R・バイヤーズ
申命記6章1-15節(テクストと説教の間)
81号「ほかに神があってはならない」より
現代の文化は宗教への特定的な関与に不寛容である。
その関与は特定的であれば、その特定性ゆえに排他的なものとなる。
しかし、あることに関与しているからといって他のことを拒絶するというのは了見が狭くないだろうか。
忠誠を要求する者の中から忠誠の対象を識別するというのは実は心が狭いことなのではないだろうか。
自動車であれ、不動産業者であれ、経済理論であれ、哲学であれ、神学であれ、神々であれ、それぞれは実際には等価であり、そのうちからひとつを選択する必要などないのではないだろうか。
何らかの信仰に身を投じるときには、非常に重要な何かが問われることになる。
カンタベリー大主教であったウイリアム・テンプルはかつて
「もし神について間違った認識をしているのであれば、信仰深くあればあるほどその人にとってよくない。無神論者であった方がいい」
と述べたという。
神のことを遠くにいて、冷淡で、無関心な存在と思いながら、その神に関わっているとしたら、それは問題ではないだろうか。
もしくは、神はわれわれが嫌悪する相手を同じく嫌悪すると思いながら、その神に関わっているとしたらどうだろうか。
あるいは、お気に入りの者にはよいものを与え、気に入らない者は苦痛で悩ます神と考えているとしたらどうだろうか。
われわれには何も求めず、試練も与えず、われわれが熱心に取り組む課題に割って入るようなことは決してない神にすべてを託しているとしたら、それは問題ではないのだろうか。
気分や興味の対象が変わるたびに、今はこの神、次はあの神と、神々の中からその時々に好きなものを選んで信じる方がよいのだろうか。
申命記で神が「妬む神」とされているのは些細な理由からではなく、世界の繁栄とわれわれの幸福がわれわれの仕える神の性格にかかっているからなのである。
特 集
ほかに神があってはならない
第81号 2013年5月
2000円+税
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