使徒パウロは異教に多くの「神々」と多くの「主」がいることを
- 「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
- また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」
というキリスト者の告白と対比している(Ⅰコリ八4−6)。
多神教については〈シェマ〉(申六4)および古典的なヤハウェ信仰における唯一の神が語られる。
とはいえ、どういうわけか、神のこの唯一性はイエスを(神と同義語である)主と告白することと両立している。
これはキリスト者が父なる神とイエスという二柱の神を礼拝し、十戒の第一戒に違反しているということではないのだろうか。
また、第一戒は第二戒と密接に関係しているのだから、まさにキリスト者こそが偶像崇拝者であることを意味することにもならないだろうか。
この非難は中世のユダヤ人によるキリスト教への反論によく見られたものであり、ラビ伝承の中にも潜在する。
イエスを神的な者として崇拝するキリスト者は第一戒に反しているとして、旧約聖書、その後のユダヤ教およびキリスト教の伝統において第一戒と密接に結びついている〈シェマ〉における神の唯一性を侵していると考えるユダヤ人が新約聖書には登場する。
例えば、ヨハネ福音書では「ユダヤ人たち」が二度——神に対する冒瀆の罰として(レビ二四16)——イエスを石打ちにしようとしている。
イエスが自分を単なる人ではなく、神に等しい者としたからである(八58—59、一〇31—33。五18参照)。
同様に、マルコ福音書二章5—7節では律法学者たちが中風の人の罪を赦したイエスの言葉に憤慨し、「唯一の方、すなわち神以外の者は誰も罪を赦すことはできない」のだから、神への冒瀆だとイエスを非難している。
この言葉は〈シェマ〉を思い起こさせようとしているのであろう。
マルコ福音書の後段では、大祭司がイエスは神を冒瀆したという非難を繰り返しているが、これは神の右手に自分が立っているとイエスが預言したからであった。
自分を神に等しいとしたのである(一四61—64)。
パウロが偶像崇拝に関する言葉と「唯一の神、唯一の主」という言葉を並置したのは偶然ではなく、イエスを主と宣言するということは逆説的なことであり、潜在的に躓きとなるのだという慎重な認識を示そうとしていたからのようだ。
キリスト者が偶像崇拝の罪を犯していないと言えるのは、イエスが唯一の神から切り離された神的存在というのではなく、唯一の神からこの世界の創造と回復のために遣わされた宇宙的な代理人——旧約聖書における知恵やフィロンにおけるロゴスのような存在——であるからだとパウロは論じているのかもしれない。
ヨハネ福音書ではこの「天に二つの力」という問題について、〈シェマ〉を再解釈してイエスを父と子の同一性に矛盾しないものとし、父と子は「ひとつ」であるという同様の解決法が示されている(ヨハ一〇30、一七11、22—23)。
ジョエル・マーカス「新約聖書における偶像崇拝」47-48頁 (インタープリテイション81号「ほかに神があってはならない」)
特 集
ほかに神があってはならない
第81号 2013年5月
定価2000円+税
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