2014年4月13日日曜日

家族のあり方



二〇世紀以来、コロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉とギリシャ・ローマの著述の間には並行関係があると指摘されてきた。

この研究の先駆者のうち、ディベリウスおよびその弟子ワイディンガーなどは〈家族のあり方〉の著者がストア哲学の影響下にあったと強調している。

その後、クラウチらがストア派の並行例は形式、内容の点でこことは似ていないことを論証し、フィロン、ヨセフスといったヘレニズム時代のユダヤの著述家たちに影響されたものと主張した(フィロン「ユダヤ人のための弁明」七14、ヨセフス『アピオンへの反論』巻二190─219)

最近では、バルチがアリストテレス『政治学』の教え(一巻一二五三b1─14)につながるヘレニズム時代の通俗哲学との類似性を発見している。



まとめれば、こうした伝承批判上の発見から分かることは、家庭の問題に向けた新約聖書の記述、特にコロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉がギリシャ・ローマの環境下によくあっていたということである。

その上、言及したキリスト教のものではない著述は哲学、政治、宗教において広範な方向性をもっているにもかかわらず、コロサイの信徒への手紙の著者がむしろ無批判に受け入れている根強い文化的な諸前提を反映している。

集団は別の集団に服従するということが一世紀の地中海世界の思考の中に埋め込まれていたということがそうした前提の最たるものであろう。

現代において「服従せよ」という命令に怒りを感じる人は、この手紙の元々の受け手と自分の間を隔てている裂け目を認めなければならない。


この話題に関する世俗の著述を一貫して固く支えている補助的な前提は、整然とした家庭生活が秩序ある社会を確実なものとし、各人の地位をその秩序内に受け入れるということが高潔な目的であるという観念なのである。

こうした立場はプラトンとアリストテレスによって整理され、ヘレニズム時代のユダヤ人の著作家たちも同様の主張をした
(『国家論』四巻43B、『ニコマコス倫理学』五巻一一三四b・9─18、『政治学』一巻一二五二─一二五三)

コロサイの信徒への手紙では家庭の秩序と社会秩序は近い関係にあるのである。



それゆえ、コロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉では妻は夫に(コロ三18)、子は親に(三20)、奴隷は主人に(三22)従うよう勧められており、大筋において当時の世界の価値感を反映したものになっている。

その世界における階層的な社会秩序を否認する計画をこの個所に読み込もうとしても無駄であろう。

コロサイの信徒への手紙の著者にしてみれば、今日の著述家と同様、家庭は社会の縮図であり、その一員は自分たちが生きる世界によって確立された関係の基準に従って行動することが推奨されていたのである。



S・W・ヘンダーソン「テクストを自在に用いる ―コロサイの信徒への手紙の〈家族のあり方〉に見る解釈の枠組み―」(インタープリテイション84号 「他者」へのまなざし)





特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税






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