2013年6月10日月曜日

『イエスは誤解されている』




何年か前、SBLの年次大会に参加する機会があった。 SBL(Society of Biblical Literature)の年次大会は世界中の聖書関連の学会が合同で行う国際学会のようなもので、年に一回、アメリカの主要都市で開催される。

大きなコンベンションセンターを借り切って行われ、そこにはアメリカを中心に世界のキリスト教系の出版社が競ってブースを出す展示即売会のスペースも設けられているのが毎年の風景である。出席者たちは興味のある発表の合間を縫って、通常価格よりもかなり安い値段で出品される本を物色する。

その年、その即売会場で目を引いたのは何と言っても、大きな顔を一面に描いた宣伝ポスターだった。かなり大きなサイズのものが天井から吊されていたような記憶があるが、やや誇張されて記憶しているかもしれない。


The Misunderstood Jew:  
The Church and the Scandal of the Jewish Jesus

  


いずれにしても、会場のあちこちに貼られていたのは上右の図案のポスター。大きいとかなりインパクトがある。その後、版を重ねるにあたって、表紙をやや穏やかなものに変えたらしいが(上左)、この本のタイトルは直訳すると「誤解されたユダヤ人 —  教会、そしてユダヤ人イエスというスキャンダル」。

誤解されたユダヤ人」には「the」がついており、当然イエスを指すので、「誤解されたイエス」を経て「イエスは誤解されている」と訳せる。本の内容もだいたいそういったラインに近いようだ。ややセンセーショナリスティックなタイトルの付け方だが。

副題の中の「scandal」という英単語はキリスト教の文脈では誤解を招きやすい語だろうと思う。 普通はそのまま「スキャンダル」とするか、「醜聞」といった語が当てられる。英和辞典には普通、これに類する語しか載っていないし、一般にはそういう意味であり、英語でも主としてそういう意味であるようだ。

しかし、この場合は「躓き」と訳すのが妥当だろう。「つまずき」——厳密に言えば「躓きの石」。これが語源であるギリシャ語「スカンダロン」の原義。

「躓き」という語はほぼキリスト教用語と言っていい。もちろん「石に躓いて転ぶ」などの単純な場合のことではなく、「ある出来事によって信仰に疑いが生じる」というような意味の場合である。用法としては、牧師さんが「〜に躓く人もいます」などと言ったりするが、クリスチャンではない人には説明なしでは何のことやら理解できないだろうと思う。

いずれにせよ、副題は「ユダヤ人イエスという躓きの石」ということになる。「イエスという醜聞」よりかはかなりマシだろうが、それでもやはりセンセーショナリスティック。

もっとも、新約聖書では「キリストはユダヤ人への躓きの石」と言われてもいるのだから、問題ないかもしれないが、この本の内容はそういうものではないようだ。

著者のレヴァインはユダヤ人の新約学者。女性。かなり珍しい存在である。しかも、結構敬虔なユダヤ教徒であるらしい。その著者がユダヤ教を前面に押し立てて、イエスと新約聖書を論じているのがこの本であり、「イエスは誤解されている」というようなタイトルがつけられたわけだ。

次号「エレミヤの肖像」の書評で取り上げられており、かなり面白そうなので、読んでみようかと思ったのだが、主要な大学の図書館には入っていない。あまり学者さんたちの関心を惹かなかったのであろうか。図書費も湯水の如く使えるわけではないのだろうけど。

前回につづいて、キリスト教とユダヤ教の関係の話になった。この本もやはりシオニズム、反ユダヤ主義と関係しているらしい。

買って読もうか、どうしようか。

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【追】「センセーショナリスティックなタイトル」なんてことを言っていたら、すでに同じようなタイトルの本が教文館から出ていた。原書はドイツ語。こちらは現代における「誤解」が中心のようだ。


  
 R・ハイリゲンタール
『誤解されたイエス』 
(野村美紀子訳、教文館) 





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