2014年9月28日日曜日

天の食卓




チャールズ・A・サマーズ
 「マタイによる福音書14章13―21節」
79号「雅歌」より




イエスは群集に食べ物を与えるよう弟子たちに命じるが、弟子たちは全部で五つのパンと魚二匹しかないと抗議する。

イエスはこの献げ物を手に取り、群集を家族のようなまとまりで座らせた上で(ここにおいて見知らぬ人々が会衆となる)、その業をはじめる。

イエスは天を仰ぎ、「賛美の祈りを唱え、裂いて、お渡しになった」。

これはマタイによる福音書二六章26節にみられる聖餐の場面だけでなく、天の王国を示している。

見知らぬ人々が家族となり、メシアが北から南から、東から西から集う人々の食卓の主となり、金を持たないものが来て、買い、食べることになるという別の食事の場面をも思い出させる(イザヤ五五1)。

すべての食事が日々の糧と親しい交わりという必要を満たしてくれる神の憐れみを思い起こさせるものとなり得るのである。



一九八七年、ハリケーン・ヒューゴがアメリカを襲い、木々を倒し、送電線をなぎ倒した。

電力供給は八日間ないままだった。

すべての冷蔵庫が電源オフになった。

人々は野外で料理し、貯蔵庫から食物を運び出して皆で分け合った。

来る日も来る日も大層なご馳走が並んだ。

近隣の者たちがともに集い、それぞれの蓄えを分け合い、その出来事を分かち合った。

その時に分け合ったパンはあらゆる食べ物の中で最高のものであり、まるで天国で食べているように感じられた。

聖書は繰り返し天の王国を宴会のようなものとして描いている。

マタイによる福音書一四章は来たるべき将来を垣間見させてくれているのである。






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特 集

雅 歌

第79号 2010年8月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年9月24日水曜日

シンポジウム「一神教は危険か? 宗教間対話と共生の可能性」


本誌でもこのところ、一神教の問題、キリスト教と他の宗教の関係を扱ってきました。

ご興味をおもちの方、是非ご参加ください。



http://www.seinan-gu.ac.jp/assets/users/41/files/symposium%20in%20tokyo%2020141026%20.pdf




西南学院 創立100周年記念事業

一神教は排他的で不寛容であり、それゆえ危険であるが、多神教は他者を尊重し寛容であり、それゆえ平和的である、という言説がまことしやかに喧伝されています。
しかし、果たしてそうなのでしょうか。排他的な原理主義はどの宗教においても起こり
うるものです。それに対して、互いを尊重し、差異を認めつつ共生を目指す動きが一
神教の中でも広がりつつあります。
 そもそも一神教とは何か、一神教的宗教は他の宗教の存在をどう捉えているのか、

どんな場合に宗教は危険になるのか、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を研究す
る第一線の学者が宗教の枠を超えて対話します。


                 記
  日時:2014年10月26日(日) 15:00~18:00(開場:14:30)
 会場:サピアタワー5階 サピアホール
    東京都千代田区丸の内1-7-12-5F
       ※入場無料、要事前申込
 講師:ジョナサン・マゴネット氏(レオ・ベック大学元学長)
    寺園 喜基氏 (西南学院名誉顧問)
    四戸 潤弥氏 (同志社大学神学部教授)
    司会・進行:須藤 伊知郎氏(西南学院大学神学部教授)
    通訳:小林 洋一氏(西南学院大学名誉教授)
         リディア・ハンキンス氏(西南学院宗教主事)
     主催:学校法人 西南学院
    後援:日本バプテスト連盟、日本聖書学研究所、
        キリスト教学校教育同盟
        キリスト新聞社
        いのちのことば社 クリスチャン新聞
                 福岡市

2014年9月21日日曜日

ヤハウェ信仰の精髄と宗教多元主義



S・ディーン・マクブライド「正統の精髄」
(81号「ほかに神があってはならない」)


「主」ヤハウェに対する妥協なき忠誠は他の神への崇拝、人間の手が造り出す神のいかなる表現をも排除する。

それが古代イスラエルの宗教習慣であり、イスラエルを他のすべての民族や国と表面的に区別する政治的なアイデンティティの本質を構成する特徴であったと聖書の多くの個所が証言している。

