2014年1月3日金曜日

82号「エレミヤの肖像」まえがき



インタープリテイション82号

エレミヤの肖像




まえがき

A・ヘッシェルは「預言者の根本的経験は神の感じることを分かちもつことである」と述べた(『イスラエル預言者〈上〉』教文館、五九頁)。まさに今号「エレミヤの肖像」を始めるに相応しい言葉であろう。文学上の登場人物としてのエレミヤは「われわれの罪がわれわれ自身を告発する」とき(エレ一四7)、「とこしえの愛で」愛する神(エレ三一3)の複合的で威厳のある神学上の肖像をどのように体現するのか―。今号はそれを論じる四つの論考からなる。

ルイス・スタルマンはエレミヤ書を「意味作成図」として説明する。拒絶し難く、しばしば不可解なものとして経験される苦難と喪失を古代および現代の信仰共同体は信仰のもとに、またしっかりと希望に繋がっている「率直の精神」をもって、いかに乗り切るべきかがそこに示される。「エレミヤの希望は危険であり、破壊的であり、人を戸惑わせる」。「勝利の保証はほとんどなく、苦難を免れる可能性はそれ以上に小さい」。そのような希望は古代イスラエルが期待していたものでも、現代のわれわれが望むものでもないかもしれない。しかし、スタルマンがはっきりと示すように、それがエレミヤにもたらされた神の言葉が伝える不変の遺産なのである。

クリストル・マイヤーは「何が預言者を預言者たらしめているのか」という単純ではあるが重要な問いから議論を始める。エレミヤ書における「律法」という語の用例を焦点に、悔い改め(エレ七5―8)、安息日遵守(一七19―27)、公正と正義(二二1―5)、社会の中で虐げられている人々への配慮(三四13―17)をめぐって、エレミヤの説教者、教師、神の命令の解釈者としての役割に慎重な釈義が施され、結びには「トーラーの教師としてのエレミヤ、特にその社会的価値に焦点を合わせることは現代の読者に聖書における神の命令への義務について考えさせる」と述べられている。

キャスリン・オコナーはトラウマと災害の研究を用いて、エレミヤ書一一―二〇章におけるエレミヤの嘆きに新たな解釈を試みている。なぜこの嘆きは苦難を神の正当な罰として正当化する罪の「告白」として読まれることが多いのか。オコナーはこの解釈を放棄することなく、エレミヤの視点から、その解釈は心的外傷を受けた受難者を将来において積極的な方向へと動かすには「牧会的にも神学的にも十分でない」と見る。「生存者の模範」としてのエレミヤは「再び生きていくために嘆く」。真実を語るためには「公平な審判者の面前で、怒りと絶望と喪失を表現」しなければならないが、そんなときでさえ神にしがみついていくのだということをエレミヤは嘆きを通して信仰の共同体に示すのである。

ピート・ダイヤモンドは〝終結〟に抗う多声的なテキストに関するミハイル・バフチンの理論を通して、エレミヤ書の中心人物であるエレミヤと神を解釈している。エレミヤ書におけるレトリックは、ひとつの声が真実をすべて話し、独白によってテキストを確定するというのではなく、読む人に真の対話を示すという戦略をとっている。ダイヤモンドがこの創意に富んだ論考で示すように、神、預言者、そしてわれわれ読者は相互にこの対話の維持に力を注ぐべきなのである。この視点においてエレミヤ書の「解釈の試み」を示し、また右手に聖四文字(ヤハウェ)の入れ墨があるミステリアスな人物とダイヤモンド自身が交わす想像力に富んだ結びの「対話」も示しながら、その論考はエレミヤ書の「最初のページを開き」、エレミヤ書を改めて解釈し直すことへの誘いで終わる。

J・A・ブラッシュラー
S・E・バレンタイン



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