2014年2月27日木曜日

84号「他者」へのまなざし  まえがき




http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742624/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742624&linkCode=as2&tag=mmiyas-22
特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月(14年3月7日発売予定)
定価2000円+税







わたしたちは「他者」をどのように見ているだろうか。

世界はさまざまな民族と習慣と価値が織りなす万華鏡のようなものであり、そのそれぞれはひとつとして同じではないことを考えれば、この問いは必然である。

意識するしないにかかわらず、わたしたちは国際的存在、世界市民だが、世界を狭く見ようとする傾向があり、それが他者への見方も狭いものにしている。

考えをもち、行動するのはわたしたちで、「他者」はわたしたちがラベルを貼り、規定し、価値を設定する対象でしかなくなる。

多文化的な世界の要求とは和解していると思っていても、使う言葉の中に隠されているものが表われてくる。

一九五〇年代から六〇年代には、他の文化に対する不安は「カルチャー・ショック」と表現された。

九〇年代以降は「文化戦争」と言われている。
 


本号は聖書およびキリスト教神学における「他者」について考える四本の論文を掲載している。


クリスティン・スウェンソンはよく知られている「わたしは弟の番人でしょうか」(創四9)というカインの問いを焦点に、この問いに「そうだ」と簡単に答えるときに見逃されていることについて論じている。

その答えは結局は正しいのだが、そこには検討せずにただ「そうだ」と答えるだけでは済まされない「深い生態的、社会的、神学的意義」がある。
 


ロドニー・サドラーは「聖書は人種論的な他者について何といっているか」を問う。

誤って解釈されることの多いクシュ人に関するテクストを詳しく解釈しながら、「聖書に『人種』という最終的には不和を生じさせる概念を読み込もうとする」議論が慎重に解体されていく。

その結論は預言者的な改革への呼びかけとなっている。

人種論的思考とは「人間が作り出したものであり、人間が神の恵みをもって壊すことのできる社会構成概念」にすぎない「人種」に依拠したものなのである。
 


D・マーク・デイビスは「キリスト教が恵みのメッセージと敵を含む他者への愛という独特な戒律をもっているにもかかわらず、長く文化戦争の最前線にある」ことを認め、すべてを包み込む神の恵みという「神秘」と「驚き」を焦点に、パウロの救済論からその状況を改善する重要な手段を提案する。

「パウロの他者との出会いが示しているのは、信念に基づいてではなく、すべての被造物は主イエス・キリストにおける神の愛と分かちがたく存在しているという謙虚な確信に基づいて他者を包み込むということ」とデイビスは結論する。

 

コロサイの信徒への手紙三章18節―四章1節の〈家族のあり方〉はスーザン・W・ヘンダーソンが示すように、「どの時代の確立された社会的慣習に対しても忠実なキリスト教徒の応答」に繫がる「創意に富んだ幻」を示す。

「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行いなさい」(コロ三17)という第一の基本となる教えに従えば、「完璧な調和においてすべてを結びつける愛」(コロ三14)によって、すべての関係は変えられることが分かる。



 

本号が出版される頃にも、アメリカおよび海外の新聞の見出しはイラク、アフガニスタン、ガザ、レバノンという複数の戦線における「他者」との戦争を日々伝えていることだろう〔英語での刊行は二〇〇六年〕。

本号はそうした問題を見越して企画されたのではなく、本号の各論考はそうした問題を直接扱ってはいない。

とはいえ、「非常によい」とされた世界(創一31)に向けた神の永続的な希望と期待に従って「他者」とともに生きていくにはどうすればよいか、建設的な考えに繫がることを本号から読み取っていただければ幸いである。

J・A・ブラッシュラー
S・E・バレンタイン

2014年2月21日金曜日

84号「他者」へのまなざし  目次




3月7日発売予定



http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882742624/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4882742624&linkCode=as2&tag=mmiyas-22

特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月(14年3月7日発売予定)
定価2000円+税





まえがき

クリスティン・M・スウェンソン
エデンの東を守り、保つ ──エデンの園から見るカインとアベルの物語──」

「わたしは弟の番人でしょうか」という問いは何世紀にもわたって、戦いを好む者が人を殺したときに使うレトリックとして用いられてきた。しかし、聖書では創世記二︱四章という大きな物語の中で、ある動詞が現れ、消え、再び現れていることで、この問いは驚くほど広い意味をもった純粋な問いとなっている。この問いに答えることは他者のために、また他者ともに、神の存在を仲介するという複雑に絡んだ責任に関与することなのである。

 
ロドニー・S・サドラー Jr
クシュ人はその肌の色を変えられるだろうか ──クシュ人・「人種的他者化」・ヘブライ語聖書──」

聖書に見える人間の相違をどう扱うかは、特にそれがクシュ人に関するとき、問題を引き起こす。クシュ人はヘブライ人に「人種論的に他者」と見なされていたのだろうか。それとも、環境がもたらした特徴と文化習慣の相違が今日よりも重視されていなかったということなのだろうか。


D・マーク・デイヴィス
神の業への驚き ──パウロの救済論の中心──」

パウロはローマの教会に向けた非常に教訓的な手紙の中で戦略的な機会を捉えては詩的な表現を用いて救済の教理の中心にある驚きの感覚を開示する。



S・W・ヘンダーソンテクストを自在に用いる ──コロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉に見る解釈の枠組み──」

「キリストにおける新しい命」を家庭内の関係にどう当てはめたらよいかをコロサイの信徒への手紙三章18節ー四章1節から探究する。その〈家族のあり方〉を時代を超えた社会構造の雛型として見るのではなく、時代に縛られた、現代とは無関係の古めかしい慣習への反省として見るのでもなく、現代の一般的な文化慣習にキリストの支配をどのようにダイナミックに適用できるのか、この個所が伝えるどの時代の教会にも通じるメッセージとは何なのかを検討していく。



テクストと説教の間
詩編126編 (ルアン・スノー・フレシャー)

イザヤ書62章6―12節 (ポール・K・フッカー)

ルカによる福音書2章1―14節 (マーサ・L・ムーア=ケイシュ)

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 五章12―24節 (トーマス・W・カリー)


 書評紹介 
ジェームズ・L・メイズ著『詩編による説教と教え』

テレンス・E・フリートハイム著『旧約聖書の神と世界─関係性の創造神学─』

デイヴィッド・M・カー著『心の石板に刻む─聖書と文学の起源─』

ジェームズ・L・クレンショウ著『神を弁護する─悪の問題への聖書の応答─』

リチャード・R・オスマー著『会衆を教えるという使命』




IP Store