

フィリピの信徒への手紙におけるパウロは苦しみと死が全体に行き渡った世界を前提とすることで、他のことでは喜びがあり得ない世界への新たなアプローチを発明し、福音のための苦しみと死をまさに喜びと命への道とすることで、苦しみの回避ではなく、苦しみを直観に反して受け入れることを求める新たな態度と行動を強く促したのである。


 

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2014年12月14日日曜日

ヨハネにおける友情 パウロにおける友情




ジョン・フィッツジェラルド
「キリスト教徒の友情
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)


イエスの死は友情に関するヨハネとパウロそれぞれの概念に重大な役割を果たしているが、そこには著しい違いも見られる。

パウロにとって神がキリストの信仰者と和解し、自らの友人とするのは、キリストの死において、キリストの死を通してである。

それゆえ、キリスト教徒の友情は神との和解と友情、信徒相互の友情の基盤を形成するキリストの死による神の和解の行為と分かちがたく結びついている。ヨハネの思想においてもイエスの死は重要であるが、イエスとの友情の基盤とはされていない。

弟子たちはイエスが自分たちのために十字架に赴く時点で、すでにイエスの友人なのである(ヨハ一五15)。

要するに、ヨハネによる福音書においては、イエスの磔刑はイエスの言葉によってすでに清められている(ヨハ一五3。一三10も参照)友人たちのための死なのである(ヨハ一五13)。

一方、パウロにとっては、イエスの死は友人たちのためのものではなく、不信心な者たちや罪人たち、敵のためのものであり(ロマ五6、八10)、神的なものとの友情を可能にする出来事なのである。


 

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2014年12月8日月曜日

キリスト賛歌のレトリック



ジョセフ・マーシャル
「キリスト賛歌のレトリック
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)



この賛歌がパウロの手紙に先立って存在し、用いられていたという説が正しいとすれば、この種の賛歌の多面的な機能が用い易いものであることは容易に想像できるだろう。

この賛歌はいくつかの異なる背景を同時に仄めかしたり、それらを結合させたりすることもできる。

共同体の様々なメンバーに訴えかければ、単一の伝統ではなく、いくつかの伝統を統合し、結びつける力となり得る。

これが礼拝の中で賛歌として使用されていたのだとすれば、神とキリストにまつわる神学的な考えを伝えていた可能性も排除できない。

さらに言えば、この賛歌が劇的に神話を用いて逆転を物語っているからといって、神話のもつ社会形成作用の側面が除外されるわけではない。

ひとつのイメージが救済的であると同時に模範でもあることもあるのである。

このような神学的信念と共同の行為がこうした賛歌に触れる者の生活に実際的で政治的な影響を与えないわけがない。

そこでは家庭、街、そして帝国の運営といった事柄を含む古代の文脈の中で交錯した領域の倫理が反省的に捉えられているのだ。

この賛歌のイメージが現代においても継続して有用であり、現代にも適用可能であると考えるとき、そのような交錯点は現代の様々な文脈においてわたしたちを立ち止まらせるだろう。


 


特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2014年12月5日金曜日

87号「フィリピの信徒への手紙」 目次



12月上旬発売

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742721/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742721&linkCode=as2&tag=mmiyas-22

特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税




まえがき




J・A・マーシャル (榊原芙美子・訳)Joseph A. Marchal
「キリスト賛歌」のレトリック ──パウロ解釈序論──

    フィリピの信徒への手紙は綿密でダイナミックなレトリックそのものであるが、パウロ解釈においては見過ごしにされることがあまりにも多い。よく知られた 「キリスト賛歌」を中心にこの手紙の議論全体を注意深く批判的に分析することで、この非常に重要な文書がもつ倫理的・政治的側面に同調する解釈がもたらさ れる。

A・K・グリーブ (吉谷かおる・訳)A. Katherine Grieb  
フィリピの信徒への手紙と神の政治
    パウロはフィリピの共同体に「同じ思い」をもつことを強く勧めるが、教義や倫理の問題についてフィリピの人たちに画一性を求めたわけではない。むしろそれ はキリスト・イエスの思いを自分たちのうちにもつようにという命令であり、他者の利益を考えるようとするものである。今日、この「同じ思い」を採り入れれ ば、教会は共同体を築き上げる新しい実践を見出すことになるだろう。

L・G・ブルームクィスト (吉谷かおる・訳)L. Gregory Bloomquist
喜びによる反転 ──フィリピの信徒への手紙における苦しみと喜び──
    フィリピの信徒への手紙はレトリックを用いて苦しみと喜びを再構成している。苦しみと喜びは織り合わされることにより、主題となるだけではなく、手紙全体の背景をなすつづれ織りとなるのである。

