2014年6月18日水曜日

アウグスティヌスにおける愛





R・R・レノ「驕りと偶像崇拝」
(81号「ほかに神があってはならない」)より


人の個性とはその人の行為の総計ではない。

個性とは多くの個々の行動の軌跡である。

たとえば、ダイエットしている人も食べなくてはならず、食べるその瞬間にはカロリー摂取を増やそうとしている。

しかし、食物に対するその人の総体的な態度は厳密にはカロリーを減らすことにある。

カロリーを摂取することとカロリーを減らすことの両方を意図しているのは矛盾しているように思われるが、そうではない。

ダイエットは全体としての計画であり、食べるという個別の行為はその計画の一部なのである。

戦術的な退却は勝利を目指す戦略と矛盾しない。

人生の他の側面にも同じことがいえる。

アウグスティヌスによれば、人生における全体的な戦略は愛の構造の中に見出される。愛とは欲求に形を与えたものである。

ケーキを食べようとかソファーで昼寝をしようとか、そういう欲求は常に存在する。

しかし、ダイエットを計画し、実行することはそうした欲求の優先度を健康と適度な運動の遙か下に落とす。

甘いものを食べる楽しみよりも健康、昼寝の楽しみよりも運動を好むべきとするのは優先順位の問題であり、アウグスティヌスが愛という言葉によって言おうとしたのはまさにこのことなのである。



アウグスティヌスにおける愛の概念を説明するために、ここでは個性という近代の概念を用いたが、このアプローチは危険を孕んでいる。

個性というものは定まったものと考えられる傾向にあり、流動的と考えられるとしても、個別の人間を構成する確たる中核があった上での流動性と見られる。

これほどアウグスティヌスの見方との違いが鮮明になるものはない。

アウグスティヌスは聖書の物語における終末論的な傾向を念頭に人間を常に動いているものと見ている。

われわれは自身の愛によって定義される動的な被造物であり、愛するものの方へと動いていく。

アウグスティヌスにおいては、われわれは非常に単純に自身の愛という錘あるいは推進力でしかない。

われわれが到達しようとする目的地、われわれが暮らしたいと思う未来、われわれが立てる計画−−こうしたものはすべて、外へ向けた魂の動き、今は存在しておらず、所有されていない何かに向けた動きである。

こうした動きが個人のアイデンティティを構成している。








特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

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