現代文化において、少なくとも北米においては、「イメージ」といえば、政治家や自己宣伝をする各界の指導者が自分をよく見せようとするときに使う言葉ととられるが、今号のインタープリテイションではそれとは非常に異なる意味におけるイメージ(像)の概念を探求していく。
最初の二本の論文は、特に創世記の創造物語に描かれている人類における神の像に焦点を当てている。
W・シブリー・タウナー教授は人間が神の像において創造された被造物と描かれていることの意味をどう解釈すべきかを検討している。
同教授はカール・バルトを引き合いに出しつつ、人間における神の像は人間の性質をその全体性が神、自然、そして両者相互の正しい関係に左右される相関的な存在として描いていると結論づける。
そこでは神の像が原罪ゆえに失われたと強調する解釈よりもずっと肯定的で力のある概念となっている。
デボラ・クラウス教授は硬貨に描かれるカエサル像を出発点に、イエスの教えとその後のパウロおよびその信奉者の手紙における発展の中で神の像を分析している。
神の像はこの世の帝国すべてに立ちはだかるものとしてイエスが描いた神の支配というもうひとつの世界の表象であった。
神の像における人間はすべてをその創造者に負っている。
残り二本の論文は、わたしたち人間がどのように現実を思い描き、どのようにして自分にとっての神の像と自分自身を形成しているかを注意深く見ていくことで、神学的に神の像という概念に近づこうとしている。
ダグラス・オッターティ教授は時間と空間の膨大な広がりについての科学的な知識が急速に増大している現状に照らして見るとき、神学における神の像、神の世界、そしてその中での人間として地位は見直されるべきなのではないかと挑発的に論じていく。
アン・アステル教授はローマ・カトリックに改宗したユダヤ人殉教者エーディト・シュタインについて記している。
同教授によれば、シュタインはヒトラーの死刑執行人の手による死に直面したとき、自身の自己イメージとして探し求めた神の像を十字架の聖ヨハネの著述の中に見出したという。
本号の表紙を飾るヨーク大聖堂の扉に刻まれたアダムとイブは彼らの創造者であり、われわれの創造者である神の手に安全に、そして当然のこととして包まれている。
それは政治家や自己宣伝をする各界の指導者の狡猾な能力を越えたところにある現実を描き出し、人間であるということが何を意味するのかについて神学的な真理を指し示している。
ジェームズ・A・ブラシュラー
サミュエル・E・バレンタイン
特 集
神の像
第80号 2011年7月
定価2000円+税
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