2015年8月30日日曜日

福音書は調和しているのか


クリスティーン・ジョインズ
「沈黙の音」
(88号「イースターの祈り」)



 

マルコ福音書の女性たちが空の墓を訪れる物語は、この出来事の最初期の伝承と考えられている。

福音書記者はマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人がイエスに塗るための香油を買い、墓に行った様子を描いている。

女性たちは墓への道すがらどうすれば墓の入口の石を動かして中に入れるかを話し合っているが、墓に到着すると、石は転がされていた。

女性たちが墓に入ると、若い男性が「白い衣を着て右手に座って」いた。「そして婦人たちはひどく驚いた」(一六5)。


その若者は女性たちを安心させる言葉をかけ(「驚くことはない」)、復活の知らせ(「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」一六6)と委託(「行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる」一六7)を伝える。

しかし、女性たちは委託されたことを実行せずに逃げ去り、「だれにも何も言わなかった」。マルコ福音書はこのようにして終わる(一六8)。
 




マルコ福音書を最初に解釈したマタイ福音書は、マルコ福音書のテクストの曖昧なところや不合理なところを取り去ろうとしている。

マタイ福音書では、女性たちはイエスに油を塗ろうとして墓に来たのではなく墓穴で二日も経った後ではそれは無駄なことだろう墓を見に来たことになっている。

また、墓の入口から石を動かしたのが天の使いであると説明されており、石が取り除かれていたことを謎のままにしているマルコ福音書とは対照的である(一六4)。

マルコ福音書の「若者」はマタイ福音書でははっきりと「天使」として解釈されており、地震に関する独自の資料も加えられている。

「ガリラヤへ行け」という命令はマタイ福音書でも保持されているが、ペトロの名を特に出してはいない。

こうしたことよりも重要な違いは、マルコ福音書とは対照的に、女性たちは天使のメッセージを弟子たちに伝えたとされ、女性たちが沈黙したとはされていないことである。
 




ルカ福音書は空の墓の話を語り直すにあたり(マタイ福音書とは合致しないが)マルコ福音書とはいくつか重要な点で一致している。

すなわち、女性たちは(マルコ福音書と同様、おそらく遺体に油を塗るために)香料を携えており、誰が石を取り除いたのかという謎は謎のままとされている。

しかし、ルカ福音書は二人の「輝く衣を着た人」が女性たちにかなり異なるメッセージを伝えている。

これはルカに特有なルカ特殊資料で、「ガリラヤへ行け」という命令はなく、受難の予告を想起させることによって、その成就が語られている(二四7—8)。

しかし、ルカ福音書もマタイ福音書と同様に、マルコ福音書における女性たちの沈黙は採用していない。






特 集

イースターの祈り

第88号 2015年3月
定価2000円+税



2015年8月23日日曜日

フィリピの信徒への手紙と「キリスト賛歌」



ジョセフ・マーシャル
「キリスト賛歌のレトリック
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)



フィリピの信徒への手紙はパウロ書簡の中でも些細で重要度の低い書に分類されることがあまりにも多い。

そのような評価のせいで、不幸なことに、この手紙はあまり検証されないままにされており、四章という短さの中に様々な考えが複雑に絡み合ってひとつの主張をなしていることを考えると、それはやはり不幸なことと思われる。

パウロ研究者の多くがこの手紙を見過ごしにしているが、一部の専門家はその中心的なテーマや主張、あるいは主要なイメージ群に関して幅広く問題提議をしている。

さらに詳しい学問上の問題、たとえば苦難と喜びという奇妙な組み合わせや、古代における友情と庇護の概念の適用と変化、また市民の連帯についての軍事的、帝国主義的な文脈といった点については今号の他の論考などで扱われるだろう。
 




ここではフィリピの信徒への手紙に対して取られる解釈のアプローチを概観していく。

この手紙への印象や興味は主に次の二つの条件によって規定されている。

第一に挙げられるのは二章6―11節の「キリスト賛歌」に注目する傾向であり、手紙全体よりもこの部分に限定した分析が行われがちである。

何らかの期待をもって今号のインタープリテイションを開いた人からしてみれば、その期待のうちのひとつはキリスト賛歌が今号の論考の中で最高の場所を与えられているであろうという期待であったはずである。

分析に影響を与えている解釈上の第二の傾向はフィリピの信徒たちが温和で害がなく、概して友好的であるという印象が定着していることである。

そうした印象はこの手紙をすぐに考察の対象から外し、〝愛を込めて〟その意義を小さくしてきた学問的姿勢、あるいは特定の学者が行った手紙の分析方法や、この支配的なイメージとの関わり方によって生み出されたものと考えられる。


 


特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税



2015年8月16日日曜日

終わりははじまり アドベントと終末論



ゲイル・オデイ
「未来に戻れ アドベントの終末論的ヴィジョン」
(83号特集「アドベントと典礼」)

 

アドベントの期節には時間それ自体が明確な神学的カテゴリーとなる。

アドベントは新しいキリスト教暦年の始まりを示すものであるから、その典礼期節としての中心的特色のひとつは、礼拝共同体がそのアイデンティティの根源である物語サイクルに再び入るということである。

