2014年4月29日火曜日

エレミヤはなぜ嘆く


ヤハウェが統治しているという主張は人間の責任を軽減させることにはならない。

むしろ、ヤハウェがすべての民―とりわけ神の民―に自分たちの行動の責任を問うているとエレミヤは強調する。

「『お前たちはお前たちの悪の道から、今立ち帰り、お前たちの道とお前たちの行いを改めよ』。

しかし、彼らは言う。『そんなことは無駄だ。われわれはわれわれの計画に従う……』」(一八11―12)。

行為の主体性こそは憂慮すべき点があるとしても、エレミヤ書における希望の本質的要素である。

ユダの苦境は大方において自分たちの行為の結果であるという信念をエレミヤはもち続けている。
トーラーの価値の破綻、とりわけ真実、正義、共感する心の崩壊が混沌と破壊を引き起こすというのだ。

この倫理的見解がある意味、犠牲者たちを非難してしまう、ということは否めない。

ユダの民の肩に責任を負わせることは、エルサレム陥落の第一級戦犯を免責するということである(とはいえエレ五〇―五一章参照)。

この因果論的議論に問題があることは認めざるを得ないが、部分的には生存者が説明のつかない苦難を理解する方策のひとつとしての役割を果たしている。

自分ではどうすることもできない地政学上の力、自然の力の犠牲になってしまった人々にとって、主体性の再確立は、たとえ他者の犠牲を通してであれ、非難を受けることを通してであれ、希望と回復の核となる要素なのである。

それは危険な力を「無力」にし、「無秩序」を一掃する。

特に、共同体の危機は理由がないわけでも無差別なものでもなく、秩序の上でも道徳の上でも一貫した意味をもつ世界がもたらす帰結なのだということを例証する役割を果たしている。

そして、エレミヤ伝承は象徴、知性、感情の混沌を抑制し、それを意味の一貫した脈絡の中に位置づけるために、申命記的理解や契約理解を含む様々な比喩を集めている(例えば、一一1―17参照)。



ルイス・J・スタルマン 
危機における希望の使者エレミヤ
 (インタープリテイション82号「エレミヤの肖像」



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特 集

エレミヤの肖像

第82号 2013年9月
定価2000円+税







2014年4月24日木曜日

聖書の朗読と説教 カルヴァン時代の変化



三年サイクルの聖書日課が採用されるまで、少なくとも長老主義教会、合同キリスト教会、合同メソジスト教会の牧師たちが聖書日課をほとんど使っていなかったことを考えると、聖書日課使用の広がりは非常に重要である。

カルヴァンと一六世紀の改革派の人々は中世の聖書日課を捨て去った。

カルヴァンの抵抗が聖書日課という原理そのものに対するものであったのか、彼の知る唯一の聖書日課に対するものであったのかは定かではない(おそらく後者であろうと思われるが)。

 


一年サイクルの中世の聖書日課は聖書の本文を断片に切り刻んでしまい、聖書朗読には連続性がほとんどなかった。いわゆる「年間」と呼ばれる〔特別な祝祭などがない〕期節の日曜日の聖書朗読は場当たり的に選ばれたように見える。

日曜日のミサに旧約聖書が朗読されることはなく、多くの重要な新約聖書テキストも省かれ、また指定された単元の間には明確な関連性を見出せないものだった。

さらに、特別な儀式や聖人の祝日が激増したため、復活の証言としての主の日そのものの影が薄くなりがちであった。

これらの現象がカルヴァンの聖書日課に対する信用を損ねた。

ルターや英国国教会はいくらかの改定をして中世の聖書日課を保持したが、カルヴァンはすべて放棄し、教会暦を徹底的に簡素化したのである。




ジュネーブにおいては週日の説教は旧約聖書から、日曜日には新約聖書からなされていた。

カルヴァンの方式は「レクティオ・コンティヌア」と呼ばれ、聖書の特定の書を直接続けて説教するものであった。

しかし、例外として聖週、復活日、聖霊降臨日、クリスマスなどには、その日に適したテキストから説教し、レクティオ・コンティヌアは中断される。これは現在の『改定共通聖書日課』と大きく異なる方法ではない。


