ヨハネ福音書と教会
第85号 2014年6月(14年6月2日発売予定)
定価2000円+税
まえがき
ヨハネによる福音書の研究ではこの五〇年の間、同福音書のメッセージの中で教会が果たす役割についての探求が盛んに行われてきた。
本号では「教会の福音書としてのヨハネ福音書」を共通テーマに、ヨハネ福音書の様々な側面を論じる四つの論考が展開される。
アラン・カルペッパーは一九五〇年代以降、ヨハネ福音書における教会の位置は神学、歴史、文学の視点からどのように定義されてきたかを調査する。
特に告別説教に注目しつつ、ヨハネ福音書における「教会の見取り図はヨハネの教会の実際を反映したものでは必ずしもなく、教会のあるべき理想」を形づくっていると論じられる。
そして、ヨハネ福音書における神と教会の深い関係の強調から、共同体における信徒相互の親交、世界との関係がキリスト論的、倫理的、宣教学的基礎であることが確認されていく。
「その見取り図は今なおわれわれに問いを発している」のである。
フランシス・マローニーは「聖書」という語のヨハネ福音書に特徴的な用法を調べ、
「イエスの死はイスラエルの神聖なる聖典における約束を実現するというだけでなく、その〝完全な終わり〟」をもたらすものであることを示している。
イエスの生涯、教え、そしてその死を「最後にして完全な〝聖書〟」(ヨハ二〇31)として読む「教会的な解釈」が上手く理解されるのは、霊の賜物によって力を与えられた「最愛の弟子の共同体」が深い「イエスへの信仰とイエスが神について知らせたすべて」を伴ったこのヨハネ福音書との出会いから生じたときだけだとマローニーは主張する。
メアリー・コロエはヨハネ福音書における神殿のイメージを焦点に、福音書の中で神殿の意味が信仰共同体において神の臨在を表現する建築物から、神の住まうところを体現するイエスにどのように移行していくかを論じている。
「神の臨在の神殿」としてのイエスはさらに、十字架のもとに成立する「神の新しい家族」に「世で進行中の神の臨在」としての役割を移す。
アディール・ラインハーツはユダヤ人の視点から、明らかにユダヤ教にどっぷりとつかっていたヨハネ福音書の記者が、長くキリスト教の反ユダヤ主義に重大な影響を与え続けた福音書をどうして生み出すことになったのかを問うている。
ラインハーツは難しいテクストの中に複数の解釈上の戦略を確認し、批評する(たとえば、ヨハ五18、八44)。
そして、「神の子であるためには悪魔の子である必要があるのか」という問いに正面から取り組む「連動的な解釈」に説得力ある論拠が与えられる。
ラインハーツの問いはカルペッパーによる巻頭の論考の結論部分と効果的に連携している。
「聖書解釈者に求められているのは、たえず変化する時代的な文脈においてその物語を解釈することである。
一方、教会に求められているのは聖書の物語に忠実であること、その福音を説き、共同体が今日において神の救済の目的をより十分な形で表すよう課題に向き合わせることである。
したがって、教会が聖書研究を支え、聖書研究が教会を育てるというのが最高の状態ということになる」。
S・E・バレンタイン
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