教会の時の捉え方がもつ循環的性質は、聖なる物語は毎年アドベントに新たに始まるということを意味する。

典礼暦年において宗教上の物語と時が交差することによって、過去、現在、未来が共同体の共同生活において絶えず新たに得られるものとなる。

すなわち、過去、現在、未来は絶えず長くなり続ける予定表に沿って進むのではなく、時の中で循環的に互いに関連し合うのである。

アドベントは礼拝するキリスト者たちを従来の線的な時間理解から離れさせ、神の時に入らせる。
 



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典礼暦はキリストの支配または〈王であるキリストの主日〉で終わる。

〈通常の時〉の最後の主日、〈王であるキリストの主日〉の聖書日課は選ばれた朗読パターンに従う。

受肉のサイクルと過越のサイクルと同様、三つの日課には宇宙を治めるキリストの支配というこの日のテーマを際立たせるものが選ばれている。

〈通常の時〉における聖書日課は、聖書の幅広さや教会の礼拝と宣教を通して知られるキリスト教の物語の多くの面に焦点を合わせたものと特徴づけられるが、その最後の主日にはキリストの物語に焦点が戻る。

しかし、重要なのは〈王であるキリストの主日〉には、受肉のサイクルと過越のサイクルと違って、キリストの物語の出来事を物語り、再演することに焦点があるのではなく、その物語によって生み出された未来が焦点になっているということなのである。






特 集

アドベントと典礼


第83号 2013年11月
定価2000円+税








2015年8月9日日曜日

聖書の「終わり」とヨハネ福音書




フランシス・J・マローニー
聖書の「終わり」



イエスの死はイスラエルの聖典を実現するだけでなく、それを「完全なる終わり」へと導く。

 一九章28─30節aの簡単な説明において確認したように、ヨハネはそこまでに「テロス」と関連する様々なギリシャ語の名詞や動詞を用いて、神の計画に「完全なる終わり」がもたらされる最後の瞬間の到来を約束している(四34、一三1、一七4参照)。

イエスの死を完成、成就とする表現はいずれにしても一九章30節aにおける劇的な結末に繫がる。

聖書からの引用とは関連しないが、十字架上からのイエスの叫び、「成し遂げられた」(30節a)はすべてが最終的な達成をみたこと、すべてが実現したことを権威をもって宣言する。

第四福音書全体を通じて丹念に組み立てられたイスラエルの聖典からの引用は、イエスの物語の開示と密に組み合わされ、着実にこの「成し遂げられた」というクライマックスに繫がっている。

ヨハネ福音書の中で語られているように、イエスの死において、またそれを通じて神の栄光を示すことが聖書の物語の「終わり」、すなわち、その実現であり、それがここにおいて初めて、極めて重要なものとして示されている。









特 集

ヨハネ福音書と教会

第85号 2014年6月
定価2000円+税





2015年8月2日日曜日

土地との正しい関係 —カインの場合—



クリスティン・M・スウェンソン
「エデンの東を守り、保つ」
(84号特集「他者へのまなざし」)


神はカインに語る。

カインが自分の職業とされた仕事、すなわち神が園に住まわせた人間を部分的に規定していた仕事をするとき、地は「もはやお前にその力を与えない。

お前は地上で落ち着くことなく、さまよい歩く」(12節。私訳)。

聖書では接続詞が非常に多く用いられているので、この二文の間に接続詞がないことは非常に目立つ。

この接続詞の欠如が示唆するのは、土地がその力を与えないということとカインの不安定さという二つの異なる事柄を語る別々の二文として12節を読むべきではないということである。

むしろ、土地がカインを拒否するということがカインの不安定なのである。

言い換えれば、カインの安定とは土地との正しい関係なしにもたらされることはないということである。
 




土地自体に拒絶されたカインはさまよう根のない生活に追いやられる。

語り手はこのことを物語の終わりに強烈な語呂合わせで強調する。

カインが「落ち着く場所」は「さまよい」という意味をもつノドという名の地なのである(16節)。

カインは7節で神が発した警告を反映した形で、自分の運命について「罰が大きすぎて耐えられません」と訴える(13節)。

「耐える」に当たる動詞〈ナサー〉は、正いことをしているなら顔を上げていられるはずと言ったときに神が用いた動詞と同じ動詞である。

語り手は以前に用いられた後を思い出させることで、カインがどれほど脇道に反れてしまったかを明らかにする。

カインは正しいことをした結果として顔を上げるのではなく、間違った行為ゆえの面倒な結末に耐えることができないと叫ぶ。
 




カインはこの苦しい応答において、自分の行為によって明らかになった関係には別の次元があることを示している。

自分の運命についてのカインの解釈は、神の存在の経験を自分の奉仕の対象である土地と結びつけている。

彼は言う—「今日、あなたはわたしを土地(の表面)から追放した。

そして、わたしはあなたの顔から隠される」(14節)。

カインの応答のキアスムス的な並行関係が土地と神を結びつけている。

「あなたはわたしを追放した」は構造的に「わたしは隠される」と関係し、「あなたの顔」は「土地の表面」と対にされている。

二つめの組は同じ単語で〔「顔」「表面」はヘブライ語では全く同じ語〕、付される前置詞も同じ「〜から」なので、その関連は特に強い。

カインの応答は土地そのものがカインの神体験を仲介していることを明らかにしている。

土地との正しい関係が神の存在をカインが経験する手段であった。

カインが神を知るのは土地を通してなのである。




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特 集

他者へのまなざし


第84号 2014年3月
定価2000円+税








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