2014年11月16日日曜日

友なるイエス  ヨハネにおける友情



ジョン・フィッツジェラルド
「キリスト教徒の友情
(87号「フィリピの信徒への手紙」より)



ヨハネによる福音書では、イエスが告別説教と呼ばれる別れの言葉の中で「私があなたたちを愛したように互いに愛し合う」よう弟子たちに命じている(ヨハ一五12)。

イエスは次のようにその命令の意味を明らかにする。


友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

僕は主人が何をしているか知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 (ヨハ一五13―15)



ヨハネによる福音書のイエスはこの言葉の中で一般に友情と結びつく二つの考えを述べている。

ひとつは、友人とは喜んで代わりに死ねるほどに相手のことを気に留めている人という考えである。

この理解に立てば、ヨハネによる福音書におけるイエスの死は友人のための死ということになる。


友人のもうひとつの一般的な考えは、個人的に最も秘密にしていることでも安心して明かせるほど信頼している人というものである。

しかしながら、完全に秘密を打ち明けるまでには友情関係に重要な変化が見られる。

ギリシャ・ローマ世界における標準的な友情理解では、事実の暴露が友情の前提となっている。それは今日と同様である。

通常、秘密や機密情報をたまたま知り合った人に明かしたりする者はいない。

信頼に足る人とは信頼を得た人ということであり、秘密が完全に明かされるのは、そうした信頼される、信頼に値する個人に対してのみなのである。

第四福音書ではイエスと弟子たちの交わりの期間が共観福音書より長く設定されているため、そうした標準的な論理が適用されると考える人もいるだろう。ヨハネによる福音書のイエスが弟子たちに

「今や三年間ともに過ごしてきた。

そのあいだに、わたしはあなたへの信頼を学んだ。わたしたちは友人になった。

今や友人なのだから、父から聞いたことすべてをあなたたちに打ち明けよう」

と言うのを期待する人もいるかもしれない。

しかし、第四福音書のイエスはそうは言わない。

ペトロはイエスを否認し(一八15―18、25―27)、他の弟子たちもイエスを置き去りにしたように(一六32)、弟子たちは自分たちがまったく信頼に足らない者であることをすぐに露わにしてしまう。

そうではなく、イエスはこの標準的な論理を逆転させ、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と言う(一五15)。

ここでの秘密の暴露は友情を前提するのではなく、友人関係をつくり出している。イエスは信頼するに足らない弟子たちにすべてを明かすのである。

神学的に言えば、イエスと弟子たちとの間に友情をつくり出すのは、明示された美徳であるとか弟子に対する信頼とかではなく、恵みなのである(一17)。

イエスは従う者を友として扱うことによって、弟子たちを友人とした。イエスが父の言いつけを守り、それゆえに父の愛のうちに留まったように(一五10)、弟子たちのイエスとの継続的な友情関係は喜んでイエスの指示に従うことに拠っている(一五14)。






特 集

フィリピの信徒への手紙

第87号 2014年12月
定価2000円+税








 

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