聖書に書かれているという点では特殊なものだが、こうした証言が「正統ヤハウェ信仰」(orthodox Yahwism)とでも呼び得るものを規定している。

正統的信仰の綱領は五書の律法と前の預言者、後の預言者に説明されているけれども、そこには申命記が特に強く刻印されている。

申命記六章4-5節の信仰宣言がそれを象徴する。


聞け、イスラエルよ
われらの神、主は唯一の主
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし
あなたの神、主を愛すべし


集団としての「イスラエル」に限っていえば、真正の神--「われらの神」--に対応するのは「ヤハウェのみ」でしかあり得ない。

その結果、単一にして十分な神であるヤハウェへのイスラエルの献身は熱烈で忠実なものでなければならず、また確固としていなければならない。



しかし、宗教上の多元主義という社会的現実を倫理的価値として尊重することが求められる現代の視点からすれば、〈正統ヤハウェ信仰〉は抑圧的で、執拗に狭量なものに見えるかもしれない。

それは古代の基準からしても相当なものであった(例えば、民二三9、ヨシュ二四14-24、王上一一1-8、ミカ四5)。

さらにずっと問題が多いのは、現代史においても陰惨な例がないでもないが、それを確立し、実行するために厳格主義的な方法がとられたということである(例えば、民三三51-52、申一二2-4、13)。

熱狂的な正統信仰は政治権力と結びついたとき、残忍な結果を生む(王下一〇18-27、二三19-20参照)。

また、攻撃的な帝国主義的民族主義という古代の環境においては、守護神同士が競い合い、激しい文化的衝突がしばしば生じるので(例えば、王上一八、王下一八-一九)、排他的で偶像をもたないヤハウェ信仰の神学がもつ鋭敏さは軽視できない。

問題は単に近東における通常の政治と宗教をもっとよく理解するということではなく、はるかに荘厳な何かである。

古代イスラエルの神学者は独特の聖なる使命として共同体の生の可能性をどのように心に描いていたのか。

それは契約という枠組みの中で、ヤハウェの主権の完全性、そしてイスラエル形成期の歴史とその存続、刷新への見通しに独特な形で介入する神という自己開示性と密接に連携していた。

また、〈正統ヤハウェ信仰〉が非常に壊れやすい社会的事象であり、時として国の公的な政策によって侵害されることもあったと聖書自体が認めていることもまた重要であろう(例えば、王上一一1-8、一六31-33、王下二一1-9)。

もっとも、民衆の敬虔な心がヤハウェと「他の神々」を緩く包み込んだ礼拝の形態に惹かれていたことによって脅かされることの方が遙かに多かったかもしれない(例えば、王上一八12、王下一七29-34、エレ七9-10、ゼファ一4-6)。

イスラエルの聖なる使命を維持するために、〈正統ヤハウェ信仰〉の設計者は神学上適切な多様性と利己的な信仰上の諂いの境界を規定しようとした。

彼らにしてみれば、その境界は単に形がないというより、無意識のうちに寛容になっていたということであった。



本稿では〈正統ヤハウェ信仰〉がいつ、どのように、またどのような要因から古代イスラエルの宗教史の中に現出したのか、聖書時代のイスラエル、ユダヤの社会においてどの程度、多数派としての説得力をもち、規範的なものとして受け入れられていたのかという進行中の大きな学問上の議論は直接には扱わない。

その代わりに、十戒の最初の節に最も影響力のある形で明確に表現されている正統的信仰がもつ文脈上の意味と神学的重要性に焦点を合わせる。





特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年9月14日日曜日

偶像崇拝の2つのかたち




ナンシー・J・ダフ
全く間違った場所に神を置く」
(81号「ほかに神があってはならない」)



セシル・B・デミル監督の一九五六年の映画『十戒』の終わり近くに、イスラエル人の男女が金の子牛の像を囲んで踊るシーンと、シナイ山上で(火の柱演ずるところの)神が石板に十戒を刻みつけるのを(チャールトン・ヘストン演ずるところの)モーセが見ているという場面が並置されている。

