2014年8月31日日曜日

「唯一の神」という葛藤



デイヴィッド・バレル 
「一神教の対話 ― ジャン・ダニエルーの宣教論再考」
(86号「対話を求めて」2014年9月発売予定)



現代イスラムの哲学者タリク・ラマダンによれば、「イスラム・アイデンティティの最も重要な要素は信仰であり、それは創造主を何とも結びつけることなく信じるという本質を示す徴である。

これが〈タウヒード〉(神の唯一性への信仰)という中心的な概念の意味」とされ、ラマダンはイスラム教徒の文化受容と新しい文化環境への適応に関する熟考の中心にそれを据える。

教会がイエス信仰の中心的宣言を(ニケア信条とカルケドン信条において)四世紀もの時をかけて明らかにした主たる理由は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申六4)、「主こそ神であり、ほかに神はない」(申四35。マコ一二32参照)という〈シェマ〉の存在であったことをここで思い起こす価値はあろう。

〈タウヒード〉は三位一体のキリスト教信仰とは相容れないものになっているが、神の唯一性という妥協のない主張は、コーランそのものが提案する(神、イエス、マリアを「三位」とする)奇怪な三位一体ではなく、厳格な正統的三位一体論、言ってしまえば、「社会的三位一体論」〔関係存在論による解釈〕に心を奪われた神学者の確信を強いものにするだけである。

要するに、不穏当な部分を削除、修正した形の「三位一体」に対するイスラムからの拒絶は、キリスト教の伝統の中で経験されてきた何世紀にもわたる葛藤を思い出させる。

キリスト教は「我らの神、主は唯一の主。ほかに神はない」という〈シェマ〉に忠実であろうとしたが、イエスを位置づける論争の中で複数性の構図に直面したのである。



さて、真正な三位一体の神への信仰とは何を意味するのだろうか。

ここで再びダニエルーに目を向け、イエスがもつ預言者性を「預言者ムハンマド」を含む他の預言者の預言者性から区別して際立たせている聖書における根拠をどのように要約しているかを見てみよう。



イエスは……この認識を啓示された者として活動したのではなく、いつでもそれを当然のこととして所有している者として活動していた。

それは〈父〉の秘密であり、〈父〉は自らの〈子〉にすべてを委ねていたのである。



これをさらに一歩進めれば、イエスが神の啓示であることを思い起こさせ、創造主に関するはっきりとした三位一体の神の主張に教会を導くイエスの独特さを主張できる。

つまり、キリスト教徒にとっての啓示とは書物ではなく、人において示されたのである。




 



特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税








2014年8月24日日曜日

宣教学者と新約学者



マイケル・バラム
宣教のための聖書解釈に向けて」
(86号「対話を求めて」2014年9月発売予定)



宣教学者は一般に、無菌状態を前提に行われる聖書研究と、多くの聖書研究者が実際の福音伝道にかかわっていないことを蔑視する傾向がある。

福音のメッセージから活力を奪ってきた専門分野に一部の宣教学者は不満を感じている。

つい最近まで宣教学の研究が重要な聖書研究を無視するか、ほんの表面的に対話してきただけであったのは驚くにはあたらないのである。
 



もちろん、聖書学者もやり返す。たいていの場合、宣教学者からの情報は無視される。

聖書を解釈する人たち当然、たいていは新約学者―は宣教に関する言葉が自分の検討している話題または聖書個所と密接な関係があると思えば、もちろん喜んでそうした語を使用する。

しかし、聖書研究においては、やはり宣教は初期の福音伝道と限定的に関係したものなのである。

(たとえば、信者ではない異邦人に福音を宣べ伝えるパウロの努力など)。

それゆえ、聖書研究における宣教は特に根本的な問題と理解されることはほとんどなく、朱書して注目するようなこととはされてこなかった。

聖書学者はおそらく、宣教学が批判的な聖書研究を無視してきた以上に、今でも宣教学の研究を無視し続けている。
 



学際的な対話や協力関係を促進する方法はないのだろうか。

また、もっと直接的に問題を表現するとすれば、宣教のための解釈を進めるためにどのような予備的な段階を踏むべきかということである。

それは聖書学者と宣教学者が協力関係を築くことで利益を得ることのできる解釈上のアプローチであるはずである。


 