R・バイヤース
アドベントの贈り物 ― 終末における約束 ―」
(インタープリテイション83号「アドベンドと典礼」)

 



特 集

アドベントと典礼

第83号 2013年11月
定価2000円+税



2014年4月19日土曜日

ヨハネ福音書を読み返すなら



 

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ヨハネ福音書をもう一度読み直そうと思っているのであれば、その前に是非とも次号85号「ヨハネ福音書と教会」をお読みいただきたい。

 

ヨハネ福音書の中に隠されている意図や文脈、同じ表現による関連づけなどは、すでに何度もお聞きになっているだろう。

ヨハネにはそういう要素が特に多く、それがヨハネが言わんとすること全体に関わっているが、そこに理解し難い理屈があるわけではない。

 

説教などで話として聞くときでも、一度文章として読んだことは受け入れやすい。

説教の中では「少しむずかしいかな?」と思うようなことも、文章で読むと、意外に理解しやすかったりするものだ。

 

牧師さんの話を聞くときの心持ちは、本を読むときの心持ちとは同じではない。

本当はわかるようなことでも、話に接するタイミングによって、理解できないということはよくあることなのだ。

 

教会に通っている方であれば、例えば、次号「ヨハネ福音書と教会」で読んだことは、必ず教会の説教で再び出会う機会がある。

その時には、以前と似た内容の話であっても、受け取る側の思いは別のものになっている。

知識をため込むことが目的ではない。

受けとめる準備がいつの間にかできているということだ。

 

つまり、あらかじめ本などで復習してから、改めて聖書に接すると、知っていたはずのことが別の形で入ってくる。

これは何もヨハネ福音書に限った話ではない。

物事一般に言えることではある。

 

しかし、次号のヨハネ福音書の特集は「知っているはずのこと」に別の形で出会ういい機会になるだろう。

そういう構成になっている。

研究の流れ全体をわかりやすく解説してから、本題に入っていくのが、インタープリテイションのよいところのひとつだ。

この点が一般の専門学術論文とは違う。



近世以来、ヨハネ福音書はどのように受けとめられてきたか。

その変遷を一望にしてから話は進んでいく。

 


『日本版インタープリテイション』で福音書そのものが特集のテーマになるのは、1996年の第37号以来、実に18年ぶりのこと。


予約があれば、発行数日で確実にお手許に。


6月10日刊行予定。







2014年4月13日日曜日

家族のあり方



二〇世紀以来、コロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉とギリシャ・ローマの著述の間には並行関係があると指摘されてきた。

この研究の先駆者のうち、ディベリウスおよびその弟子ワイディンガーなどは〈家族のあり方〉の著者がストア哲学の影響下にあったと強調している。

その後、クラウチらがストア派の並行例は形式、内容の点でこことは似ていないことを論証し、フィロン、ヨセフスといったヘレニズム時代のユダヤの著述家たちに影響されたものと主張した(フィロン「ユダヤ人のための弁明」七14、ヨセフス『アピオンへの反論』巻二190─219)

最近では、バルチがアリストテレス『政治学』の教え(一巻一二五三b1─14)につながるヘレニズム時代の通俗哲学との類似性を発見している。



まとめれば、こうした伝承批判上の発見から分かることは、家庭の問題に向けた新約聖書の記述、特にコロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉がギリシャ・ローマの環境下によくあっていたということである。

その上、言及したキリスト教のものではない著述は哲学、政治、宗教において広範な方向性をもっているにもかかわらず、コロサイの信徒への手紙の著者がむしろ無批判に受け入れている根強い文化的な諸前提を反映している。

集団は別の集団に服従するということが一世紀の地中海世界の思考の中に埋め込まれていたということがそうした前提の最たるものであろう。

現代において「服従せよ」という命令に怒りを感じる人は、この手紙の元々の受け手と自分の間を隔てている裂け目を認めなければならない。


この話題に関する世俗の著述を一貫して固く支えている補助的な前提は、整然とした家庭生活が秩序ある社会を確実なものとし、各人の地位をその秩序内に受け入れるということが高潔な目的であるという観念なのである。

