「成就」と「実現」
聖書の日本語訳のことをちょっと考えてみる。
2018年で新共同訳が使われるようになってから30年になる。あと4年。
それ以前に多く使われていた邦訳は「口語訳」と呼ばれる。今でも、それを使い続けている方も当然いるだろう。まだ売っているし、変えるタイミングを逸して今に至る教会もあるだろう。
さて、ヨハネ福音書の主張に「イエスの出来事によって聖書が実現した」というのがある。
旧約聖書の預言書などに書かれていることが、イエスの出来事によって「実現した」という意味である(ヨハネ福音書19章36節など)。
この主張に発する神学上の展開はおくとして、この「実現」は口語訳では「成就」と訳されていた。今でも牧師さんによっては、「聖書の成就」と言っている人がいるのではないだろうか。
原語のギリシャ語では「プレロオー」という動詞、あるいはその派生語である。
「聖書の言葉が実現するためである」
「聖書の言葉が成就するためである」
「聖書の実現」
「聖書の成就」
この違いを30年で日本人は消化できたのだろうか。
現在進行中の新共同訳に代わる新訳ではどうなるだろう。
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