特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税








2014年8月17日日曜日

自然と神と人間と




ダニエル・グロスバーグ「雅歌における自然・人間・愛」
79号「雅歌」より





聖書には自然、人間、神の間の緊張関係を扱っている書や伝承がある。

たとえば、創世記一章二八─三〇節で神は人間に地上を支配するよう命じ、動植物を食物として支配する権利を与えている。

しかし、結局のところ神がすべての創造者であり、神が階層秩序を確立する。

詩編一九編一二節には自然と人間と神の間に働くまた別の力学が表現されている。

人間は世界と被造物のことを考え、それを保全することでその信仰が高く評価される。

詩篇作者にとって自然はもちろん神の創造物であり、それは全く神の意のままに機能する。

三つめの関係はヨブ記三八─四〇章で嵐の中から語られる神の言葉に表されている。

神は自然の宇宙的現象に関する嵐のような問いでヨブに猛攻撃を加える。

ヨブはその問いにひとつとして答えることができない。

その神秘は神の支配下にあり、人間が理解できる範囲にはない。

雅歌は創造主としての神はもとより、いかなる神概念も欠いている。

したがって、雅歌には〈自然・人間・神〉という宇宙を構成する三概念の組は異質なものであり、当てはまらない。
 

しかし、そこには宇宙を構成する新しく大胆な三概念の組〈自然・人間・愛〉がはっきりと表現され、その世界を定義している。






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特 集

雅 歌

第79号 2010年8月
定価2000円+税
 

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2014年8月10日日曜日

「神はどこにいるのか」




ロジャー・J・ジェンチ
「エレミヤ書8章18節―9章2節」
82号「エレミヤの肖像」より



強制収容所でナチ党員が二人の男と一人の少年を絞首刑に処した日のことを述懐したエリ・ヴィーゼルの文章がある。

二人の男はただちに息絶えたが、少年はもだえ苦しんだ。見ていた一人が「神は今どこにいるのか」と問いかけた。

すると、

「(神は)絞首縄にかかっている」

と誰かが答えたのだという。

この話から神の脆さについて多くのことが語られてきたが、ヴィーゼルのように、その体験が「わが神とわが魂を抹殺し、私の夢を塵芥に変えた」とまで言い切れる人はまずいない


(この話はPaul Fiddes, Participating in God: A Pastoral Doctrine of Trinity, 2002, 154に語られている)。

この言葉は私たちの多くが到達しえないほどに深みをもつ。

しかし、神義論に関わるこの言葉を反転させ、いかにして神に対する人間のあり方を正当化しうるのか、と問うならば、このエレミヤの詩文における神の悲嘆もまた深みを湛える表現となる。

神さえもこの民から目をそむけようと願ったというのだから。

「ああ、荒れ野に旅人が宿る場所を見出せるなら、わたしはわが民を棄て、彼らから離れ去るものを」(九1)。

じつに、エレミヤは「主はシオンにおられないのか」(八19)とまで問うている。

それは、神はわれらの教会におられるのか、洗礼は正しいのか、キリストが聖餐に臨在されるのか、と問うに等しい。



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 特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年9月
定価2000円+税








2014年8月3日日曜日

「宣教」と「福音伝道」



マイケル・バラム
宣教のための聖書解釈に向けて」
(86号「対話を求めて」2014年9月発売予定)


「宣教」という語は教会の全体にかかわる目的あるいは使命と規定されていると多くの人が考えているかもしれないが、形容詞として形missionaryはほぼ常に遙かに狭い意味で使われている。

たとえば、パウロ研究者はこの形容詞をほぼ「福音伝道」(evangelism)の意味で用いている。

実際のところ、この語感はかなり広がっており、missionaryという形容詞に全体論の理解を取り戻すのは容易なことではないだろう。

「宣教」を全体論的に解釈させる形容詞は他にないので、常識的な語彙がどのように用いられているのかを理解するようにするしかない。

残念ながら、多くの場合、この「宣教」という特別な言葉の意味をすべての人が理解し、それに同意しているという前提で文章は書かれている。

用語上の不正確さは結局のところ、聖書が伝える教会の使命についての理解を識別し明言するときの妨げになっているかもしれない。




 


こうした理由から、missionalという別の形の形容詞を実験的に用いる人も増えてきている。

ちょっとした新語ではあるが、聖書と宣教に関係する文章を書く人たちの間では認知されつつある。

この語は教会の伝道上の援助活動を含みつつ、それに限られない形で、教会の目的あるいは使命について、より広く、より適切に全体論な意味で使われているように思われる。

とはいえ、新約聖書の研究者が宣教に関して、用語上の正確さの必要性に気づき、それを受け入れるのには多少時間がかかるかもしれない。


 
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特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税






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