J・フィッツジェラルド (山野貴彦・訳)John Fitzgerald
キリスト教徒の友情 ──ヨハネ、パウロ、フィリピの信徒への手紙──
    ヨハネとパウロはともに愛を友情の基礎としている。ところが、彼らの思い描いていることは重要な点で異なっている。ここではヨハネとパウロの友情理解について簡潔に議論し、フィリピの信徒への手紙においてパウロが友情に関する言葉をどのように用いているかについて考える。
J・W・トンプソン (古本みさ・訳)James W. Thompson
フィリピの信徒への説教
    古代のテクストと現代の教会の間に距離があると感じるとき、説教者はキリスト教が主流になる以前の時代に生きた脆弱なキリスト教徒たちに向けて語られた言 葉が何世紀もの時間を飛び越えて、キリスト教が中心ではなくなった時代に生きるキリスト教徒に語られていることに気づくはずである。



テクストと説教の間
ルカによる福音書14章25―27節(C・ブリッソン/石田雅嗣・訳)
ヨハネによる福音書6章25―35節(S・ファウル/石田雅嗣・訳)
コロサイの信徒への手紙1章15―28節(R・N・クリステンセン/吉岡誠悦・訳)



 書評紹介(榊原芙美子・訳)
    ロルフ・レントルフ著『正典としてのヘブライ語聖書──旧約聖書の神学──』
    フランク・C・セン著『民の業──典礼の社会史──』
    カレン=マリー・ユストほか編『子どもと未完成の霊性を育む──世界の宗教伝統からの視点──』


2014年12月4日木曜日

87号「フィリピの信徒への手紙」まえがき


12月上旬発売






特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税






まえがき


「とにかくキリストが告げ知らされているのですから」(フィリ一18)というパウロの言葉に共鳴しつつ、今号のインタープリテイションはフィリピの信徒への手紙という短いけれども神学的、倫理的に豊かな内容をもつ書簡の中心テーマを探求する五本の論考を掲載する。
 



ジョセフ・マーシャルはフィリピの信徒への手紙の主な解説者たちがとってきた伝統的なアプローチを概観している。

この書簡の中心的なテーマとレトリックの構図についての概要からはローマイアーやケーゼマンなど重要な解釈者が互いに異なるアプローチをしていたことが明らかになる。

また、パウロがイエス・キリストの例とパウロ自身の例に倣い、謙遜な従順を勧めているとする最近の解釈が提起する深い倫理上の問題に焦点が当てられている。
 



キャサリン・グリーブはパウロがフィリピの信徒に勧める一体性が教義上、あるいは倫理上の一致ではなく、救世主イエスが示した自己を空しくする態度であると示すことでこの問いに答えている。

「教会はキリストの思いを獲得し、それを育むべきであるとパウロは示唆する。

キリストは他の人たちの幸福のために自らを献げ、他の人たちが高められるべく自らを卑しくしたのだから、必然的にパウロは直観に反する対抗文化的な道徳についての想像力をもった行為も意図していたはずである。

つまり、他の人を『キリストが(その人たちのために)死んでくださった』兄弟姉妹として見ることがそこでは意図されている」。


 

L・グレゴリー・ブルームクウィストは自らの苦しみの中に喜びを見出すというパウロの衝撃的な主張をパウロと同時代のギリシャ・ローマの著述が悲観的で、総じて喜びに欠いた展望しかもたなかったことを巧みに対比させている。

「パウロはまさに自分の苦しみの経験のうちに、そのあり得ない喜びを見出していたのである。

それは苦しみと避けられない死のうちに、また、それゆえにフィリピの信徒たちのような人々がキリストにおいて命を得るのを見出したからである」。




 


ジョン・フィッツジェラルドはヨハネ福音書とパウロ書簡(特にフィリピの信徒への手紙)における友情を探求している。

両者はともに最終的にはキリスト教の友情の基礎を神の愛においているけれども、いくつかの点で大きく異なっている。

ヨハネがイエスと弟子たちの関係に重点を置いているのに対して、パウロが親類関係の言語を用いて、友情関係を神と共有する関係とみなしている。

「フィリピの人たちが苦難のうちにあったパウロを見捨てなかったということは、パウロと友情関係にあり、彼らが継続して福音にともに参与しているという実情についての明らかな証明」であるとフィッツジェラルドは論じる。


ジェームズ・トンプソンはフィリピの信徒への手紙による説教について論じている。


歴史批判、レトリックを用いた批判、様式批判などの分析方法を用いることで、直感的な解釈を越えて、フィリピの信徒への手紙の深い理解に繫がる説教をつくるための手引きがそこでは提供されている。

 


ジェームズ・A・ブラシュラー
サミュエル・E・バランタイン

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