マイケル・バラム
「宣教のための聖書解釈に向けて」
「宣教のための聖書解釈に向けて」
(86号「対話を求めて」2014年9月発売予定)
「宣教」という語は教会の全体にかかわる目的あるいは使命と規定されていると多くの人が考えているかもしれないが、形容詞として形missionaryはほぼ常に遙かに狭い意味で使われている。
たとえば、パウロ研究者はこの形容詞をほぼ「福音伝道」(evangelism)の意味で用いている。
実際のところ、この語感はかなり広がっており、missionaryという形容詞に全体論の理解を取り戻すのは容易なことではないだろう。
「宣教」を全体論的に解釈させる形容詞は他にないので、常識的な語彙がどのように用いられているのかを理解するようにするしかない。
残念ながら、多くの場合、この「宣教」という特別な言葉の意味をすべての人が理解し、それに同意しているという前提で文章は書かれている。
用語上の不正確さは結局のところ、聖書が伝える教会の使命についての理解を識別し明言するときの妨げになっているかもしれない。
こうした理由から、missionalという別の形の形容詞を実験的に用いる人も増えてきている。
ちょっとした新語ではあるが、聖書と宣教に関係する文章を書く人たちの間では認知されつつある。
この語は教会の伝道上の援助活動を含みつつ、それに限られない形で、教会の目的あるいは使命について、より広く、より適切に全体論な意味で使われているように思われる。
とはいえ、新約聖書の研究者が宣教に関して、用語上の正確さの必要性に気づき、それを受け入れるのには多少時間がかかるかもしれない。
対話を求めて
第86号 2014年9月
定価2000円+税
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