山の麓にいるイスラエル人が脅えて、新しく作った偶像に人身供犠を捧げようとしていたとき(聖書にはこうした場面はない)、神はシナイ山頂上から紛ごうことなき男性の声で大音声に戒律をひとつひとつ告げ、火の柱から繰り出される明らかに長い指のように見える炎が石板にヘブライ語を刻みつける。

今日、この映画のこうした視覚表現の多くは五〇年も前に作成されたことを鑑みれば賞賛されるものではあるけれども、神の描写は当時でさえおかしなものだった。

皮肉なことに、イスラエル人が造った金の子牛の場面よりも、火の柱と大音声の男性の声で神が表現されている場面の方がなぜ神の像を造ってはならないのかを示す例としては適している。




神の像を造ることを禁ずる戒律は二通りに解釈される。

ひとつは偽りの神を礼拝することの禁止とするものである。冒頭の例で言えば、奴隷状態から解放してくれた神に代わるものとして金の子牛を造ったことである。

今日のキリスト教徒がよく用いる解釈では、神以外の何かに忠誠を捧げている考え、活動、行動は何であれ金の子牛を崇拝することであるとされる。

説教ではよく経済的な成功や性的な快楽を際限なく追求することが今日における「金の子牛」とされるけれども、他にも同様の例は多い。

たとえば、あるウェブサイトではリック・ウォーレンの著書『人生を動かす目的』のことを現代版「金の子牛」だといっており、別のサイトでは現代の典礼舞踏がそれに当たるのではないかとしている。

現代において偶像をいかなる解釈学的立場で考えるとしても、十戒第二戒には反するとされる。




第二戒のもうひとつの解釈では「神のいかなる像も造ってはならない」という禁止であるとされる。

この場合に問題となるのは、偽りの神を礼拝する偶像崇拝ではなく、真の神に間違った表現を与えることである。

冒頭の例で言えば、エジプトの地から連れ出してくれた神を金の子牛によって表現したことがそれに当たる。

イスラエル人はその神を信じるのを止めたわけではなく、具体的で親しみのある何かに神の場所を定めることで、長引いているモーセの不在の間、安心を見出す必要があったのだろう。

問題は当然のことながら、神がどこでどのように自らを顕しているのかを見極めようとはせず、イスラエル人が自分たちで選んだ形で神を表現する像を造ったことにある。

さらには一旦神が具体的な物に関連づけられれば、人は神の実在性と力がそうした物を超えて存在し、それに審判を下しさえするものだということを忘れようとする誘惑に抗しきれなくなる。

 



特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

2014年9月6日土曜日

86号「対話を求めて」 目 次



9月10日発売




特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月
定価2000円+税




まえがき


 T・C・マック Terry C. Muck
パラダイムを越えて ──ニッターとヒック以後の諸宗教の神学── 

ポール・ニッターもジョン・ヒックも〈排他主義・包括主義・多元主義〉というパラダイムに強く依拠している。宣教活動がますます不審に思われるようになっ ている世界において、このパラダイムを越えて活動するには、より大きな神学、より広い方法論、そして、「参与による神学形成」に特徴づけられる、より深い 宣教論が必要になる。


M・ファリーナ Marianne Farina
テリー・マックへの応答

エイモス・ヤン Amos Yong
「パラダイム」は越えられるのか ──T・マックの提案に対する応答──




デイヴィッド・バレル David Burrell
一神教の対話 ──ジャン・ダニエルーの宣教論再考── 

ジャン・ダニエルーの宣教の視点からなされた省察はキリスト教の他宗教との関係に関する現状への評価手段を与えてくれる。ここではバーナード・ロナガンの 洞察を中心に、ほぼ六〇年にわたって繰り返されてきた神学上の実践を示していく。タリク・ラマダンによる最近の省察はどのようにすればそれを制度的な中心 とすることができるかを示してくれている。 
      【Keyword】 タリク・ラマダン(Tariq Ramadan)、Jean Daniélou カール・ラーナー(Karl Rahner)、「新神学」、第二バチカン公会議、ルイ・マシニョン(Louis Massignon)
     

 マイケル・バラム Michael Barram
宣教のための聖書解釈に向けて ──聖書と宣教、その社会的位置──

宣教学と聖書学の長期にわたる隔たりにもかかわらず、最近では聖書解釈における社会的位置づ けの重要性が強調されるなど、両分野の収束の傾向が強まっている。それは聖書への批判的で信仰に満ちた取り組みの鍵として、キリスト教共同体の宣教学的 「位置づけ」が優先される「宣教のための聖書解釈」の機が熟していることを示唆する。


