デイヴィッド・バレル
「一神教の対話 ジャン・ダニエルーの宣教論再考」
「一神教の対話 ジャン・ダニエルーの宣教論再考」
(86号「対話を求めて」より)
伝道についての聖霊本位の自由な考え方は〔ダニエルーの主張から〕三〇年の時を経たのち、カール・ラーナーによるウェストン神学校での有名な「世界教会」講義において、はっきりとした後押しを得ることになる。
手短に言えば、ラーナーは十分な省察がないことを「神学の危機」と呼び、それを教会として認識するよう呼びかけることで、西洋のキリスト教史の中でダニエルーによる聖書の図式が作用していたことを確認したのである。
ラーナーは後七〇年と一九七〇年という象徴的な区切りの年号の間に二つのそうした「危機」を挟んで併置し、伝道運動を含む西洋キリスト教の一九世紀間を効果的にひとまとめにした。
後七〇年という年はエルサレム神殿の破壊とヘブライ的キリスト教の差し迫った終焉、ギリシャ世界と異邦人への伝道の文化の始まりを思い起こさせる。
一九七〇年は現代の状況を表現している。
すなわち、第二バチカン公会議で《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》が発布され、脱植民地主義が始まり、ラテン典礼が「廃止」されて以降ということである。
ラテン典礼はローマ・カトリックにとってはモスクがメッカに向かっているようなもので、それがほぼ行われなくなったということはローマという典礼上の中心点(キブラ)が失われたということであった。
結果として、姿勢、音楽、言語において典礼上の文化受容が盛んになっていた。
後七〇年における最も重要な問題は異邦人の男性が聖霊を受けるにあたって割礼が必要とされるかどうかであった。
「個体発生は系統発生を繰り返す」〔ヘッケルの「反復説」。動物の発生の過程は、その動物の進化の過程を繰り返す形で行われるとする説〕として、割礼は神の元々の契約との連続性に適合した徴という議論も可能であった。
しかし、共同体はパウロとともにそれを必然ではないと決めたのである。
その後、一九世紀もの時を隔て、キリスト教と他宗教の関係を植民地主義の束縛から解き放たれたものとして作り上げるにあたって、《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》は元々の神の契約の民に関して広まっていた「代替論」の教えを廃しただけでなく、どのように起こるにせよ、すべての民が救済の恵みに与れるということを明白に断言する伝統の一面を確固として是認したのである(全人類の救済というのモチーフは文化的、政治的な文脈によっては排他的な姿勢を強めることもあるが、キリスト教の共有されている伝統のうちには常にある)。
第二バチカン公会議の直後、この非常に斬新な文書《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》は会議そのものから出された。
「新神学」運動が文書を準備するということはほとんどなかった。
たしかに、ルイ・マシニョンがイスラム教について先見的な意見を述べ、ダニエルーもユダヤ教に関して意見を述べていたわけだが、《キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言》の発布は教父時代以来、支配的とはいえないとしても非常に大きかった代替論という重圧を考えれば、ラーナーに「神学的危機」の鍵となる実例を与えた。
ラーナーによれば、この新しい視点においてキリスト教徒は、他の宗教の人々を対等に見ることができるのであり、教会の「政権交代」のたびに他の宗教を信じる人々との接し方を変えるということではない。
植民地時代の欺瞞から解放されて、聖霊はより大きな行動の自由を享受できる。
その上、ラーナーが西洋のキリスト教史を紀元後七〇年と一九七〇年という括弧で括ったことには、相対性理論がニュートン力学を限定的な事例として受け入れたのと同じように、一六世紀をより大きな劇場で文脈化するという副次的な効果もあった。
これによって教会一致運動の堰が切られ、今日あらゆるところで見られるように、教会一致運動と異なる宗教間の交流は気質的に関連していることが示された。
対話を求めて
第86号 2014年9月
定価2000円+税
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