2014年10月19日日曜日

復活の出来事における現実




トーマス・W・カリー
 テサロニケの信徒への手紙1 五章12-24節
(テクストと説教の間)
84号「他者へのまなざし」より


 

復活の出来事における現実は

「悪をもって悪に報いないようにしなさい。

いつでも互いにすべての人に対して善いことを行うようにしなさい」(Iテサ五15)


という教えの中により明快に見ることができる。

この忠告は道徳上の教えとしてはあまり効果的ではないように見えるかもしれない。

自虐的な自己抑制や天使のような無私無欲といった、人間の力を越えた何かがなくては、そのような「善い行い」は成り立たないように見える。

さらに悪いことに、単にそれを人間にできないことはないという意味に理解すれば、他の人や自分自身に「善い行い」を実行するということは、その自虐的傾向や私利私欲のなさがそのまま死に繫がる。

しかしながら、この言葉はこの個所に見える勧めと同様、間接的にイエスのことを語ることで、ともにある人生という奇跡を描いている。

つまり、(その死と復活を含む)イエスの生涯がテサロニケの信徒たち(そして、わたしたち)にとって「当然」ではない、想像以上に恵み溢れる現実である行いに特徴づけられる共同体を生み出したのだということがそこでは語られているのである。

そうでなければ、「常に喜んでいなさい。休みなく祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これがあなたがたに向けてイエス・キリストにおいて示された神の意思だからです」という命令をどう理解できるだろうか。



パウロが描く人生が十字架にかけられ、復活した主において見出される人生である限り、これらの節(ロマ一二9-13、フィリ四4-7と並行)がここで扱っている個所の中心になる。

十字架の下でわたしたちに惜しみなく与えられる赦しは、わたしたちのあまり「立派」ではない人生をそこに露わにしながら、その人生を単なる「立派なもの」ではなくする。

全く同様に、赦しとは復活の出来事それ自体が「あなたがたに向けてキリスト・イエスにおいて」可能とする喜びに満ちた赦しの源から気前よく与えられるときにだけ他の人にも広がるものでもある(18節)。

ここでの「喜び」と「恵み」は単に語源が同じ語というだけではない。

この二つの語はその善良さにおいて恐るべきことであるキリスト理解における現実を描いているのである。








特 集

「他者」へのまなざし

第84号 2014年3月
定価2000円+税









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