発 売 中
イースターの祈り
第88号 2015年3月
定価2000円+税
まえがき
イースターを特集する今号は先の「アドベントと典礼」(83号、二〇一三年刊)に続いて、教会暦に沿った説教を探求するシリーズの第二弾である。
来年には「レント」の特集が予定されており、このシリーズは「ペンテコステと三位一体の主日」「通常の時期の礼拝」と続いていく〔英語原書では既刊〕。
クラウディオ・カーヴァルヘスとポール・ガルブレイスの論考では、イースターの聖書と教会暦における発展の経過が探求され、イースター周辺の神学上のテーマがアメリカ合衆国、メキシコ、グアテマラにおける会衆の生活の中に表現される多様な形と結びつけられている。
そうした「想像図」がイースターの中心にある確信を具体化していく。
「創造が繰り返され、わたしたちの過去がやり直され、わたしたちの現在が固くつかまれ、わたしたちの未来が約束を手にする」のである。
空の墓を訪れた女性たちの沈黙に注目するとき、マルコによる福音書一六章1─8節はイースターの歓喜を宣言するものとしては奇妙なものに見えるかもしれない。
しかし、クリスティーン・ジョインズはこのテクストが古代の教会にも現代の教会にも重大な役割をもつことを論証している。
共同体を招き入れるには、マルコ福音書のテクストを読むことだけでなく、イースター劇(『墓所の訪問』)や、音楽(バッハのカンタータ第31番)、芸術上の描写(パリのサンドニ大聖堂の聖遺物箱の覆い)を例に、復活の出来事に参加し、それを聞き、目で見るという方法もあることが示される。
ジョインズはイエスに油を塗るために墓へ来た女性から聞こえる「沈黙の音」が「たくさんのノイズを生じさせてきた」ことに注目している。
トーマス・トロウガーはイースターが「説教や祈りよりも音楽で」多くを伝えられる聖なる日のひとつであることを思い出させてくれる。
イースターの聖歌「主キリストは今日復活する」の中で用いられる現在形の動詞は「讃美歌が歌われているまさにそのときに(キリストは)復活するのであり、そのとき、その場所で悲しみと絶望の世界は繰り返し打ち砕かれる」ことを明言している。
そのような讃美歌の歌詞とメロディは「信仰が考古学の方向へ向きがち」という苦悩から教会を救い出してくれる。
ウルリヒ・ルツによれば、新約聖書におけるイエスの復活は「中立的な証人が立てられるような空間と時間の中で起きた目に見える出来事としては描かれていない」。
しかし、芸術家たちは復活を表現するために紀元一〇〇〇年までには「無敵の十字架」、鷲、不死鳥などのシンボルを用い始めた。
中世には典礼的な作品の中に、より象徴的な表現が現れ始め、それが徐々に広く絵画の世界に見られるようになっていった(グリューネヴァルト、エルグレコ、レンブラントなど)。
現代の宗教芸術は復活をより抽象的、非具象的な表現に逆行させている。
ルツは芸術作品が礼拝において効果的に使われ、イースターのメッセージを忠実な信徒たちが見て、そして触れるような「表現」はどうすれば可能なのかを詳細に描こうとしている。
多くの牧師は「イースターは説教者には大変タフな一日である」というデイヴィッド・バトリックの言葉に共感するのではないだろうか。
復活を語るテクストには歴史的な根拠があるのだろうか。
パウロは霊の体という言葉で何を意味しようとしているのか(Ⅰコリ一五44)。
説教をする者はそうした疑問と対峙して、「説教の神学者」にならなければならない。
「半分しかまとまっていない」理解が会衆の意識の中に根づくことを願いながら、古代のテクストは教会の神学議論によって尖鋭化した現代における意味へと翻訳されていく。
バトリックが言うように「説教者に要求されている職務とはこうしたものなのである」。
サミュエル・E・バランタイン
0 件のコメント:
コメントを投稿