2014年1月17日金曜日

81号「ほかに神があってはならない」まえがき



現代文化の多くはカルヴァンがおよそ五〇〇年前に『キリスト教綱要』の中で「人間の本性は永久に偶像を造り続ける工場だ」と言ったのが正しかったことを確認させてくれる(第一編11章8節)。

エンターテイメントやスポーツなどの娯楽産業が生み出す偶像から、個人の繁栄や国の安全の名のもとに忠誠を求める経済や政治の上での偶像まで、信仰的であろうとしている人は「わたしをおいてほかにいかなる神もあってはならない」と戒める聖書の神に対抗して誘惑を仕掛けてくる強力な敵と日々遭遇している。

今号の『インタープリテイション』はこの戒めの聖書における基礎とその神学上の重要性について探求していく。

 

ディーン・マクブライド教授は「ヤハウェのみ」の排他的礼拝が古代イスラエルの信仰の本質であるとし、それを「正統ヤハウェ信仰」と呼ぶ。

同教授は神とモーセの声が混ざりあっている法を適切に理解するための解釈上の鍵として、この規範的な命令がどのように機能しているかを論じ、「主なる神の個別性とイスラエルとの独特な契約関係における親密で感情豊かな相互関係を強調することで、寛大な一神教という露骨な落し穴を回避する一方、偶像崇拝の多神教を避けることもできる」と結論する。


新約聖書は偶像崇拝に対する旧約聖書の戒めをもとにしているとジョエル・マーカス教授は考える。

特に使徒パウロの書簡では、偶像崇拝は性的な不道徳と金銭への欲と関連づけられている。

同教授は「『カエサルのものはカエサルに、アフロディーテのものはアフロディーテに、401Kのものは401Kに』がなすべき正しい敬虔なこととされる状況がある。

しかし、この世界の財に対する適切な評価が限界を越え、偶像崇拝になってしまうような状況もある」と論じている。


レノ教授は古典的なキリスト教思想における驕りと偶像崇拝の関係を検証する。

聖アウグスティヌスは驕りという罪において現れる過度の自己愛を偶像崇拝に結びつけた。

若き日のアウグスティヌスが梨を盗むという有名なエピソードに啓蒙時代の人間中心主義における驕りに満ちた自己主張を関連づけ、「自身のうちに安息を見出すという精神上の計画は熱に浮かされたようにして仕える偶像を作ることにつながったりしないのだろうか」と同教授は問いかける。 


その次の論文でナンシー・ダフ准教授がその問いに応答する。

大統領の公式声明や福音派の大統領報道官が用いるレトリックが他の神を拝んではならないという戒律への違反になっていると同教授は論じている。

「合衆国にあるすべての教会はリベラル派であれ保守派であれ、なによりもまず他に並ぶもののないイエス・キリストの十字架の下にあるのだということを知らしめ、福音書の完全性を擁護するために力を合わせる必要がある」と著者は結論している。


J・A・ブラッシュラー
S・E・バレンタイン




特 集

ほかに神があってはならない

第81号 2013年5月
定価2000円+税
 

『インタープリテイション』は各地のキリスト教書店でお求めいただけます。お近くにない場合は*こちら*からもご注文いただけます。継続講読も承ります

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