テクストと説教の間
出エジプト記20章1―6節(K・L・ロバーツ)
詩編36編5―11節(R・A・ジェイコブソン)
ヨハネによる福音書19章38―42節(P・L・リディット)
フィリピの信徒への手紙2章1―11節(R・J・アレン)


 書評紹介  (榊原芙美子、吉谷かおる、山野貴彦ほか訳)
ローランド・E・ミラー著『イスラムと福音の橋渡し』
ロバート・W・ジェンソン著『雅歌』
J・シェリル・エグザム著『雅歌註解』
ジョン・J・コリンズ著『聖書神学との出会い』
ダグラス・F・オッターティ著『絶滅危惧教派のための神学』


2014年9月4日木曜日

86号「対話を求めて」まえがき

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742667/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742667&linkCode=as2&tag=mmiyas-22

特 集

対話を求めて

第86号 2014年9月(14年9月10日発売)
定価2000円+税





 

まえがき

 

本誌の読者であれば、長年にわたって続いている一連の特集の中で、「今日、○○についてはどのように言われているのか」といったテーマ設問には親しんでいるはずである。

このシリーズの眼目は専門家ではない人や学生に聖書学と神学における最新の情報をもたらすことにある。

今日、専門家は三位一体について何を言っているのか。

ヨハネ福音書の研究はどこへ向かおうとしているのか。

誰の理論が聖書の歴史的理解をリードしているのか……。
 



本号も同じような目的をもっている。探求される分野は「諸宗教の神学」〔キリスト教以外の宗教への理解を通じてキリスト教の神を理解しようとする研究〕である。

それを今日の神学における喫緊の課題と確信しているキリスト教徒が多いかどうかは問題ではない。

通信技術の新しい形態と、ここ数十年に新しい国へと移っていった何百万もの人の存在は、これまでに経験したことのないような形で異なる宗教を互いに近い位置に置くことになった。

異なる信仰をもつ人とともに生きていく術を学ばなければならない状況がますます増えてきているのである。

西洋社会ではかつてはなじみが薄かった宗教が今や会話の深いところに現れるようになってきており、公的な生活の中で宗教が占める場に関する議論はさらに複雑になっている。

異なる宗教の許容を要求する暴力という世界的規模での脅威は、身近にいる宗教的な他者との最善の関係を複雑なものにしている。

自分が属する信仰グループの外にいる人々を理解しようとする気持ちが時にそうした暴力への恐れによって完全に蝕まれてしまうこともある。
 




「諸宗教の神学」は他の宗教との平和的共存への戦略を考案することをその第一の目的としているわけではない。

どのように他の宗教共同体の信者とその伝統に敬意を払ったらよいかというのがその大きな関心事である。

キリスト教の外側に存在する他宗教の信仰、宗教的であるということの無数の意味をキリスト教神学として総合的に説明を試みる―これがよく知られた諸宗教の神学の定義のひとつであろう。

この分野では「排他主義」「包括主義」「多元主義」という標準的なパラダイムが三〇年以上にわたって広く認められてきた。

これが長く保持されてきたということは、それが有効であったということである。

しかし、今日、諸宗教の神学に携わる研究者のすべてがそれに満足しているわけではない。

では、何が重大な問題とされているのだろうか。

その議論の最前線の状況はどのようなものなのだろうか。

神学の教育課程の中ではどのような工夫が実践されているのであろうか。


テリー・マックによる最初の論考ではそうした問題を議論するための素晴らしい舞台が設定されている。


ポール・ニッターとジョン・ヒックの業績を通して形成された「パラダイム」がどのように生じてきたのかを示すことから始め、「ニッターの子ら、ヒックの娘」と言われるように、この一世代ほどの間、物事の見方がそれに広く影響されてきたことを明らかにし、その支配的な仮説にはいくつか弱点があることをマックは確認していく。