こうした立場はプラトンとアリストテレスによって整理され、ヘレニズム時代のユダヤ人の著作家たちも同様の主張をした
(『国家論』四巻43B、『ニコマコス倫理学』五巻一一三四b・9─18、『政治学』一巻一二五二─一二五三)

コロサイの信徒への手紙では家庭の秩序と社会秩序は近い関係にあるのである。



それゆえ、コロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉では妻は夫に(コロ三18)、子は親に(三20)、奴隷は主人に(三22)従うよう勧められており、大筋において当時の世界の価値感を反映したものになっている。

その世界における階層的な社会秩序を否認する計画をこの個所に読み込もうとしても無駄であろう。

コロサイの信徒への手紙の著者にしてみれば、今日の著述家と同様、家庭は社会の縮図であり、その一員は自分たちが生きる世界によって確立された関係の基準に従って行動することが推奨されていたのである。



S・W・ヘンダーソン「テクストを自在に用いる ―コロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉に見る解釈の枠組み―」(インタープリテイション84号 「他者」へのまなざし)





特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税






2014年4月8日火曜日

「詩的表現」とパウロの救済論




D・マーク・デイヴィス
「神の業への驚き ―パウロの救済論の中心―」
(84号「他者」へのまなざし)



パウロは論証的な言葉では恵みの神秘を十分に表現できないという意識で活動していただろう。

それゆえ、パウロは論証的な議論の終わりを詩的な言葉、すなわち口にされたことを超えて言い得ぬことに到達する過剰の言葉を用いることで結んでいるのである。



ここまで、キリスト教徒とユダヤ人の間にある「他者性」に直面したパウロのユダヤ人としてのアイデンティティは契約と律法の順序と預言書における神の根本的な自由を通して、ひとつの救済物語のなかに複数の救済体験を見る可能性を見出したということを示してきた。

また、ローマの信徒への手紙の区切りで用いているパウロの詩的な言葉は、五巻に分けられる詩編のそれぞれの結びにおける賛美の祈りと同種のものであり、同じくユダヤの伝統に属すものであった。

そして最後に、パウロが詩的な過剰の言葉を用いているのは、論証的な言葉を越えたところに認識上の高みがある神の素晴らしい愛の神秘を示すためであった。



ここでの議論をまとめれば、パウロの詩的な表現はその論証的なテクストの後に溢れ出た偶発的な言葉ではないということである。

それはむしろ、パウロが論証的な論争を通して詳しく説明しようとしている「神秘」があまりに驚異的なものであったため、それを捉えて、十分に表現することができなかったということなのである。

このように、ここでの詩的な表現はパウロの救済論の中心にある驚きの深さと「他者性」をめぐるパウロの議論の基礎を示している。









特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税






2014年4月3日木曜日

「成就」と「実現」



 聖書の日本語訳のことをちょっと考えてみる。

2018年で新共同訳が使われるようになってから30年になる。あと4年。

それ以前に多く使われていた邦訳は「口語訳」と呼ばれる。今でも、それを使い続けている方も当然いるだろう。まだ売っているし、変えるタイミングを逸して今に至る教会もあるだろう。

さて、ヨハネ福音書の主張に「イエスの出来事によって聖書が実現した」というのがある。

旧約聖書の預言書などに書かれていることが、イエスの出来事によって「実現した」という意味である(ヨハネ福音書19章36節など)。

この主張に発する神学上の展開はおくとして、この「実現」は口語訳では「成就」と訳されていた。今でも牧師さんによっては、「聖書の成就」と言っている人がいるのではないだろうか。

原語のギリシャ語では「プレロオー」という動詞、あるいはその派生語である。

「聖書の言葉が実現するためである」

「聖書の言葉が成就するためである」

「聖書の実現」

「聖書の成就」

この違いを30年で日本人は消化できたのだろうか。

現在進行中の新共同訳に代わる新訳ではどうなるだろう。












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