ロジャー・J・ジェンチ
「エレミヤ書8章18節―9章2節」
「エレミヤ書8章18節―9章2節」
82号「エレミヤの肖像」より
強制収容所でナチ党員が二人の男と一人の少年を絞首刑に処した日のことを述懐したエリ・ヴィーゼルの文章がある。
二人の男はただちに息絶えたが、少年はもだえ苦しんだ。見ていた一人が「神は今どこにいるのか」と問いかけた。
すると、
「(神は)絞首縄にかかっている」
と誰かが答えたのだという。
この話から神の脆さについて多くのことが語られてきたが、ヴィーゼルのように、その体験が「わが神とわが魂を抹殺し、私の夢を塵芥に変えた」とまで言い切れる人はまずいない
(この話はPaul Fiddes, Participating in God: A Pastoral Doctrine of Trinity, 2002, 154に語られている)。
この言葉は私たちの多くが到達しえないほどに深みをもつ。
しかし、神義論に関わるこの言葉を反転させ、いかにして神に対する人間のあり方を正当化しうるのか、と問うならば、このエレミヤの詩文における神の悲嘆もまた深みを湛える表現となる。
神さえもこの民から目をそむけようと願ったというのだから。
「ああ、荒れ野に旅人が宿る場所を見出せるなら、わたしはわが民を棄て、彼らから離れ去るものを」(九1)。
じつに、エレミヤは「主はシオンにおられないのか」(八19)とまで問うている。
それは、神はわれらの教会におられるのか、洗礼は正しいのか、キリストが聖餐に臨在されるのか、と問うに等しい。
エレミヤの肖像
第82号 2013年9月
定価2000円+税
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