彼の将来への提案は既存のテーマを少し変形させたものなどではない。

ヒックとニッター、また彼らの以前からの支持者の多くがいつも設定してきた問いとは異なる問いがそこでは提起されている。

その問いは広義のキリスト教共同体における神学全体を見渡す思考法を刺激するものとなるであろう。
 



エイモス・ヤンとマリアンヌ・ファリーナはそれぞれ全く異なる背景と学問的な関心からマックの論考に応えている。

ヤンは学問としての神学を研究しており、ペンテコステ派の視点から諸宗教の神学について広く意見を表明している。

ファリーナはキリスト教とイスラム教がもつ倫理伝統の徹底された基礎の上に、バングラデシュで一〇年以上カトリックの修道会宣教シスターとして異文化交流をした経験をつけ加えている。

ヤンもファリーナもマックの「参与による神学形成」という考えに注目している。

ヤンはこの概念は別の文化に直接参与して観察するという文化人類学の手法と類似しているとして、その限界を詳しく調査し、その上で、このアプローチが哲学的な前提に捕らわれずに「パラダイム」の中で生活様式を知的に表現しているかどうか考えている。

ファリーナは異なる信仰をもつ人々とともにそれぞれのテクストを相互に読み合うというカトリックにおける研究に結びつけながら、マックの研究について、バングラデシュの地でキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ人、仏教徒、ヒンドゥー教徒などと交流した経験においてすでに見出されている異教間の関係のあり方の方向性を示すものと見ている。
 



デイヴィッド・バレルはイスラム教徒とキリスト教徒の接点について、より細かく、さらに挑戦的な切り口を試みている。

その出発点はカトリックの神学者ジャン・ダニエルーの第二バチカン公会議以前の知見である。

ダニエルーは聖霊の導きに従おうと望む宣教師は神の創造のあらゆるところに神の活動の証拠を探し求めると考えた。

「聖なる歴史は常に継続しており、それは聖霊によって成し遂げられる。

すべての精神的な創造は神によるものである」とダニエルーは述べているた。

ダニエルーの見方を受け入れるのであれば、キリスト教徒は西洋社会におけるイスラム教徒と関心を共有していることが分かるだろう。

特に、タリク・ラマダンを支持する西洋のイスラム教徒は自分たちの宗教的アイデンティティが活性化され、敬意を受けている文書と豊富な伝統に基づいた新しい環境の中で創り出される「証言の領域」にいると感じているという。

こうした状況における対話がキリスト教徒に与えられた真理を改めて評価し直す方法になるのではないかとバレルは提案する。



 

聖書学者マイケル・バラムによる最後の論考ではこの問題がさらに詳しく論じられている。

バラムが関心を寄せているのは今日聖書を解釈するとき、宣教的な解釈を用いる必要性である。

バラムによれば、新約聖書に宣教的に取り組むべき理由は、それが当初読まれた初期教会の時代はまさに宣教的な性格をもっていたと考えられるからである。その時代は不安定で、宗教的な変化への可能性に満ちた社会的文脈にあった。

バラムの論考は宗教多元主義、「諸宗教の神学」とは関係がないように見えるかもしれない。

しかし、バラムがキリスト教共同体に対して聖書学と宣教学の助けを借りて取り組むよう呼びかけている課題のいくつかは、実際のところ、世俗的な西洋社会の中で暮らす多くのイスラム教徒らが感じている切実な問題とよく似ている。

彼らもまた古代のテクストと伝統をポストモダンの現実と関連づけるのに苦労している。

もしそうであるなら、教会の指導者は必要とされる自己検証と新たな基礎づけに向けた大きな努力の方向性をバラムの論考の中に見出すことになるだろう。

信仰篤いキリスト教徒はその努力を惜しまず、異教間の新しい出会いに備えている。

そのような機会は今日、ほぼすべての教会において以前にもまして当然のように生じているのである。

 



スタンリー・H・スクレスレット




今号はゲスト編集責任者にユニオン神学校―PSCEの宣教学F・S・ロイスター記念教授スタンリー・スクレスレット氏を迎えた。同教授はエール大学で博士号取得後、米国長老派教会の宣教師としてエジプトのカイロで八年間、教鞭をとった。著作にStanley H. Skreslet, Picturing Christian Mission: New Testament Images of Disciples in Mission, Eerdmans, 2006がある。




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